アンヌと青年たち

 これほど長い時間走り続けることなど私には経験のないことだった。

 昔から片頭痛を言い訳に派手な運動を避けてきたせいで若くしてインドア人間に陥ったわけなのだから無縁も当然。とっくに息は荒くなっている。

 肺はもうとっくに限界だと悲鳴を上げている。水分とベッドの温もりを欲してやまない。

 それなのに、この両脚は私の脆弱さに構わず駆けるのを止めてくれない。

 マラソンに全てを賭けたランナーのよう。見えてきたゴールテープを目指して執念だけで走り続けている。今の私はその逆。心が休息を求めているというのに、この身はどこまでも駆け抜けられそうな気さえするのだ。

「確か……この、あたり……」

 激しい動悸を堪えて、光線の落下地点と思われる人気のない水路に到着した……はずだった。あれほど迫力ある閃光に撃たれたはずのこの場所には一切の損害がなかったのだ。

 このあたりは整備された水の流れもあってちょっとした避暑地にもなっており、昼間には子供たちが水遊びに興じる光景をよく見る。

 無論、このような暗い時間帯に子供たちが留まっているはずがない。きっと今頃は両親や隊員たちに従ってとっくに帰宅済みのはず。

 強いて言えば、店に入るペンタもないようなおじさんたちが隊員たちの目を盗んで密かに乾杯をやっていることがあるくらいだろう。)

 もっとも、つい先程のような地震(私には空が揺れているように感じた)のあとでは、水流のある場所は誰もが避けて当然。

 私のように妙な好奇心に駆られて光線の行方を追いかけた愚者が他にいなければ、ここに私以外の人影などあるはずもない。

 ……だから、よりにもよって彼らが先回りをしているなんて思いもしなかったことだ。

「あ、あなたたち!」

「クソ!嫌なことは続くか!」

 その声の正体を知っている。地震前までのんびり過ごしていた私でも彼らを前にすれば流石に憤りが呼び覚める。

 忘れるわけがない賊の二人。今朝とは違い、山賊を思わせる露出の多い装いの上からティフェレット国の成人がよく着るデザインのコートを重ねていた。

 フードで顔を隠しているが見破るのは造作もないこと。屈強なガタイを、醸し出す野蛮な雰囲気を誤魔化すことは出来なかったようだ。

「チッ!」

 扉を塞いでいた方が私を見て慌てだす。私と彼らの間には傾斜の坂があるのみで向こうは橋下の壁に追いやられているため逃げ場はない。転倒を怖れず直進すれば一気に追い詰めることができる。

 しかし、明らかに様子がおかしい。

 慌てる彼はまだマシだが、共犯者の方はその場に倒れ込み背中を庇うように蹲っていた。何が起きているかはこの距離では分からない。街灯も彼らのいる地点には光が射さない。

 ……直接確かめてやる。何より報復と、宝物の奪還をしなくてはならないし。

 二人を逃がさないために睨み付けながらジリジリと坂を下る。苦悶中の方は自力で起き上がることもできないほど弱っているらしく、私を警戒するもう一人が担いで逃げるしかないようだが……それが叶うのは私があいつに敗北した未来に限る。

「来るのか?別にいい。近衛はさっきの揺れでお忙しいところだろう。噂の暗殺連中もここらには潜んでいない。分かるな?」

「う……」

 彼の言葉を受けてようやく怖れを知る。恨みがあるのは分かるが、娘一人に何ができるかと彼は聞いているのだ。

 勝算はない。恨みは怖れに相殺され、彼を睨む眼差しにも威圧感なんてない。

 何よりも戦術が欠けている。今から一対一の実力勝負が始まろうというのに、私には彼を制圧するための武器がない。まして、たかが町娘を一人相手取るだけだというのに向こうは懐のナイフを取り出すものだから敵わない。

