プロローグ 2周目

 長く伸びた前髪をかき分ける。既に忘却された悪夢から目を覚ました私の視界には、いつも通りの天井が映し出されていた。

 この部屋の温もり、匂い、陽射しの光度。どれもこれも紛れもなく私のベッドからでしか味わえない馴染みの空間だった。

 昨日はお客さんが午前中しか来なくて暇だったため、宝石を用いた占いの勉強に没頭していた。

 空が暗くなる前だったはず。私は確か、持病の片頭痛に襲われて急ぎ薬屋さんに貰った頭痛薬を飲んでベッドへ飛び込んだのだ。

 幼い頃からずっとこの痛みと共生しているのだが、昨日のはこれまでとは比較にならないほどの強烈さだった。頭を圧迫され、尚且つその苦痛に耐える時間もこれまでの最長記録だったのを覚えている。

 要するに、気絶してから今までずっと眠りについていたということか。この世の何もかもが不快に思えるほどに酷い気分だった。

 特に、あの時の夕焼けの眩しさは今でも脳裏に焼き付いている。もしかしたらしばらくの間、私にとって夕焼けは不吉の象徴となってしまうのかもしれない。

 更に生き辛くなるのか。寝室の窓からぼんやり空を眺めているだけで生の充足を感じられるようなおめでたい女16歳なのだから、無料で得られる楽しみが失われるのは勿体のないことだ。

 そんな私はつまり、昨日から体を洗っていないだけでなく、着替えもそのままだということ。昨朝から変わり映えしない容姿のままこの朝を迎えた事実に、清潔意識の低さを痛感した。

 構えて待つタイプの占い屋という職業柄、一日の中で人と会う回数はそう多くない。その上、私自身も内向的な性格のため、必要な際しか外に出ないし、必要な人としか会話をしたくない性分が拍車をかける。

 たとえここが三国で最も臣民の道徳が見事だとされるティフェレット国であったとしても、その民間居住区の端っこで密かに暮らしているだけの私は体力も矜持も持ち得ないため、汗をかかなかった日などは体を洗っても着替えはそのままということが年に数回ある。

 そのような持たざる怠惰な私でも、今日に関しては家を飛び出して住民共用の入浴施設へと足を運ばざるを得ない。

 頭痛は目が覚めたら治っていたとはいえ、昨日その時から……おそらく眠っている間も汗をかきっぱなしだったため落ち着かないのだ。

 香水で誤魔化せないほど汗臭いし、汗でびっしょりになっていた服を一晩着ていたせいで何だか寒気がする。後で風邪でも拗らせてしまうのかもしれない。

 医学的には着替えだけ済ませて布団に潜っておく方がいいのかもしれないが、とにかく私がスッキリしないと気が済まないため、お湯に浸かる選択をさせていただこう。

 私のことをいつも気に掛けてくれる薬屋さん、果物屋のお婆さん、近所の皆さん、友達……は特にいないか。

 ごめんなさい。私は自分でも意外なほどに、何だか自主性というか、行動力が増している気がします。


 民間居住区には同じ大きさの小屋がギッシリと並べられている。

 家間の狭い路地を通ろうとした際に前方から人が来てしまうと、どちらかが一度下がって相手の通過を待たなければならないため、迂回には便利だが緊急でない限り利用を避けようという暗黙のルールが浸透している。

 それに習って、私もこうして路地を通ればすぐに着くはずの入浴施設へ向かうのにわざわざ遠回りをしている。

 人混みも喧騒も苦手だというのに朝一から賑わい始めたばかりの大通りを通過しなくてはならない試練に気が滅入る。人生の苦手分野に早朝からトライさせられるのだから占う必要もなく今日は厄日で間違いないはず。

 昨日はしっかり占って、しっかり悪いカードを引き当ててからあのように昏倒したので、私は2日連続で凶運に弄ばれることが決定したわけだ。

 ところで、出掛ける前に一応は香水をつけてきたため、少なくとも体臭の方は誤魔化せているはずなのだが、この長い黒髪にべったりと付着した汗についてはノータッチのため不快極まりない。

