その閃光

 お風呂から上がって着替えを済ませると、私は迷わず家路を急いだ。

 今朝からの違和感の正体。

 ただ2つの眼球が変色していることだけで、私は知らない間に私ではない別人への変貌を遂げたような錯覚に陥った。

 疲労により眼の色が変化するか、あるいは違う色に見えることなどティフェレット歴を振り返ってもそのような病気は存在しない。聞いたことがない。

 そも、私自身が昨日の昏倒を深く印象付けているだけであって、正直なところ大して疲労が溜まっていたわけではないのかもしれない。病気を疑うのも無駄なことだと思えてしまい、薬屋さんに駆け込む気にはならなかった。

 どうしてか、黄金の瞳を不気味に思うのではなく、私の瞳は元よりこういうものだと受容できてしまっている。

 それでも一応気にはなるので、帰る途中で人目も気にせず宝石店の窓や水路の水面を通る度に自分の顔を窺ってしまった。私自身が黄金の空に魅了されているものだから、大胆な行動を取っていることに恥じらいを感じなかったのだ。

 体力的にも精神的にも楽な立場で生活をしているわけだから、片頭痛以外の脅威など私にはあり得ない。流行り病もこのところは聞かないし、危険な戦いに身を投じることもない以上、私の日常は保証されているはず。

 ただ、肢体が軽くなっているのを脳が理解した途端、今の生活に物足りなさを感じたのは事実なのだけど……。

 

 かくして家の前まで戻ってくると、その違和感に関しては明白だった。

 私だって伊達に16年も生きていない。家の様子がおかしいことくらい中に入らなくても勘付くことができるようになっていた。

「誰かいる……」

 扉には閉店を知らせるプレートを刺してあるからお客さんではない、はず。数少ない知人の誰かだと良いのだが、無断で立ち入るようなタイプの人もいないはずだ。

 となると空き巣か、泥酔した迷い人など。または噂の……。

 落ち着いて、皆無に等しい情報から相手の正体を分析している私は、自分の根城を無断で侵されていることに対する恐怖や怒りなどは微塵も感じておらず、それどころか早速この肢体を試す好機が到来したのではないかという歓喜の念が勝っている。

 武器も持たない若い女が挑むことではない。近隣を巡回している近衛部隊の隊員か、お隣に住む巨漢のガダンさんを呼ぶのが最も安全かつ最善の判断だろう。

 見られて困るものなど別にないし、盗られて困るものといえば、鉄製のホルダーに収納された22枚のカードくらいだ。

 あれは占いに使うものではなく、私以外の人にとってはまるで価値の無い真っ白な札に過ぎないのだが、亡くなった父の形見であるため失う訳にはいかない。

「誰!」

 その焦りもあって、私様子も窺わずに勢い任せで家の扉を開いた。

 この威勢に驚いて空き巣か何かが窓から逃げ出してくれると有り難いのだが、そうはいかなかった。扉を半分ほど開いたところで内側から力が働き、扉を無理やり閉められてしまったのだ。

「ちょっと!私の家に……あなた誰!」

「喚くな!いいか、お前は何も見なかった。何かを奪われたとしてもそれは始めからお前の人生には無かったものだと思え!」

「何をふざけたことを!」

 扉を挟んで私と侵入者の力比べが始まってしまった。おそらく彼が入口を抑える係で、侵入者は他にもいるはずだ。

 いつから家にいるのか分からないが、まだ目当ての品は見つけていないらしい。

 生憎、高価が見込めるものといえば占いに使うカラフルな宝石たちくらいだろうが、あれも傷が目立ち始めているので質屋向きじゃない。だからあとは、私の衣類を興味で欲するくらいだろうか。

「残念ですが家には何もありませんよ!」

「喚くなと言っている!」

 扉を犠牲にした攻防が続く。

 一瞬だったが男の二の腕がかなり鍛えられているように見えたので、私の運動不足な細腕では到底敵いそうにない。単純な力比べでは違和感の正体を確かめるにも至らなそうだ。

 近所の顔見知りさんたちがこちらの異変に気付いて立ち止まっている。まるで男女トラブルの一幕みたいだと感じて恥ずかしくなってくる。

 傍から見たら割と馬鹿っぽく映る光景かもしれないが、こっちは生活を脅かされている最中のため気になるなら手を貸してほしい。お隣のガダンさん、確か朝帰りでこの時間は寝てるんだっけ……。