 単なる脅迫のつもりか、それとも本当に私を殺すつもりでいるのか。おそらく非国民なのだろうが、向こうは向こうでそのようにせよと訓練を受けているのだろう。

 そも、彼らは何のために空き巣を働き、街を調査していたのか見当がつかないし、本気の度合いさえ知る由もない。

 決定的に情報が欠けている。私はそんな相手をどうすればいいのか。

「おい!何だそれは!何故向かってくる!」

「カードを……返して……」

 憎き犯罪者とはいえ理性は足りているような印象を受けた分、不意の怒声に心臓が跳ねた。

 ……それでも退くわけにはいかない。

 後ろで倒れている方の傍に転がっているカバンの中に私の大切な思い出が仕舞われているかもしれないと思ったからだ。要するに、過去への執着だけでこれだけ粘れている。

「カード?ああ、無価値だったアレか。ホルダーの方は質屋に出したが、あれは売れなくてな。捨ててもよかったが念の為に持ち帰っておくかと悩んでいたところだ」

「持ち帰るって、どこまで?」

「どこまで……だと?何だ、やっぱりバレるものか。クソ!」

 私の素朴な疑問によって自分が非国民であることを気付かれたと察したか。唾を吐き捨て、ナイフを構えながら私の方へ近づいてくる。

 しかし生憎のところ、私にはこの国の侵略者よりも、その無価値と愚弄された紙きれが大事なのだ。

 売られてしまうと取り返すのにペンタがいる。いくら事件の被害者とはいえ、それは私の物で勝手に売られたのだと主張しても通用する保証はない。

 そういう金銭的な危機感もあるが、何よりもそれを根城まで持ち帰るつもりでいるらしいから、やはりここで止めるのが最善だと思った。

 ギラリ、月夜に照らされたナイフの銀色に脅威を感じて汗をかく。

 いつの間にか坂を下りきった私は刃物を手にしているだけでなく、腕力でさえ敵わない大の男と平等の土俵で向かい合った。

 ほんの一瞬の勝負か。何も術を持たない私は動けないから、向こうから仕掛けることになるだろう。

 誰が見ても私が組み伏せられると予想するだろう。ナイフ刺しか、巨大な掌に捕えられるかして戦意を削がれた私にトドメを刺してデッド・エンド。町娘Aの生涯は花咲かずに終わりを迎える。

 殺されるのか。その前に陵辱されてしまうのだろうか。いずれかの結末をイメージすると胸が焼ける思いだ。

 誰かが助けに入ってくれることはない。そのような華々しい舞台に相応しくないほどここは暗く、寂しく、役者が不足しているから……。

「悪く思うな。悪く思うから辛くなる。頭空っぽにすることだな」

 ……うるさい。

 理性があるのは美徳だろうが、私にとって都合の悪い相手がそれだと単に不愉快だ。ましてや私の愛するティフェレット国を脅かす者の言い分としては下手な挑発でしかないだろうに。

 ただ……。

「あたまからっぽ?」

「そうだ!その方が人生は気持ちがいい!」

 急接近してきた。外見より早い動作に驚かされる。そういえば、屋根を飛び回れるほどの運動神経を持っていたのだった。

 ナイフと掌の両方を前に突き出して私を襲う姿勢は人智を持つ猪といった様相。組み伏してから嬲るという予想は当たった。何だ。本性は野生的じゃないか。

「そっか。やってみる」

 獣と化した彼は眼前の小動物を食らう興奮からか、不利な私以上に沢山の汗をかいていた。その様子を冷静に視認できる余裕が私にはあった。

 

 ――だから、目を覚ました時の私の方がもっと酷かったなんて張り合いたくもなる。未知の違和感を抱えて、それを確かめる絶好の機会が訪れたことに歓喜する私こそが、獲物を食らう上位者に他ならないのだから。


「……ッ!」

 とりあえず、その突進は難なく躱せた。

 素直に直進してくるだけだから、落ち着いていれば誰でもできる。別に凄くない。

 彼の突き出した両手には全霊の力が加わっていたようだから、躱した私をすぐに捕え直すことはできない。それはつまり……!

「隙だらけ!」

 攻撃に集中した彼の両腕は守備には間に合わず、私の反撃が腹部に到来することを免れなかった。

 隙をついて細腕を蛇のように柔らかく、かつ鋭く5本の指を伸ばして最も柔らかい箇所を突き刺した。


 ――遠く、建物の上から私のパフォーマンスを称えるようにヒュー!と口笛が聞こえた気がしたが、そちらを窺う余裕はなかった。

 

「ぐおっ!」

 今朝以来の攻防だが、この瞬間だけは私の方が強かった。みぞおちを刺された獣は、涎を零して悶えた。

 しかし、会心の一撃だったはずなのに打倒には至っていない。いくら手応えがあっても私自身がまだ弱いのだ。

 非力を補うには武器が良い。それこそ、彼の汗ばむ手で握られたあのナイフのようなものが欲しい。

 ただでさえフィジカルで勝ち目がないのだから刃物使用可のハンデは私に与えてほしかった。家の包丁、その次にはお婆さんがフルーツカットに愛用している木製のナイフが脳裏に浮かんだ。

