第2話 銀木犀の宮



 光るイチョウの庭は苔むした石壁に丸く囲まれていて、石壁の隅に金属で出来た頑丈そうな扉があった。

 ルキアン様はわたしを誘導しようとしたのだろう。わたしの手を取り、そしてすぐさま「うわ。指先ガサガサだな」とおっしゃった。


 修道院で、わたしは『神から祝福を与えられた娘』として扱われていた。

 化物扱いよりはずっとマシだったけれど、普通の修道女見習いの扱いもされず、食事作りや洗濯や畑仕事などの下働きをしなくていいと院長様から言われていた。

 それはそれで寂しく、自ら率先して手伝いをしていた。

 その結果がこの手荒れである。


「あ、悪い。人間とはいえ、女の子だったな。ガサガサとか言われるのは嫌だったよな?」


 ルキアン様はふと気が付いたように、そうおっしゃった。

 わたしは首を横に振り、「平気ですよ」と答えた。


「シェリ、お前はいくつになった?」

「十三歳です」

「へぇ。十三にしては小さいな」

「ルキアン様はおいくつですか?」

「俺も十三だ」

「同い年ですね」

「俺の宮に着いたら、まずはシェリに食事だな」

「食事、ですか?」


 本当にご飯が貰えそうで、わたしのお腹は期待にきゅるきゅるるんと大きな音を立てる。……恥ずかしい。


 ルキアン様は「ブハッ」と顔全体で笑った。太陽のように鮮やかな笑顔だった。


「シェリの腹の虫、すっげぇ元気だな。じゃあ、早く移動するか」


 金属製の扉を潜り抜けた先には、また庭があった。

 それも巨大庭園という感じで、選定された樹木や花が咲き、目に鮮やかだ。

 赤や白の鯉が泳ぐ池が複数あり、それらを繋ぐために小川や小さな滝があった。朱塗りの橋など初めて見る。

 こんなに手の込んだ美しいものは、きっとキラ皇国の皇城にだって無いかもしれない。ちゃんと見て回ったことは無かったけれど。


 わたしはまるで桃源郷のような庭を夢見心地で歩き、ついうっかり夢中になりすぎて転びかけ、ルキアン様から支えられた。

「人間にはそんなにこの庭園が珍しいのか?」とルキアン様が不思議そうに尋ねてくるので、「はい。もちろんです」と、わたしは答えた。


 ルキアン様が暮らす銀木犀の宮は、見たことのない作りの、白い漆喰塗りの立派な屋敷だった。屋根に輝く鱗のようなものは瓦というらしい。

 しかもこれほど大きな宮だというのに、暮らしているのはルキアン様と数人の使用人だけで、「父上が暮らす白銀城とは比べものにもならないほど小さいが」とのこと。なんともまぁ、凄いことです。


 ルキアン様に連れられて宮の玄関に入ると、すぐに奥から人が現れた。

 見た目は普通のお婆さんのようなのだが、その頭には狐の耳を生やしていた。これが異界か、とわたしは目を見開く。


「ジャスミン、大イチョウの庭で人間を拾った。どうやら下界の人間たちが『神様へのお輿入れ』をやったらしい」

「まぁまぁ、オホホ。人間はかくも愚かなことですわ。それで、その小娘はどうなさるおつもりですの?」

「俺が飼う!」


 ジャスミンと呼ばれた狐耳のお婆さんは、ニコニコしていた笑顔を真顔に戻した。


「ルキアン様、人間は弱い生き物ですのよ。あたたかい寝床を用意して、雑食ですから、肉や野菜など色んな種類のものを一日三回やらなくちゃいけません。あと、おやつも必要ですよ。お風呂に入れて、散歩もさせて、病気になったら看病しなくてはいけません。歳を取ったらきっとボケて、歩くことも難しくなるでしょう。介護してやらなきゃいけません。ルキアン様にそこまでの覚悟はありますか?」