 踏ん張る私の願いが通じたのか。最強助っ人のガダンさんではないが、代わりにこの区域の巡回を担当する若い男女の隊員がこちらへ向かってくるのが見えた。

 まだ見習いの段階であろう二人はドアハンドルを引っ張る私の必死さにしばらく目を丸くしていたが、これは一大事だとようやく察してくれたようで慌てて駆けつけてくれた。しかし……。

「そ、そこのあなた!どうかしましたか?」

「トラブルでしょうか?近衛部隊です!」

 女性の方が自己紹介を叫ぶと、内側の男が私の耳にも強く残る舌打ちをして中にいた仲間へ撤退を促した。扉を抑える力が無くなったのでこっちから飛び出してくるつもりはないらしい。それはつまり……!

「あなた!何をして……」

「お姉さん!裏を抑えて!」

「裏?」

「窓!」

 先に来た男性隊員を家の中に乗り込ませるため、身を退けて誘う。女性隊員は彼より先に勘付いたか、穏やかな表情は一変して鬼に変わり、家の入口から見て右の路地へ駆けて行った。

 空き巣が逃げる前に挟み撃ちを試みる。そのためには、私も動く必要があった。

「逃がすわけには!」

 その時の私は信じられないほど迅速だった。窓は扉の真っ直ぐ奥にあるのだから、女性隊員と家を囲う様に私は左の路地へ進めばいい。

 相手が何人いるかは未だ不明だが、おそらく2、3人だと想定した。あの二人がどれほどの手前かは知らないが数で不利にはならないだろう。

 路地の角を曲がる。そこには困惑した様子の女性と、窓から顔を出した男性しかいなかった。

 空き巣たちは……?

「消えた……まさか!」

 女性隊員が上空を見上げた。つられて私も見上げた。

 彼女の予感は的中していた。

「悪いな娘。さっき言った通りだ。金目の物、いただいてくぜ」

 空き巣は二人だった。一人は屋根から垂れるロープを回収すると、そそくさと屋根から屋根へ軽快に飛び跳ねていった。

 もう一人、扉を抑えていた方も私に捨て台詞を吐いてから続いて逃げていった。

「に、逃がすか!」

 女性隊員は憤って二人を追いかけた。その意気は良いが、彼女はここに来てまだ間もないはずだから地の利に明るくない。

 加えて、山賊のような風貌をした空き巣たちは身体能力が常人の域を超えていたため、彼女では追いつくことすら叶わないだろう。

 悔しいことに泥棒を成功させてしまったのだ。思わず舌打ちが漏れた。多分、初めてした。

「申し訳ありません。我々の失態です……」

「いえ……」

 男性隊員が気まずそうに謝ってきた。

 彼も若くて経験が浅いだろうに、犯罪者の粛清より先に住民の心配を優先するのは、戦士としては半端だが、近衛としては善いことだと思えて感心できる。

 不幸中の幸いとして、私の家にある金目の物といえば傷んだ宝石くらいだからそこまで落ち込むこともない。元より宝石の占いはまだ勉強中の身だ。本命のカード占いさえ出来るのなら一先ず生業に影響はない。

 入口に戻る。既に外へ出ていた彼に一礼してから家に入るとやはり……占い道具をまとめた正方形の木箱も、着替えや日用品を収納した箪笥も、食料を積んだ籠も漫勉なく荒らされていた。分かっていたとはいえ、自分の住処を乱雑にされては流石に心が荒む。