「雌……ただでは済まさんぞ」

 男の性か。あるいは賊なりのプライドが反応したのか。顔を真っ赤にして憤る彼は先程とは比べ物にならないほど鬼気迫る圧力がある。

「はぁ……はぁ……」

 その獣の殺気。生命と貞操の危機。あと、込み上げてきた長距離ランの疲労。

 あらゆるネガティブが積み重なりプレッシャーとなるので、つい息が荒くなる。膝が笑う。それでもかつての私ならとっくに命乞いをしているだろうから成長したものだ。

 充足を得る私になど構わず獣がジリジリと距離を詰めてくる。

 今度は猛進ではなく、じっくりやるつもりなのか。警戒心が強くて隙もない。

 こっちは喧嘩の素人どころか近所のイザコザすら直視できない弱虫なのにそこまで本気になる?

「ほんと……勘弁してほしい……」

 思わず苦笑いで呟いた。

 それが癪に障ったのか、獣は己の歯が砕けんほどにブチ切れてからナイフを振り回してきた。ただし、怒り狂った形相とは真逆で繊細な振りだった。

「死ね!死ね!」

 一振り目は遠くて避けるまでもなかった。よほどパニックなのかと思いきや、それが罠だということに遅く気付かされた。

 無駄な一撃。これは私の目線を奪うための囮であり、二振り目にはもう私の体を貫く距離まで密接していた。近づくことが目的の意図したスカだったのだ。

「危ない!」

 その二振り目も何とかバックステップで躱せた。私の顔を本気で削ぎ落しに来ていたものだった。まともに受けていれば即死か、良くてさえ流血と肉の露出に悶絶していたことだろう。

 陽動と本命の二撃をやり過ごせた。そこまでが私の限界だった。

 真後ろへの回避を大袈裟にしてしまった分、もう一歩下がるには体勢を立て直す必要があったのだ。

 加えてこの機能性の低いロングスカートと脆い作りのブーツ。これらのせいで望み通りのアクションが制限されてしまうのに苛立つなんて妙なことだ。元より機能性など私に必要のないものだったはずなのに……。

 それ故、敵が既に第三振り目を仕掛けてきているのが分かっていてもどうすることもできない。

 斜めから上へ走る斬撃ならば、無理やり膝を折れば躱せるかもしれないが、それではその場凌ぎにしかならず、後で倒れ込んでしまってはもう逃げられなくなる。

 最悪の想定通り、組み伏せられてメッタ刺しにされるのがオチだ。


 ――近く、ここまで健闘した私に対する喝采のようにこちらへ迫る風の音が聞こえた気がしたが、そちらを覗う余裕はなかった。


「終いだな」

「嫌ぁ!」

 だから、もう手詰まりだった。

 一時の勇気は既に去り、私は本来の弱い娘に戻るのみ。数分。あるいは数秒だったかのヒロインごっこは仰る通り終いだ。

 今の私にできることと言えば、頭部を両腕で防いで次の瞬間やってくる激痛に備えるのみだった。

 そうして、虐殺の始まりを告げる斬刑が振るわれる。その瞬間がスローモーションに感じられたので、私はこれで死ぬのだと確信した。

 ほら、死は一生に一度しか体験できないものでしょう?それならこのように鈍く見えても驚きはない。実質もう死んでいるのだから、この世の理なんて関係がないということ。

 こちらはもう動けない。敵の動きは本当に鈍く、握られた刃物が眩く煌めくから、そういえば今夜は月も星も綺麗だったなぁと悠長に耽った。

 ただ、それらを凌ぐ瞬きだったあの閃光の正体が一体何だったのかが分からず終いというのが非常にもどかしい。

 ……もしかして、未だに倒れ伏したままでいるあなたの仲間や私のカードたちが関係していたのかな?

 肉と骨がまとめて裂かれる音に次いで、多量の赤黒い液体が周囲に飛び散った。

 ティフェレット国自慢の綺麗な水路も台無しにするほどの規模だったため、痛みや恐怖より新鮮さが勝った。私の両腕は健在だというのに、斬撃の勢いのみでこれほど飛散するものなのかと。それはつまり……。

「ああああ!腕ぇ!俺の腕がああああぁぁぁぁ!」

 私は一切の無傷だった。代わりに水路を赤く染め上げているのは彼のモノだった。

 今さっきまでナイフを握っていた剛腕は肘より上から綺麗さっぱり削がれていて、留まる場所を失くした中身が止まることなく吹き出していたのだ。

 駄々をこねるようにその場でバタバタと悶絶している賊と、状況の理解に遅れる私の間に立つ者がいる。

 その青年が握る高貴な装飾の施された剣の芯には、賊の腕より少し細めの赤い線が塗られていた。

「失礼。そこの貴女。ご無事ですか?」

「あ……」


 ――不意に、デジャブを感じた。

 