 クシで無理やり寝ぐせを伸ばそうとしても何故か毛先のはね具合がいつもより硬かったため元に戻らず、最低限、外に出られるくらいだけ揃えてから家を後にする形になった。

 前方より私の横を過ぎ去る人々はそれほど私に嫌気を感じている様子はない。それどころ、むしろイヤな目線を向けてくるほどだった。きっと、香水を使い過ぎたからだろう。

 家に籠りがちな私にも知り合いはいる。

 自炊はほとんどしないが、果物をカットして乳製品やハチミツなどと合わせて食すのが些細な幸福のため、果物の出店を切り盛りしているお婆さんとは見知った関係となっている。

 ただ、何度も通っているというのに私は彼女の名前を知らず、今更になって聞き出す勇気もない。

 それでも、お婆さんの方は私がアンヌだと知ってくれているし、一人暮らしの身を案じてよくお節介を焼いてくれる。閉店間際に行くと売れ残った果物をサービスしてくれることもあるので、私を含めた貧乏層にとって彼女は下町の女神様なのだ。

 こんな醜い有様とはいえその彼女を無視することなど出来るわけがなく、ギリギリ捕まらない距離から小さくお辞儀をすると、女神様は達人技で複数のお客さんを捌きながらこちらに気付いてくれた。

「おはよう、アンヌちゃん!今日は早起きなのねぇ。眠気覚まし?」

 着替えを入れたカバンを肩に掛けているので察しがついたのか。聞き慣れたお婆さんの大声は喧騒の中でもよく通る。

 地味な私に気付いてくれたのは嬉しいけど、皆が注目するからそんな良い御身分だと思われそうなことをはっきりと聞かないでほしい。こっちはただ昨日からの堕落した体を清めにいくだけなのですから……。

 お婆さんに精一杯の愛想笑いを返してから急ぎ退散する。幸い、私のことをたまに見かける程度の町娘Aとしか思わない人たちは、一度こちらの姿を確認しただけですぐにそれぞれ目当ての方角へ向かっていった。

 しかし、お婆さんはというと……。

「あら、変ねぇ。アンヌちゃん、何だかいつもと様子が違うような……」

 そんなことを言っていた気がしたが、長居は御免。聞こえなかったと言い訳できる距離感だったと自分に言い訳をして、私は恩人の疑問を無視して歩を進ませるのだった。

 様子が違うというのはきっと、プロの商人特有の勘か何かで私のいつも以上の怠慢さとか、あるいは体調不良を見抜いたからに違いない。

 あとは、そうだ。私も忘れていた。朝食をまだ摂っていなかったことか。彼女のようなプロには顔色1つで相手のお腹の空き具合を見抜けるらしいから気が抜けない。

 ティフェレット国民であれば国から最低限の食料は提供してもらえるため、量に物足りなさを感じることはあっても、国内で餓死に至ることなどはありえない。

 この民間居住区にも食堂やレストラン、果てはバーまで多様な飲食店が揃っている。そのため、私のように借金目前でない限りは食の娯楽に絶望することもないだろう。

 ……ただし、ティフェレット国の外。上のダアート国や下のイエソド国ではなく、ティフェレット国として認識される中での横の領域。

 即ち、無法とされる地域においては国の事情か、あるいは向こう方のプライドによって非国民として扱われる場合は給食など当然無く、許可なく街を練り歩くことも許されないというのが定めとして基盤にあるのだが……。

 ほら、井戸端会議中のお母様方が、国外の有名な賊が近くの民家を根城にしてテロの企てを進めているだなんて物騒な噂を共有している。

 滅多に見ない顔で挙動が怪しいものだから、どれだけティフェレット国民らしい風情を装ってもバレてしまうものだという。一見すると国の有権者たちにとって庇護の対象でしかないはずの国民たちにも特有の勘があるのだから外敵はそちらも警戒した方がいい。

 いくらティフェレット国が誇る近衛部隊の一員がこの区域を監視・巡回しているとはいえ、ここで長く暮らしている者のみが有する経験則には敵わない。

 国民か非国民かを問わず、犯罪を犯して逃亡した者の隠れ家をお母様方が特定し、近衛部隊がそこへ乗り込み事件解決というケースもたまにある。

 他二国がどのようなものかは詳しく知らないが、国と民がお互いを上手く利用し合えているのはこのティフェレット国の強みと言えるだろう。

 噂のテロリストがまず警戒すべきは国家の武力ではなく、お母様方の情報網なのだということに果たして気付くことができるのだろうか。結果はきっとすぐに分かるだろう……。

 このように俯瞰した目線で物を考えるのは珍しい。

 近所のトラブルならともかく、テロなどはそれこそ彼ら、彼女らに任せておけばいいのだと関心を持たないのが私のはずなのに……やっぱり今日はなんだか違和感がある。

「よっぽど疲れてるのかなぁ。予約もないし、帰ったらもう1回寝よう」

 そんなマイペースで私の日々は流れていく。無理に働かなくても最低限の供給はいただけるのだからこの国のペースも私には合っていた。

 ただ、頭痛薬やデザートのためにもいくらかペンタが必要になるため、人生の充実に労働は欠かせません。私の場合、お客さんが来ないと何も始まりませんが……。

 