「あの、すぐにまた伺いますので、その時に被害届の書類を記入してください。で、では!」

 男性隊員は一度だけ私の表情を確認すると、急いでこの場を後にした。

 眉間に皺が寄っていたので、それを指で摘まんで直す。暫しの間、目の前の惨状に打ちひしがれてから大きく溜め息を零した。

「はぁ……これは酷い。今日1日休業だなぁ。もしかして警備さんとか引っ越し屋さんとか来るのかなぁ」

 ただでさえ寝不足だというのに、これ以上面倒な問題が増えるなんて勘弁してほしい。

 家を荒らされたことより、それによって色んな人やら法やらが私の周りで動き出そうとしている現実の方が厄介で億劫だ。

「被害者は被害者面なんてしている暇がない、か」

 床に散らばった物の整理は届けを出した後にして、まずは私にとって最も大切なものの安否を確認したい。

 たとえ金銭的価値がなくとも私の心を安定させるためには欠かせない。

 このような下町の貧乏だからというのは関係なく、個人で一軒家を持つ者も、貴族も、近衛部隊の彼らにも……きっとこのように些細な思い出の品があるはず。

 それは物に限らず、かつての記憶か、それとも隣にいる人そのものか。形は様々だろう。

 同時に、誰もが抱える業であり、心の拠り所ともなる。自分の存在を維持するために欠かせない命ほどの価値を持つキーアイテム。

 私にとってのそれは、亡くなった父から譲り受けた22枚のカードと、それを収めるホルダーだった。木箱の中でも目立つようにいつも一番上に置いている大切な……。

「ああ、無い……」

 大切な思い出は呆気なく奪われてしまった。事情を知らない空き巣などによって、私の思い出は悉く無かったことにされてしまったのだ。

「そっか……ホルダーは売れるかもね……」

 真っ白なカードの方はゴミ同然に思われてしまうものだが、ホルダーの方はブラックカラーの鉄製で、希少な白い宝石を溶かしたコーティングがされている逸品だった。

 ただ、希少とはいえ白い宝石は金銀ほど大した値は付かないはずだ。泥棒はそれを分かっているのか。それとも質屋の路線が変わったのか。とにかく……。

「よりにもよって、それ盗っちゃうかぁ……」

 例の傷んだ宝石に関しても比較的汚れの多いものだけが残されている。

 そう、まだ綺麗だったものだけを厳選されてしまったのだ。最低の下郎だが、見る目は確かだった。

「完敗かぁ。こっちはまだ……戦ってすらいないのに」

 私は世代の近い同性たちと比べても泣きやすい方だった。

 両親が私を置いて行方不明になって以降は大分落ち着いたが、昔、強面のお客さんに「お前の占いのせいで身内が不幸になった」などとクレームを入れられた日の悔しさは今でもたまに思い出して心が弱る。

 そんな私にとって、この事態は相当に堪えることのはずだ。

 特に、怒りと諦めが頭の中でグチャクチャに混ざり合って気持ちの整理がつかない状態に陥ると、決まって涙腺が緩むはずなのだが……。

 不思議なことに涙はおろか、このような理不尽を嘆く気も起きないほど達観して現実を受容している私がここにいた。


 昼頃になると例の若い男性隊員がベテランの風格漂う二人の隊員と共に家を訪れてきたので、従って事情聴取と被害届の記入を行った。私自身が良ければ引っ越す必要はないとのこと。

 警備に関しても、既に金目の物を失くした私の家はむしろ安全な方だと扱われて、このあたりには重点を置かずに民間居住区全体に薄く広く隊員を向かわせるようだ。いつもの隊服で巡回する者もいれば、中には民間人に紛れる格好で眼を光らせる者なども配置される。

 空き巣相手にこれだけやるということは、やはり彼らが噂のテロリストだったのだろうか。

 あくまで少し耳にした程度の話であり、私相手にそこまで教えるつもりもないだろうと思い込み、隊員たちにそれを問うのは止めておいた。

「いくら犯罪撲滅のティフェレットでも外の人たちは教育しきれないか」

 静寂に戻った家内で一人、散らばった物を片付けながらそんなことを呟く。

 ティフェレット国ではこのような犯罪行為など滅多に起こるものじゃない。

 これほど家々が密集している区域においても空き巣被害はそう起こることはないから、今頃世間の話題を独占してしまっているに違いない。

 ……望んだわけでもないのに有名人になっていく。

 

 犯罪が少ない理由は大きく分けて3つ。

 1つ。まず何といってもティフェレット国直属の近衛部隊と暗殺部隊の存在が大きい。

 今日の空き巣は選んだ家が良かった。このあたりは貴族方と離れた富裕層のいない区域であり、犯罪や陰謀の兆しも薄いことから警戒レベルが低い。

 私のような者がのんびり生き延びているのがその証拠だ。

 そのため周辺に配置されるのはあのように若くて経験不足な隊員が多く、ティフェレット国の内情を知っている国外の刺客にとっては好都合なエリアとなっている。無論、金目の物は少ないためリターンは弱いが。

 しかし、近衛部隊全体として見れば話が違う。ティフェレット国王が構える城や貴族方の屋敷などにはより優れた精鋭たちが待ち構えており難攻不落。外敵は勿論、庇護の対象たる下町の民たちも彼らを敵に回しては命がいくつあっても足りなくなる。

 もっとも、彼らの多くは人生の矜持や他者への敬意を重んじる聖人が多いため、私も含めて多くの民衆から信頼されているから揉め事は滅多に起きない。

 ただ、中には戦闘狂の危険な隊員もいるらしく、暗殺部隊に関してはよく知られていないため、民衆には隠しておきたい闇の側面もあるのかもしれない。

 