 こちらを振り向いた彼の容姿に思わず目を見開いてしまう。私の窮地を救ってくれた彼は相当の手練れだろうに、自らは争いに関与しない貴族のような佇まいだった。

 天が恵む星月に照らされて、その完璧に整った相貌はより麗しく演出される。夜空の下で際立つ薄紫の髪はきっと、ロングヘア―であればサラリとなびき女人に化けることだろう。

 私は下町で密かに暮らしているだけのため、色気立つ話は詳しくない。

 それでも噂で耳にすることがある。何でも、近衛部隊の精鋭にとびきりの美青年がいるのだという。

 彼は最も重要とされる国王の城を守る任と、外敵討伐の遠征を主な務めとしているらしく、私たちの暮らすエリアとはまるで縁がない。

 あくまでも噂のため、誰かがでっち上げた架空のアイドルなのかもしれないと疑い半分だった。

 しかし、それは紛れもない真実として今この瞬間、私の目の前に現実のものとして存在している。

 死を予感した私は結局その場で膝を突いてしまった。そんな私を見かねた彼が手を差し伸べ、立ち直らせてくれた。その美貌に近づかれると流石に顔の火照りを隠せないが、同時に彼が噂の美青年に違いないと確信が持てた。

「お嬢様。よろしいでしょうか?」

「は、はい。すみません。ご無事です」

 言葉を失っていたがようやく我に返った。

 初見で惚れ込むことなどないにしても、これほどの別嬪が同じティフェレット国にいるものなのかという衝撃は過去にならない。

 外套を着こんでいるとはいえ、白を基調とした同じ隊服の他の隊員と比較しても一切の劣りがない。

 それこそ、夜空に瞬く星々を引き立て役にまで追いやったあの閃光のように、注目を浴びる運命の只中に彼は在るのだと思えてしまうほど。

 彼は私の無事を確認すると、もはや用無しと背中で語って賊を窺った。私の方はまだ夢見心地だが、彼にしてみれば女性からこのように反応されることなどありふれた出来事に違いない。

「うううぅぅ……」

 そんな彼に腕を奪われた大男は、先に例えた通り獣のような呻き声を上げて痛みを堪えていた。

 抜けた片腕から漏れる血は、勢い弱まりつつもまだ垂れ続けている。蒼白な顔からしてすぐに止血しなければきっと……。

「はぁ……貴様、貴様!貴様!よくもぉ!」

 憎き彼を必死に睨み付けようとしているのだろうが、目の焦点が合っていない。

 その悍ましい形相を私から隠すように彼が間に入ってくれているため、死に物狂いとは懸命さではなく、死ぬ寸前で理性を失くして狂うことを言うのかと考える余裕があった。

 災難は去った。私は助かるのだ。それでも……。

「よくも!よくも!よくも!よくも!よくも!よくも!」

 決着は既に済んだ。

 片腕を失い、いずれ死に至るほどの生命の保険を撒き散らす彼に勝機などない。後ろ向きでよく分からないが、私を助けてくれたこの青年は今、どんな表情で鬨の男と対峙しているのだろう。

