ARCANA AGAIN

「いや、君が救われてないから駄目でしょ。まだ諦めきれてないならやり直そうよ」

 聞き覚えのない声が耳元で囁かれた。

 ここには私しかいないはずなのに、最期の瞬間に若い男の子の声が聞こえてくるものだから、きっと神さまか誰かの使いの者が迎えに来てくれたのかと勘繰ってしまいました。

 でも、その割には何だか未練がましいことを言っていたような……。

「……え?」

 それが何者なのかと疑問を持つ私は勿論、まだ向こうへ旅立つことができずにこの希望のない世界に留まり続けているわけです。

 刃を喉に突き刺して死を確信したはずなのに、私はまだ生きています。もう開くことはなかったはずの目蓋が瞬きを忘れて固まっています。それはきっと、私の傍にいる白衣の男の子の仕業に違いありません。

「間に合って良かった!君が涎垂らして泣いてるあたりから扉の準備はしてたけど、本当にギリギリだったよ。いやー、超特急で来た甲斐があった。地に足つけて優雅に登場したかったのに、それじゃあ間に合わないから慌てて飛び降りるしかなかったよ。タダで死なれたらもうやり直せないからさ」

「……あなたは誰?」

 その男の子は短剣を握る私の両手に掌を乗せると、それだけで私の自決をセーブしました。

 私はあくまで死を確信していただけであって、それを間一髪で止められてしまったことには今気が付いたのです。

「俺かい?俺はキヅナ。ズに点々じゃなくてツに点々でキヅナね。君一人を救うためにここへやって来た。俺たちの仕事とは全く関係のない問題だからちょっと苦労したよ。主役のアンヌちゃん」

 ???

 状況が全く飲み込めない。

 この『ケテル』には私たちと『愚者』以外、何人たりとも立ち入ることができないはずなのに、キヅナと名乗る雪のように白い男の子は平然とこの場に存在していて、あっさりと私の決断を拒否してしまったのです。

 喉を目掛けて押し込んだはずの力は彼の掌が優しく添えられただけで無力と化してしまいました。そのせいで何だかやっぱり自殺はやめておこうかなぁなんて気持ちになり始めてきました。

 その変化は彼の抑止力でもなければ、動きを封じる異能でもありません。

 ただ、何かが奥に引っかかっているので、それを確かめるためにもう少しだけ呼吸を続けてみたいと思うのです。

「……天使?」

 彼の容姿と一切の穢れがない顔立ちを一見して不意に呟いてしまいました。

 肩にかかる程度の真っ白な髪を見たこともない繊細な装飾で結っているものだから、声を聞かないと女の子だと勘違いしてしまいそうです。身長も私と比べれば大きいですが、おそらく170あるかないか。

 ただ、よく見ると白い神父のような礼装を纏っていながらも胸元が覗けるほどボタンを開放していたり、羽織の袖を腕まくりしていたりと、中々にだらしがありません。片手はポケットに入れたままですし、男性の聖職者がブーツって……私の常識にはないセンスで気になってしまいます。

 それでも、彼が現れてからの私はとても落ち着いている。先程のように取り乱すこともないほどに。

 彼は聖職者の格好をしているだけの未だに謎多き存在ですが、醸し出す雰囲気は確かに聖職者のような包容感があるように感じます。

 やはり天の使いか何かなのでしょうか。私はその優しさに癒されて、自ら自決を思い止まったというのでしょうか?

「うん。一応、天使で間違いないよ。敵でもない子に改めてそう言われると何だか照れるけどね。さすが救世主、見る目あるなぁ」

「あの……とりあえず離してもらえませんか?もういいですから」

「おっと、こりゃ失敬」

 キヅナは私の両手に被せた手を退けて、非を詫びるように両手を開いて降参のポーズを取りました。力尽くで抑えていたわけでもないのに謝ってくれるんだ。

 同じ年頃のはずなのに余裕が違う。私だったら、こっちは善意で助けてあげたのにどうしてそんなことを言われるのかなんて不機嫌になるんだろうなぁ……。

「それで……あなたはどうしてここに?」

「だから、君を救いに来たんだって」

「救うって何を?どうやって?それより何でここに来られたの?」

「普通にこの世界を見つけて、普通に渡って来ただけだよ。観測さえできれば扉を使ってどこへでも行けるのが俺たちの得意技でね。君の旅路もずっと追っていた。それよりまず落ち着きなよ」