 2つ。このように扱いの難しい巨大勢力を束ねながら、一国の全権を指揮する偉大なるティフェレット国王の手腕は欠かせない。

 民間居住区に姿を見せることは少ないが、毎日必ず自らの目で国の委細を確認するのだという。今回の私の被害と事後対応についても王自らが書類に目を通した上で判断を下したのかもしれない。僅かだが補償金が支給されるとのことで内心浮かれている。

 給食制度や隊員の教育にしても、このように一人一人の心を廃れさせない見聞と柔軟性が王に備わっているからこそ国内の治安が維持されているのだろう。

 私のような者がのんびり生き延びているのがその証拠になる。

 

 3つ。これは前2の恩恵よるものでもあるが、何といっても民衆が優しい。

 貴族方との貧富の差はあれど、国からの様々な供給や下町の女神のお恵みなどがあるため、とりあえず大人しく生きる分には何も差し支えがない。国民同士の譲り合いにも王は目を瞑ってくれている。

 私のような者がのんびり生き延びているのがその証拠になる。

 ただし、彼らの影響か。全体的で体が丈夫で健康志向の人ばかりのため、私のように頻繁に頭痛を起こして薬が必要になる者は数少ない。

 需要がない分、それは自己負担で購入しなければならない。そう高値ではないが、何分私の稼ぎが悪いため、余程の激痛でない限りは堪えて薬を節約することもしばしば。

 薬屋さんにはそのことを教えてないが、来店の頻度と渡した薬の量が噛み合わないので確実にバレている。来店の際は毎回気まずい思いをする。

 

 つまり、基本はとても平穏なのだ。トラブルは立て続けに起こらないし、起きても国が解決のために動いてくれる。

 私はそんなティフェレット国が好きだし、私のことを案じてくれる人たちのことも当然好きだ。

 ただし、私のコミュニケーション能力が悪いせいで皆の善意を蔑ろにしてしまっている感じは否めない。皆の方は気にしていなくても、私自身は上手く感謝を伝えきれない自分の内気さをいつも呪ってしまうのだ。

 

 騒ぎのせいであまり眠れなかったのだろうか。お隣のタフガイことガダンさんが家を訪ねてきた。眠い目を必死にこすってから来てくれたの一目で分かった。

 半分散らかったままの部屋を境界を越えずに外から覗いて驚いた様子だったので、問われる前にこちらから一部始終を説明した。すると、ガダンさんはまず、何よりも私が無事で良かったと喜んでくれた。

 安心した彼の反応で、私は命の危機に瀕していたのだということをようやく理解した。

 結局、今日は店を開かないことにした。

 得意のカード占いに使う14枚の小札と、それに付属する火・水・風・地のマークが繊細に描かれた4面体のサイコロは共に無事だったので営業は可能。

 それでも、空き巣に入られた直後に営業開始するような図太さは私にはない。宝石占いの方もその半分を奪われてしまっては勉強も儘ならず、何より意欲が湧かなかった。

 空き巣に入られた時の私はそれなりに懸命な判断ができていたし、冷静かつ大胆に動けていた。それなのに、日常に戻った今の方が不思議と気が乗らないのだから意外に思う。

 これでは自分勝手な問題児だ。一人暮らしよりも前、まだ父がいた頃にこのような姿勢であったなら、表に出すのも恥ずかしい不良娘のレッテルを張られていたことだろう。

 そうしてやることが無くなった私を喚起するように、不意にお腹が鳴った。

 そういえば食事の摂取を忘れていたのだったと気付き、籠にまとめてある食料をテーブルに並べた。まだイケる昨日の残り物や今日の朝・昼の分を合わせると、見た目は地味だがかなりのボリュームになった。

 細い体かつ一人身の私には勿体ない量だが、また残ったら更に夕食へ回せばいい。これが私の生きる道。

 しかし、平気なつもりでいたが肝心のメンタルの方がかなり参っていたようだ。

 比較的豪勢な食事を雑に食べ残すと、保存できるものか否かを問わず余ったもの全てをテーブルに放置したまま頭痛薬を飲んでベッドへ飛び込んだ。

 私の体は、お客さんが扉をノックする音が聞こえると目が覚めるようにはなっている。

 閉店のプレートを刺してあるとはいえ、事件についての話で誰かしら訪問してくるかもしれないが、せめてその瞬間までは疲れた体を休ませてほしい。


 ……夜になっていた。来客はなかったようだ。

 それはそうだ。みんな忙しい。私と違って。

 今朝からの違和感以降、多少は強い人間になれた気でいたが、所詮この身は国民の一員というだけであり、誰とも密接に繋がっていない孤独な脇役なのだと実感して酷く落ち込んだ。