「お前は……他の雑魚共とは違うな……れぇ、名乗れぇ!」

 自分を追い詰めた相手の名前を知っておきたいのか。獣は唾液をたくさん吐き出しながら必死に叫んだ。

 しかし、国を脅かすテロリストの容疑があり、民間人を殺害するつもりだった相手に彼が素直に答える義理はない。

「名乗る必要はない。それと、私が王より授かった命は貴公らを捕縛して玉座へ差し出すことのみ。大人しく連行されるならば命は救済しよう」

 意外だった。この賊にはまだ救われる道があるのか。

 散々な目に遭わされた私からすれば腑に落ちない気もするが、それだけ国王が彼らの詳細を求めているということだろうか。やはり、例のテロリストとやらなのだろうか。

 しかし、賊には賊なりのプライドがあるというのは私ですら分かること。彼は必ず却下すると読めた。国王だって、捕縛が儘ならないことを承知で彼に命令を下したはず。

「クソが!クソ!クソ……クソだ!こんな国も!お前たちも!偽物のくせに我が物顔でよくもぉ……」

「偽物?」

 余計に興奮したせいか、出血がより酷くなると慌てて腕の断面を抑えた。

 気になる発言があって思わず反応したが、大男の頭の中に私はもういない。きっともう、自分をこうした隊員への憎悪だけが思考を支配するばかりなのだろう。

「おい!いつまで寝ている!お前も手伝えよ!」

 そして下した判断は、仲間に支援を求めることだった。

 私が役に立たない以上、これでは2対1になってしまう。剣の腕は疑う余地もない。手負いの賊たちなどわけないはずだが、果たして……。

「クソ野郎!聞こえてんだろ!さっさと――」

 忘れかけていたもう一人に注目する。そのタイミングで、グチャッと、ついさっきも聞いた嫌な音が私の耳を虐めた。

 ……ただ、少しだけ違いがあるとすれば、この美青年と違ってそれをやった者には情けが無かったということ。

「起きねぇよ。もう二度とね」

「……え?」

 呆然としている賊に変わって私が声を漏らした。

 さっきまで苦悶していた仲間の傍には、黒いアサシンの装いをした青年が蹲踞している。闇夜の暗躍に特化したような黒い装いからして近衛部隊の一員ではなさそうだが……誰であれ、この緊迫感の中で平然としていられる以上は只者ではない。

 口をパクパクしている賊と、微動だにしない美青年に代わって私が問うしかなかった。

「あなたは……?」

 おそる、おそる。無力故に意味などないだろうが、出来る限りの警戒心を持って彼が何者かを問うた。


 ――不意に、デジャブを感じた。


 夜目はとっくに効いているが、警戒が強まると彼が起こした惨状がよく見えるようになった。

 彼の握る本来は黒一色と思われるナイフには、その刃渡り全てを赤で塗り替えていた。

「俺?俺は……正義の味方?ダークなヒーロー?とにかくお嬢の敵じゃないから安心してよ」

「お嬢って……そう、ですか。全く分からない……」

 町娘に詳細を教えるつもりはないということか。間違いなく危険な青年だが、翻弄される私を見て愉快に笑っていることから、少なくともコミュニケーションは可能だということで僅かな安心を得た。

 しかし、それは彼の外面と第一印象によるものであり、たった今、彼が乗っかっている死体の元凶でもあることから信用に足る相手だと断定するにはまだ早い。

 暗めなオレンジ色の髪と、日頃から誰が相手でも構わず気さくに振る舞っていそうな高い口角に無垢な相貌。

 失礼だが、彼と彼。どちらも違う方向性で異性を虜にしてそうなイメージを持ってしまう。……私も気をつけよう。

「来たか」

「うい。ユオレン様。今来たところッスよ、本当に」

 この場を支配する二人の強者が邂逅する。麗しの隊員はユオレンという名前らしい。彼は目線のみを陽気なアサシンに向けており、賊への警戒も怠らない。

 対して気さくに近づいてくるもう一人の強者は、黒衣でナイフの汚れを拭うと、私を見据えて手を振ってきた。思わず振り返しそうになったが、ペースに乗せられまいと我慢した。

 その二人の会話を聞き入れることしかできないのが現状だ。

「私とは違う命を受けたのかクロデイ?抵抗しない限り、殺生は禁じられているはずだが」

「いや、同じ内容のオーダーでしょ?俺と旦那。同じ感覚を持つ前衛同士。その時が来たら迅速にそこへ向かえって、ずっと前から言われてきたじゃん」

「その話は後だ。なぜ殺したかと聞いている」

「いや、閃光の行方が最優先でしょ?それに比べたらテロリストの生死なんてどうでもよくね?」

 クロデイと呼ばれる青年の話は物騒なものだが、全てを否定しないユオレンも彼の残虐行為に理解があるのだろうか。二人の言い合いは続く。

 私も閃光の正体が気になってここに来たわけだが、重大な使命を負っている二人と比べたら好奇心任せの私こそが場違いに思えてきて恥ずかしい。被害届を一枚追加してすぐに帰宅すべきだろうか……。

「それにほら。多分これが俺らの求めていた品じゃねぇかな」

「それが――」

「それ!」

 死亡済みの賊がカバンに仕舞っていたお宝の1つをクロデイが運んできた。

 あまりにもこの状況に相応しくない雑貨のため理解が遅れたが、それと分かると、ついユオレンを阻むほどの声を上げてしまった。

「22枚のカード。これでしょ?王様が言ってた切り札って」

「……おそらくは」

 二人が何を喋っているのか分からない。誰が見ても価値のない22枚の真っ白な紙切れ。亡くなった父が遺した私にとってのみ意味のある大切な思い出の品。

 それをこの二人が……いや、ティフェレット国の偉大なる王が欲している?我が国の選ばれし人間たちにはこれが価値あるものだという認識なのだろうか。たとえ、そうであっても……。