「私は落ち着いて……あっ」

 質問に答えてもらうより先にやることがあったみたいです。キヅナがそれを察してポケットからハンカチを差し出してくれました。私の顔は泥に塗れて大変なことになっていることを思い出しました。

「あ、ありがとうございます」

「うん。せっかくなら綺麗にした方がいい。戦いの渦中でもないわけだしね」

 貰ったハンカチで顔を拭うと、いとも簡単に汚れが落ちていきました。しかも、代わりに汚れるはずのハンカチの方も驚きの白さを保ったままでした。

 本当にどうなっているのだろう。こんな異能は知らない。彼はまさか、本当に異次元の存在なのでしょうか?

「落ち着いたみたいで良かった」

「だから落ち着いてますって」

「へへへ。ほいじゃ、話を進めようか」

 屈託のない笑顔に心を掴まれてしまい、思わず紅潮してしまいました。

「ついて来て。ここはもう、何の意味もないから」

 そう言って彼は目的地へ向けて迷いなく歩き出しました。

 結局ほとんど何も教えてくれませんでしたが、私自身もこれから何をすればいいのか分からないのですから誰かの後に続く他ありません。

 立ち上がって彼を追いかけようとすると、どうしてか、上手く歩くことができませんでした。両脚が激しく震えていたのです。

 やっぱり、いくら覚悟が決まっていたとはいえ自殺は怖ろしい体験だったのでしょう。他人の命を奪うことも、これまでずっとみんなに任せていたくらいですから。

 ほんの少し前のことなのに改めてそれを思い出すと、遂に溜まっていた汚物を吐き出してしまいました。

 ビチャビチャと気持ちの悪い音が響いたはずなのに、キヅナは気付いていないのか、全く気にかけてくれずに行ってしまいました。

 それがとても寂しくて、急ぎ彼に貰ったハンカチで口周りを拭くと、まだ手に持っていた短剣を屍の傍に突き刺してから駆け足で彼の後を追いました。

 大切な旅の思い出はこれで全て無くなりました。

 最も手放すべきでなかったお揃いのコインをとうに失くしているのですから、今更何にも未練はありません。

 ただ逆に、命を奪う手段を手放した私はもしや……まだ何かあるのではないかと期待してしまっているのかもしれませんが……。教えてください、天使様。


 辿り着いた先は、元々私が目指していた転移用の魔法陣が設置されるエリアでした。

 この地には私たちしか赴くことができないから、三国のように丁重な管理がされているわけではなく、このように何も無い荒野の真ん中にポツンと置かれています。見失いそうになるほど飾り気がありません。

 各国に1つずつ用意された別の国へ移動できる唯一の手段。もっとも、それを利用できるのは私たちだけなので、それを管理する各国の首脳にとっては価値を見出せない遺物でしかありませんでしたが……。

「どうしてここに?」

 魔法陣の前で立ち止まる白い背中に問うと、彼は両手をポケットに入れたままこちらを振り返らずに答えます。

「別にさっきの場所でもよかったけど、せっかくならこれを利用させてもらおうと思ってさ。ここの神は表に出てこないタイプだから、今のうちに好き放題やっちゃおうかなって」

「さっきから言ってることが難しいです」

「100パーセント確実に送り出したいんだよ。新しい旅にね」

 気付けば暗雲は一切払われ、眩ゆい黄金の陽射しが荒野を照らしていました。

 これも彼の力なのでしょうか。これまでの旅路で蓄積された疲れが全て浄化されて、それこそ天にも昇る心地良さなのですが、どうやら彼の言う旅とは私が望む他界への旅立ちとは違うみたいです。

「教えてください。あなたは一体何をしようというのですか?」

「うん。俺はね、君にやり直しの機会を与えたいんだ。勿論、君が嫌なら自殺を続ければいいし、気が変わって、こういう結果になった世界で余生を過ごすのも自由だ。俺はあくまで選択肢を1つ増やすだけだからさ」

「やり、直し……?」

「そう。俺には君に、もう一度だけ救世の旅を始めからやり直しさせる力がある。それこそ魔法のような奇跡でね。俺は……ほら、そこそこ凄いから」

 ??????