 すごい、わたしの老後の介護の話まで出てきた……。

 神様に喰われて死ぬはずだったわたしが、ペットとしてお世話を受けて長生きするかもしれないなんて。

 この方たちがどこまで本気で喋っているかは分からないけれど、キラ皇国を出た時には考えてもいなかったことばかりで、わたしは聞いていて混乱した。


 ルキアン様は、きっぱりと言った。


「頑張るつもりだ。だからシェリを飼う!」

「あらあら、名前まで聞き出してしまったのですね。仕方のない……」

「ジャスミン、シェリの食事を用意してくれ」

「はい、承知いたしました。シェリのお部屋はちゃんとご自分で案内なさってくださいね」

「分かった」


 ジャスミンさんはやれやれと首を振ると、屋敷の奥へと戻って行った。


「じゃあ、シェリの部屋を決めるか。靴は適当に脱いで上がってくれ。俺の宮は土足禁止なんだ」

「はい」


 艶々に磨かれた黒い木の床の上を、ルキアン様は当たり前のように素足で歩いていく。

 わたしは急いで靴を脱ぎ、ルキアン様の後ろを付いていった。


「俺の部屋の側でいいよな。シェリは人間で弱っちいから、日当たりの良い部屋をやろう」

「あの、ルキアン様。わたし、どこでも寝られるので……」

「どこでも寝られるんなら、日当たりの良い部屋でだって寝られるだろ」


 ルキアン様はあっけらかんとした表情で言うと、わたしを屋敷の奥へと連れて行った。


 この人は台風みたいだ。

 わたしをもみくちゃにして新しい世界へと連れて去っていく、激しい台風だ。





 わたしはルキアン様のお隣の部屋を貰うことになった。

 修道院でも一応個室だったが、それとは比べられないほどに広い。

 そういえば修道院にあったわたしの持ち物は、どうなったのだろう。皇城から迎えが来て慌てて修道院をあとにしたので、部屋の中は手つかずの状態だった。

 まぁ、数枚の着替えと聖書しか持っていなかったので、修道院の誰かがきっと処分してくれるだろう。


 与えられた新しい部屋は、草で編まれた緑色の絨毯が敷かれていて、とても良い香りがした。ルキアン様曰く「ゴザだ」らしい。

 隅には漆塗りの箪笥と書机があり、「それもシェリにやるよ」とルキアン様が言う。


「箪笥の中身も買ってやらなきゃな。書机は本を読んだり手紙を書いたりするための道具だから、文字も教えてやろう。このルェイン大帝国の文字をな」


 わたしはぽかんとした表情でルキアン様を見上げた。

 どうしてルキアン様は、見ず知らずのわたしにここまで親切にしてくださるのだろう。

 ペットとして飼いたいと言っていたけれど、それは残飯の残りを犬猫に分けてやって、飽きたら手放すような存在ではないのだろうか。

 少なくともキラ皇国ではペットはそのような扱いだった。


 この時のわたしはまだ、ルキアン様が抱える寂しさに気付く由もなく、ただそんなことを考えていた。


「ほら、シェリ。庭を見ろ。銀木犀の宮ご自慢の大銀木犀だ」


 中庭に降りることの出来る大きな窓があった。

 格子状の木枠の中に、硝子のようなものがはまっている。「これは水晶硝子戸というものだ」とルキアン様がおっしゃった。初めて聞くものだった。


 水晶硝子戸というものの向こうに、中庭が広がっている。その真ん中には巨大な銀木犀が植えられていた。

 濃い緑色で細かいトゲがある大きな葉っぱがわさわさと茂り、その間を縫うように白いの小さな花をぶどうの房のようにたくさん咲かせている。微かに甘い花の香りが鼻先をくすぐった。


「きれいで、とっても大きな木ですね」

「ああ。この木は季節など関係なく、一年中花が咲き続けるんだ。『狂い咲きの銀木犀』とも呼ばれている。だが『狂い咲き』扱いされている大木が、他にも城内にあと四本あるんだがな」

「まぁ。そんなに」

「シェリが先ほど見た大イチョウもその一つだ」

「そういえば異界の門の中にもイチョウの葉があって、光っていました」

「何か、力のある木なのだろうな」


 しばらく銀木犀を眺めていると、先程のジャスミンさんがお盆を運んで来た。


「ルキアン様、シェリの食事をお持ちしました」


 わたしは慌てて彼女からお盆を受け取った。


「あ、あの、ごめんなさいっ。食事を用意していただいて」

「なんですか、この子は。ルキアン様、ちゃんと躾けてくださいな。こういう時は『ありがとうございます』と感謝をすることを」

「ああ、そうだな。シェリ、ジャスミンにちゃんと笑顔でお礼を言うんだ」

「笑顔……」


 そういえば、笑った記憶なんて全然ない。だって、笑いかける相手がいなかった。

 わたしを敬う人たちも、わたしを畏れる人たちも、誰もがみんなよそよそしくて遠かった。


 わたしはどうにか頬の肉を動かしたが、ルキアン様に爆笑された。ジャスミンさんにも笑われた。


「これは酷いだろ、シェリ!」

「まぁ、なんと不細工でしょう。久しぶりにこんなに笑いましたよ。あぁ、涙まで出てきました」


 涙を拭いつつ次の仕事のために退室しようとするジャスミンさんに、わたしはなんとかお礼を言った。


「食事を作っていただき、ありがとうございました」

「……ルキアン様のお傍にいて、無聊をお慰めしなさい」

「はいっ」


 脚付きのお盆を畳の上に置くと、ルキアン様がわたしの隣にどかりと腰を下ろした。


「おっ、ジャスミンの粥だ。こいつは鶏や干した貝柱が入っていて美味いんだ。それに揚げパンか。これも粥に一緒に入れてふやかして食べると美味いんだ。さっ、好きなだけ食べろ、シェリ」

「ルキアン様」


 一番お礼を言うべき人に言っていないと気が付き、わたしは頬の肉をなんとか笑顔に見せようと持ち上げながら言う。


「わたしを拾っていただき、本当にありがとうございました」

「ブハハッ! 本当に笑うのが下手くそだな~、シェリは」


 ルキアン様の笑顔はわたしと違って、キラキラ輝いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る