「あの、それは……」

「あ!もしかしてこれ、元はお嬢の物だったり?」

「はい。私のです……」

「あらら。そりゃ難儀なことで。悪いけどこれ貰ってくよ」

「こ、困ります!返して……」

 カードに手を伸ばすも届かず、彼の反射神経に置いてかれる。それを何度も繰り返される。これでは大人と子供だ。

 手元に戻ってきたはずの宝物。もう肌身離すこともなく大切にしようと誓う手前で再びそれを失う危機に陥る。国王への献上と考えれば安いものだろうに、どうしてもその思い出だけは手放したくないのだ。

「返してください!返して……」

「第一さ、これどこで拾ったの?雑貨屋で買ったわけじゃないでしょ?」

「父の形見です!ずっと、昔から私の物なんですぅ!」

「形見ぃ?そうは言っても……あれ?」

 私を躱すクロデイの動きが止まった。両手に力を込めて彼の手にあるカードを奪おうとするが、微動だにしなかった。

 年齢は私と同じくらいのはず。別に筋肉隆々というわけでもないのに、外見以上の力が働いてあり引き剝がせない。

「切り札はこれ。使い手の方って……もしかして?」

「確証はまだないが、きっと」

 クロデイの疑問に、私たちの様子を窺っていただけのユオレンが頷いた。私には訳が分からないが、二人の中では点と点が繋がったらしい。

「あー、そう。じゃあお嬢も連れていかないとかね?」

「ええ。無実でしょうけど、先程まで彼らと共にいたわけですし、事情を問わねばなりません」

 二人が私を見ながら勝手に私の話を進めている。どうやら私も王城へ連行されるらしい。

 カードを返してもらえない上に今日これまでのストレスが積もりに積もっている。いくら命の危機を救ってくれた恩人たちとはいえ、いい加減に説明を貰えないと怒ってしまいそうだ。

「あの、私はどうしたら……」

「申し訳ありませんが、これから王の間へ共に来ていただきたい。貴女と、貴女の物というその代物に用があります」

「え、今からですか?それは……別にいいですけど。このカードは返してもらえるのですか?」

「私も詳細についてはこれからなのです。ただ、返すも何も、それは必ず貴女の元へ戻るようになっているのではないでしょうか」

「それってどういう……」

 未だにカードを離してくれないクロデイの進言であれば易々とついて行く気にはならなかったが、紳士のユオレンに頼まれては断れない。デザートが恋しいが、一先ずは言う通りにするべきだろうし、今は他に選択肢がなさそうだ。

 カードを引っ張る手を離し、受諾を伝えると……。

「おおおおい!いつまでダラダラダラダラ話してる!こっちを見ろよぉぉぉぉ!」

 決心がついた矢先、忘れていた獣の咆哮が水路にこだまして思わずギョッとした。私と比較して二人の強者は無反応だった。

「はぁ、はぁ……よくも、よくも同胞を……殺すぞ暗殺部隊……」

 激しい呼吸を繰り返しながら、さっきまでユオレンへ向けていたドス黒い殺意を今度はクロデイに向けている。

 それが分かっているだろうに、暗殺部隊の一員らしい彼は全く怖れず余裕の態度を続けていた。

「おや、俺の素性が分かるんだ。国民も大して知らないことをよくご存じだ。今回で知ったわけじゃないだろうからとっくにバレてるみたいね。いやー、これじゃ暗殺成功率に響くなー」

「……あぁ?なぜ前から知ってたと分かる?」

「そりゃ簡単よ。今回やって来たテロリストは全員、見つけて殺したか、あるいは牢にぶち込み済みだからさ。

 今朝の泥棒ってあんたらだろ?いくら質屋がフェアとはいえさすがに目立つ。余裕がありすぎる。乱戦をやる備えがある。他に仲間が紛れていることは理性が足りてりゃ分かることさ」

「な……」

「カードを盗んでから今まで他の仲間と合流できなかったんじゃねえの?できるわけねえよな。もういないわけだから。だからさっさと退散できずにこんなところで吉報を待つしかなかった。違う?」