 入浴施設に到着。さっそく受付へ。短剣が薄く印刷された名前・住所・職業が記入してある国民証を提示して女性用の浴場へ向かった。

 この短剣は『生命の剣』と呼ばれている。

 200年前の近衛部隊に所属し、剣聖と謳われた女剣士が脇差として愛用していた伝説の逸品であり、ティフェレット国のどこか……国の重鎮や貴族のみが知る場所へ今も丁重に保管されているらしい。

 私にはまるで縁がないが、子供たちや近衛部隊に属する者たちにとっては憧れの道標であり、ティフェレット国といえばこの短剣のイメージとなっているのだ。

 

 ――もっとも、その女剣士は突然姿を消したと語られており、その最期はこの世のどこにも記録されていない完全なゴーストとなっている。アンヌのストーリーには関係がないため、これ以上は語らない。


 毎日見て、触れている国民証にどうしてこれほど惹かれるのかは不明。

 短剣のデザインに長く目を奪われていると、私のように朝一のひとっ風呂を浴びに来た……おそらく夜勤明けの娼婦様方からの訝しむ視線を肌に感じたため、慌ててそれを着替えのポケットに仕舞ってから今着ている服を脱いだ。

 ちなみに万が一の事態を避けるため、国民証は受付に預けておくことも可能だが、私は一度もそれをしようとは思わなかった。

 どうしてだろう。これに関して言えば、違和感のある今日よりもずっと前からこうなのだ。

 湯に浸かる前に備え付きのバスアイテムで体を綺麗にするのがここのルール。まずは桶に湯を汲んでから、それらが置かれた洗い場へタオル一枚も持たない剥き出しの格好で向かう。

 裸になると今朝からの違和感がより濃く感じるようになり、はしたなく見えるのを承知で自分の上半身をペタペタと触って確かめた。

 別に何かが変わった様子はない。まだ成長期なのだろうが、昨日今日で明らかな変化など窺えるはずもないというのに、何故かこれが自分の体ではないように思えて気分が浮かない。

 特に両腕と、まだ触っていないけど両脚がおかしい。

 どう形容すればいいのか分からないけど、重さは変わらないのに軽快に動かすことができるようになった感じ。

 少なくとも、私のぬるい日常でそれが発揮される機会などは到底ないのだろうが、実戦経験がないのに生まれ持った体のセンスのみで手練れと相対できそうな天賦の才か。

 イキがるにも程があるが、今の私にはそういう……天より授かった常人にはない何かが備わっているような気がしてならないのだ。

 もっとも、それを確かめる機会が訪れることなどは決して起こり得ないだろう。

 お風呂を堪能して、朝食を摂って、午後まで惰眠を貪ろうとしている私が、近衛部隊の精鋭のように世間から脚光を浴びる未来など決して訪れやしないのだから。

 そのように、突然降ってきた天恵すらも無駄にする気満々の私は、洗い場の椅子に腰を掛けると、おもむろに鏡に映る自分を視認して……。

「あ……え?」

 変哲もないブラウンカラーだったはずの私の瞳が、煌めく黄金色に変化していることにようやく気が付いた。

 宝石店に並ぶ同じ色の石ころも、三国共通の通貨となっているペンタと呼ばれるコインも、この黄金には到底及ばない。

 鑑に顔を近づけて視界に映る瞳の規模を拡大してみる。

 初めてみるはずだし、おそらく三国のどこにも瞳が黄金色の人間なんて存在しないだろうに。不思議と懐かしい気持ちになった私にはこれが何故かお宝よりも空の色のようだという印象を受けた。

 

 だから、普通は仰天して取り乱す状況のはずだろうに心がとても温かくなるのです。風邪なんて、ちっとも怖くなんかありません。

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