 もう一度やり直せる?この惨劇を無かったことにして、最初から?

 彼の声音が、発する言の葉が、私の燃焼しきった胸に再び熱を灯してしまいます。もう全てが終わったと諦めていた当事者の私より彼の方こそまだ納得していないようです。

 しかしそれは、事故に巻き込まれなかった部外者が、被害者を対岸から憐んでいるだけのように思えてしまって嫌な感じです。そんな感情がよぎりながらも彼の提案を傾聴しているのも事実ですが……。

「そんなことは……あり得ません。あなたが只者じゃないのは分かりますけど、それってつまり時間を戻すってことですか?いくらなんでも超越し過ぎです。アルカナの中にすら、そんな次元の違う裏技を持つ人はいませんでしたよ」

「まあ滅多にないよね。俺だってこんなもん持ってても野暮な話になるだけだって自覚はあるよ。だから、未来視とか不滅とかと同じく要らないなら捨てちまおうかと悩んでた。

 けど、絶好のタイミングで君のような失敗した女の子を見つけちゃったわけだからさ。捨てる前にあと1回だけ使おうと決めたわけなのよ」

「……」

 喉が詰まる。言っていることがあまりにも異次元なせいで突っ込みも儘なりません。

 冗談だと分かれば適当に流せるのに、彼の言うことはどれだけデタラメであっても全て真実なのだと思わされてしまうのですからつい窺ってしまいます。

 お互いの外見年齢が同じくらいでも私は本来なら普通の女子。

 救世主をやらされて、雷魔法とアルカナたちを駆使して生き残ってきたとはいえ、それに値する人間ではなかったという結果を出した真の愚者。

 比べて向こうはどうやら本当の本当に天使なのかもしれず、ただそこにいるだけで空間を明るく塗り替えてしまうほどの所業。若いのは外見だけで、実際は果てしない時間を生きている神域の存在なのだと言われても否定できないのです。

 しかし、それでも……。

「そんな、そんなことは……駄目ですよ。だってそれが可能なら……」

「何度もやり直して、最も納得のいく結末を選べてしまう。そんなのは人生ではなく、神がかりの反則……と?」

 都合の良い考えだと謙遜して言い淀んだのですが、あっさり見抜かれてしまったので黙して頷くしかありません。

 彼の黄金の瞳は全てを見透かすのでしょうか。それこそ、相手の嘘を見破る異能だとでもいうのでしょうか。まだ疑いの中にいるので指摘するには早いかもしれませんが、何でもアリにも程があると思うのですが……。

「確かに君の好きな人が全員無事に生き残って、世界中の人たちが君のことを認めてくれる世界を組み立てられるようになったのなら、それはとっても幸せなことだろう。うん。完全なるハッピーエンドも夢じゃない」

 私の微かな気付きも天使に容易く盗まれてしまい、構想を先回りされてました。彼の言う、私もみんなも報われる幸せな世界で笑い合う人々の姿を想像すると、ついニヤけてしまいます。

 最後まで私について来てくれたアルカナのみんな。途中で別れたアルカナ。各国の優しい人、嫌だった人。この世の全てをいずれは思い通りに構築できるなんて……そんな甘い蜜が本当なら……。

「でもね、それは無理だ。これを1周目と言うなら、2周目の君は1周目の記憶を全て失った状態からスタートすることになるからね。今回のこの結果も、これまでの過程も、大小色々な喜びや悲しみも全て無かったことになるんだ。勿論、この俺との出会いもね」

「そう、ですか……」

 甘い蜜に事情あり、でした。

 2周目を開始するための代償が今現在の抹消だけであるならば、それは次の私にとっては何のリスクもない無料サービスと言えるけど、同時に今ここにいる私にとってその決断は……どう、なんだろう……。