 人の首を狩る仕草。拘束された人が指を失う挙動。身振り手振りで惨劇を再現しながら、事ここに至るまでの末怖ろしい結果を並べる。

 年が近く、親近感を持つことも可能な男の子だというのに、私とは命の価値観とこれまでの人生経験に大きな差があるのは明白だ。

 どちらが幸せかなど考えてもキリがないだろうが、怠惰な生活を繰り返してきた私からすれば、とてもじゃないが理解には至らない領域に彼の神経はある。

「で、旦那はこいつどうするつもり?」

「連行します。私と貴方だけでは人手が足りない。まずは近くの隊員を連れてくるので――」

「きぇああああああああああああああああ!」

「ひっ……」

 決して浄化されない憎悪と、絶望的な状況が重なり賊が壊れた。その様相には恐怖よりも忌避が勝る。

 あれでは最早、獣と例えるのも能わない。薬漬けの手遅れな末期患者。ああなってはもう……。

「こりゃもう駄目ッスね。殺そう」

 そう言いつつも彼は仕舞ったナイフの刃をもう一度晒すつもりはないようで、トドメをユオレンに任せた。

 請け負った美青年は小さく溜め息を吐いてから一歩前に出る。剣を構える素振りはないが、きっと次の瞬間には敵の首を断っていることだろう。それくらいは私にも読める。しかし……。

「待ちなよ旦那」

「ガッ!」

 フラフラと曲折しながらこっちに来る瀕死の患者は、ユオレンの剣に倒れることなく、あろうことかクロデイの足払いによって頭から転ばされた。意識はまだあるようだが、痙攣しながらも懸命に起き上がろうとする姿はイエソド国に存在するというゾンビの類に等しかった。

「何のつもりか」

「いや、なに。せっかくだからお嬢に復讐させてあげようと思って」

「え?」

 何を提案しているのかこの悪魔は。

 私に戦えと?何故?これにはさすがの精鋭隊員も驚かれている様子だった。

「何を言っている?必要のないことだろう、それは」

「そうでもない。何なら俺らよりこの娘の方が戦いの動機が揃っているし、こいつを殺すための値が足りている。だって、泥棒された上に今もまた殺されかけたんだぜ?」

「確かに憎しみはあるのでしょうが、それを代わりに負うのが我々の務めでしょう。何より彼女は庇護すべき民間人だ。そも――」

「お嬢はやれるよ。一発入れたのを見てたし、何と言っても死体を見ても取り乱さない。素質があるのさ」

「ちょっと!って、やっぱり見てたじゃん……」

 また勝手に話が進んでる。しかも更に物騒な方向へ……。

 ところで、やっぱり前に聞こえた口笛は君のものだったのか。助太刀せずに安全圏から観戦していたことは後で国王に告発してもいいだろうか。

「まあまあ、決めるのはお嬢でしょ。ほら」

「ちょっとぉ!」

 信じられないことに黒衣の青年がナイフを投げて寄越してきた。慌てて手を伸ばしたら怪我なく掴めたが、もうデタラメだ……。やっぱり気が合わない!

 血が一切付いていないことから、先程使ったものとデザインは同じでも違うナイフなのだろう。月光を受け付けない黒一色が禍々しく、重厚感もあるが存外に軽くて扱いやすそうだ。

「お嬢様、彼に従う必要はありません。ここは私が――」

「やらせようよ旦那。どうせこれからたくさん大変な目に遭うんだから、今のうちに殺人の経験を――」

「嫌ですよそんなこと!確かに復讐はしたいと思ってましたけど……カードも戻ってきたし、これ以上もう関りたく……あっ」

 理不尽な決断を迫られて、さすがに怒りが外界へ漏れた。お願いだから私を日常に返してくださいと、懇願しようと思ったその時だった。

 鈍間な動きでこちらに迫る手遅れの患者はというと……。

「あ」

「……」

 夜の水路に静寂が戻った。そういえば、普段ならこのように静かな夜のはずだった。

「あーあ」

 賊なりの矜持を秘めていたはずのそれにはもう微塵も尊厳がない。

 痙攣が治まって力尽きると、その場に伏して停止した。鬨の声もなく、夜風と水流が成す風情ある旋律を妨げることもない、大人しい最期だった。

「まさか……」

「うん。死んでるね」

 屍に近づき生死を確認したクロデイは、それがもう機能していないとあっさり訃せてきた。

 腕を断たれたことによる多量出血と、それを放置したことによる酸欠。放置は二人のせいか、あるいは計算だったのだろうか。

 賊は青年たちの力量を僅かに知っている様子だったから、何より私のような町娘一人を捕えることすら叶わなかったことが最大のストレスとなり気をおかしくしたのかもしれない。それを本人に問う術も共に断たれてしまったわけだが……。