 そんな気分を紛らわせてくれるものといえば、もう食事くらいしかない。占いを失った(やる気が失せた)私にはもうアレしかない。

「デザートを解禁しよう」

 テーブルにほったらかしたままの残飯はご褒美の前座だ。

 これから果物屋に行って、あらかじめ一口大にカットしてもらっているフルーツセットを閉店間際のお買い得価格で手に入れてから家に備えるハチミツを塗っていただこう。君たちにはその引き立て役になってもらいたい。

 残飯に対して不敵な笑みを浮かべる私を誰かが覗き見ていたのなら、きっと頭の障害を疑われてしまうことだろう。一人暮らしで良かった。それとも、一人だからこうなのか……。

 ワンピースだけで外を出歩くようでは夜風に凍える羽目になる。コートを重ね、ポケットに財布を忍ばせて家を出た。夜の深み、月の位置からして特売に丁度良い時間のはずだ。

 

 果物屋さんが見えてきた。

 今日はいつもより繁盛したのか、お婆さんの挙動からして店仕舞いをしているのは遠くからでも分かった。途端に店に立つことが申し訳なく思えてきて、早足だった歩行速度が急激に徐行した。

 今日の務めを終えて家路に向かう人々。これからが本番だと目的の娯楽や仕事場に向かう人々。色とりどりの表情が行き交う大通り。

 街灯や店から漏れ出る灯りを頼りにする頃合い。私のいる場所に光はない。

 それでもお婆さんは日々のルーティンで察しがついたのか、すぐに暗がりから私を見つけて手を振ってくれた。

「アンヌちゃん、いつものかい?」

「あ、はい。いつもすみません……」

 がっつくような感じで悪いのだが、話が早くて助かる。

 孤独な私にとって彼女の包容感溢れる雰囲気は癒される。明るいうちは他にも人がいるから気が気でないが、このように閉店間際であれば落ち着いて話せるため私向きだ。

「今日は何だかいつもよりお客さんが多くてねぇ。商売としては旨いけど、見ない顔もあったんだ。だから残ってるのはこれだけ」

 そう言ってお婆さんは様々なフルーツが細かく混ざる耐水性の紙袋を1つ手渡してくれた。私の目当ての品だ。

「最後の1つだよ。ツイてるねぇ」

「あの、もしかして残しておいてくれたんじゃ……」

「無粋なこと聞かないの。ほら、半額でいいよ」

 言われた通りに定価より半分のペンタを渡した。私より遥かに年上で、体力も衰えてくる頃だろうに、ペンタを受け取る彼女の手は私よりも大きくて逞しい。

 加えて生粋の下町商人であるのだから、この老成を知るティフェレット国民の誰もが彼女を生き字引として認めているに違いない。

 私などは特に彼女に支えられてばかりで、何も返すことができないのだから正に不人情だ。

 いつか盛大に感謝の礼をできればいいのだが、今のような生活では到底叶わない上に一攫千金の夢もない。そのようなことを望まなくても辛うじて生きていけるのだから仕方ないと、言い訳をするばかりだ。

 もっとも、何か機会があれば今の私なら……。

「どうしたアンヌちゃん。暗い顔。あと目の色。嫌なことがあってもね、とりあえず、何となくでいいから笑う癖を付けときなさいってば」

「あ……ははは。そうでしたね。ところであの、見ない顔って?」

 お婆さんは好きだが、この話題は苦手だ……。

 露骨に話題を逸らして逃れるが、世間話も下手なので礼を言ってすぐに退散すればよかったのを即座に後悔した。

「うん。まあ見た目はよく馴染ませたみたいだけど、顔とか雰囲気とかは誤魔化せないでしょ?あれ、多分この国の人じゃないわ。一応、隊員さんには伝えといたけどね」

「そ、それはちょっと怖いですね……」

 ほら、一番怖いのは街の人々だ。おそらく噂のテロリストだろう。まさか、私の宝物を奪ったあいつだろうか。街に溶け込むためにわざわざ買い物までしたのか、何にせよ我が国自慢の近衛隊員に見つかるのも時間の問題だ。