「仕方ない。彼らの処理を頼みに行きます。クロデイ、彼女を」

「ういー」

 ユオレンは目の前の死者に関心を持たぬまま別の隊員を探しに行ってしまった。

 彼は紳士だがクロデイと同様、このような惨状は日常的なもので取り立てて騒ぐほどではないのだろう。

 もしそうなら、この身を救ってくれた彼に対して悪いがやはり怖ろしい存在だと感じてしまう。この場から離れていくことに安堵した。しかし……。

「ねー、俺のナイフ返してくんない?」

 もう一方の怖い存在がまだ残っている。

 これだけ民間人を翻弄しておきながらニコニコしているものだから、敵だと判別しやすいテロリストたちの方がよっぽど潔いのではないかと考えてしまう。

「じゃあ、私のカード返して」

「いいよ、ほい」

 そして、失われた思い出はあっさり手元に返ってきた。もう、本当に何なのか。町娘Aなりのプライドがズタボロにされる。

「この後すぐに説明があるだろうけど、そのカードはティフェレットだけでなく三国全ての存亡を左右する超級のキーアイテムなんだよ。だから王様も欲しがるし、持ち主の君にも価値が出てくる。これから忙しくなるよ。俺らも一緒にね」

「何言ってるのか分からないですけど……もしかして、さっきの地震や光も関係あるのですか?」

「察しがいいね。ああ、だからここに来たわけだ。話が早いのは好きだよ、俺」

 飾らない笑みを向けられて思わず顔を隠した。これ以上、彼のペースに乗せられるのは御免だった。


 ユオレンが隊員を二人連れて戻ってきた。見覚えのある若い男女だった。

 まだ新米だろうに、死体処理を任されるなんて大変な職業だなぁと、のんびり構えていたから二人が心配して駆け寄って来たことに驚いた。

 今朝の空き巣被害から私たちは繋がったのだ。

 ……そして、彼らとも。

「後は任せて城に向かいましょう」

「はい」

「そう不安がることもないさ。大変なのは今夜じゃなくて明日からだろうしね、多分!」

 陰と陽ではなく、月と太陽か。二人の役職からして逆かもしれないが、冷静なユオレンと愉快なクロデイが私の目には対照的に映る。

 その間に挟まり、共に歩を進ませる私はどちらとも似つかず、まだ何も持たない真っ白な空の器か。

 そんなイメージを思い描く私と無言のユオレンに退屈したのか、左を歩く黒い太陽が思い出したように聞いてきた。

「ところでお嬢。お名前は?」

 ナンパかと呆れるほどの侭さだった。やはり空気を読むとか、弁えるとかそういうものが彼には無いのだろう。

 それはもう分かりきっていたことなのだが、右を歩く白い月も関心があるようで視線をこちらに向けているから無下にはできない。

 二人の言う通り、私たちはこれから長い付き合いになるのだろうか。

 まだ信用はできないが、一応は私の好きなこの国を守護してきた強者たちだから、名を覚えてもらえるのは光栄に思うべきことなのかもしれない。

「アンヌ。私はアンヌです」

「うん。めちゃくちゃ良い名前だアンヌ。俺はクロデイね」

 クロデイと顔を見合わせた後、一緒になって残る彼の様子を窺った。ペースに翻弄されるどころか、一緒になって悪戯をしているような気になる。

「ユオレンです」

 しかし、彼がそう答えてくれたことにより、悪戯は友好的コミュニケーションとして成り立った。

 一連の流れがおかしく思えてつい笑ってしまったが、二人はそんな私を咎めなかったからきっと悪いことではないのだろうと完結させることができた。

 つい先程まで警戒していたはずなのに、戦いから離れただけでこんなにも心を許せてしまう。

 二人からしたら護衛など新鮮味のない仕事かもしれないが、私にとっては年齢の近い男の子たちとこうして並び歩むこと自体が初めてのことで、今日これまでの不幸を忘れるほどに心地良かった。

 空を見上げると、月と星々が真っ暗なはずの夜を明るくしている。それらを凌ぐ輝きが、私の傍にあるのが誇らしい。

 程よく髪をなびかせる夜風は涼しい。記憶にないほどの充実感に私は包まれている。

 まるで、美しい夢の中。私たち三人の出会いを世界が祝福しているようにも思えた。

 

 ……身に余る幸福に申し訳ない気持ちが後から押し寄せてきて、つい先程の惨状を思い出す。

 ふと、後悔が零れた。

「やっぱり、私がやりたかったなぁ」

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