 ところで、その買い物に使ったペンタは誰のものなのか……。

「明日には捕まるんじゃないかね。聞いた話だと空き巣までやらかしたそうじゃないか。うちに来たのがそいつらの仲間かどうかは知らないよ?だから普通に商売やったけど、この国で犯罪なんてアホらしいよ」

「そうですね。アホらしいです」

 ……どうやら被害を受けたのが私だということまでは知らないらしい。

 普通ならこのタイミングで教えるものだろうが、被害者として同情を買うのがどうにも嫌に思えるし、何より会話時間の限界と色鮮やかなフルーツの魅惑がそれを反対した。

「じゃあ明日には捕まるってことで、それでは……」

「アンヌちゃん」

 ……あれ?いつもはこちらの帰りたいオーラに気付いて毎度ありと言ってくれるタイミングだろうに、あろうことか引き止められてしまった。

 帰る気満々だったため改めてお婆さんへ振り向こうとしたその瞬間。彼女が私の名を呼んだ意味が分かった。

 

 ――地震だ。久しぶりだなぁとぼんやり構えていると、揺れが徐々に激しくなっていった。

 

 これは……地に這った方がいい!

 私だけでなくお婆さんも、周囲の人たちもティフェレット国が定期開催する災害訓練で習った通り、人の尊厳を一先ず放棄して生存の可能性を高める判断を実行した。

 転倒による頭部の怪我を防ぐことを主とした体勢。よく訓練されたものだ。

 しかし、揺れによって何かが倒れ、崩れるようなことはなかった。お婆さんの出店も健在。

 それどころか、判断が遅れた人たちでさえ揺れに翻弄されるような様子は窺えない。何事か理解できず、私たちや傍らの両親を眺めている幼児が何よりの証だ。

「確かに揺れている。でも、揺れていない?……もしかして、揺れは地面じゃなくて――」

 試しにゆっくりと立ち上がってみる。揺れは確かに激しい。それでも、この身には何の影響もない。

 周囲の人たちも私に続いて順に立ち上がっていく。とりあえず私たちは無傷だった。事態は飲み込めないが、お婆さんとカットフルーツの入った紙袋の無事も確認して安堵した直後……!

 きっと、誰よりも先に私こそがそうすべきなのだと感じて、地震とは関係がないはずの夜空を見上げることにした。

 暗黒の空に大きな月と無数の小さな星たちが飾られている。いつもそこにある綺麗な光景だ。

 ……それでも、1つだけ違うものがあるのは確かだっだ。

 まず結論だが、揺れは空から来ていたものだった。私としても意味が分からないが、一先ず後回しにしよう。

 それより今は、誰の目にも明らかなアレだ。

 月を憐れむのはこれが初めてだった。星々を邪魔だと感じるのも初めてだった。

 それらの輝きがあまりにも淡いものとなってしまうくらいにその閃光は眩しくて、私の胸を激しく躍らせるものだったからだ。

 その閃光はまるで月のように遠くの空に座しているものかと思いきや、次の瞬間にはまるで星のように私目掛けて流れてきた。

「あ、死ぬ」

 視野の範囲内に収まっていたはずの光があっという間に私の世界を白く染め上げる。

 国内・外を問わず、ティフェレット国として認識されるこの領域を一瞬で焼き尽くし、そこに住まう全ての生命をあっさりと無に帰してしまったのだった。

 

 ……そのような眩む悪夢を体験したように思えたが、どうやら被害を受けたのは遠くのごく一部だけらしい。閃光のアーチ。か細い光線がまだ薄く伸びているのが見えるし、それの落下地点も音で推測できた。

「始まった……」

 閃光の正体なんて私には分からない。それでもそれが、私の違和感と強く結びつくものだという予感がしてならない。

 だから、すぐに確かめないと。近衛部隊にも、謎のテロリストにも先を越されるわけにはいかない。

 私は胸に抱える紙袋を足元に置いて、今はもう消失した光線の行方を追うことにした。

「アンヌちゃん!慌てちゃ駄目よ!」

「ごめんなさい!私、行かないと!」

 お婆さんの大声に振り返りもせず駆け出した。慌てちゃ駄目よって、私の身を案じる恩人の言葉が背中に刺さる。

 彼女の想いを無下にする行為だが迷っている時間はなかった。それはいつものことかと自虐する余裕はあった。

 一歩でも多く、一瞬でも早く。このまだ覚醒前の両脚を精一杯に走らせるのだが……。

「ああもう、走り辛い!こんな格好で来るんじゃなかった!もっと動ける服が欲しいー!」

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