「あの、こんなこと言える立場じゃないのは承知ですけど教えてください。記憶や経験を引き継げないのはどうしてでしょうか?2周目なんてことが本当にできるのなら、引き継ぎができても不思議ではなくなってくるはずです」

「ぶっちゃけ出来なくもないけど、やめておこう。理由はそれこそ色々だけど、一番は暴走を防ぐためかな。君のね」

「暴走?」

「今言ったように、何度もやり直して理想の未来を組むってのはとても便利で素晴らしいことだ。

 だけど、そんな世界をひっくり返すようなチートを君のような一人が自由に使えるようになってしまうと、本来の妥協点を越えて君こそが悪いタイプの神になってしまう恐れがあるんだ。

 納得のいく結末に辿り着けたとしても、それ以上の完璧を求めてタイムトラベルを繰り返す。それはこの世界に生きる人たちには勘付かれなくも、見届けることができる俺たちからすればあまりにも可哀想な怪物ちゃんだ。放っておけなくなってしまう。俺としてはそんな螺旋は避けたいんだよね」

「え?あの、いえ、私はそんなに何度もやり直すつもりは……」

 ……あれ?今、私は記憶の引き継ぎについて問うたはずなのですが、彼の回答は何周もやり直せるのかという……私が次に問おうとしていた謎への回答になっていました。全て見越した上であえて先の答えを述べたのでしょうか?何だか噛み合いが悪く感じてしまいます。

「そうだね、君はそういう子だ。だけど記憶を引き継げると、プロセス間で起きた失敗に対してもっと良いやり方があったなんて後悔の念がより強くなっていくんだ。

 そうして何度もやり直しをするにつれて、君は完璧になれない自分に憤り、他者への憎悪もより増していく。自分だけがこの世の時間を操作できる中で、他の人たちがうす鈍く動くことに耐えられなくなる。

 君はいずれ、納得のいく救世の旅から企画を変えて世界を支配する管理者へと変貌を遂げることだろう」

「そんな……ことは……」

 決してない、とは言い切れません。このような結末に絶望し、命を断とうとした私こそがこの世界に残っている何ものにも期待をしていないわけなのですから。

 やり直しと記憶の引き継ぎ。その両方を行使できるのならば、私はきっと……。

「ほらね。君のように責任感が強くて辛い思いをたくさん経験してきた子ほど懲りずにリトライしたがるんだよ。だから、そのエスカレーターは一度だけ使うくらいが丁度いいのさ」

「あ……」

 黄金の瞳は容易く私の邪心を見抜いてみせた。

 きっと、彼には何も隠せないのでしょう。もうこれからは本音を包み隠すこともやめにします。これ以上、惨めになるのは死ぬほど苦しいことですから。

「だから、記憶の引き継ぎはしない。やり直しは一度だけ。次の2周目こそが最初で最後のアゲインとなる。君が、君の心のままで良い結果に至ることが大切なのだから、その方がいい」

「だけど、今回より悪い結果になったらどうしよう……。今回は私が生き残って、世界は救われる形になった。その過程で多くの仲間を失いました。『愚者』とその因子、何でもない人たちのせいで……。

 それでも……それでも世界としては良い結果じゃないですか。これでしばらく……いえ、もしかしたら金輪際、世界が大圧潰の危機に瀕することもないのかも。『愚者』が滅んだわけですし。これって、最高のハッピーエンドじゃないですか」

「いや。全然話にならんよ。一番の功労者がそんな顔でそんなことを言っているようじゃあ、それこそ妥協点以下の大失敗だ。過程どころか結果も全て最低だね」

 優しい天使の表情に影が濃くなると心臓を掴まれたよう圧迫感に駆られてしまう。さっきまでの無垢な笑顔からの豹変は仰天を免れないので勘弁してほしい。

 そういえば、彼が私の自決を止めた際もこのように冗談気のない雰囲気だったような……。

「どうしてですか?今、幸せじゃないのは私だけじゃないですか。みんなは……そう、やり直しをするのなら生き残った私より死んでいったみんなの方がその機会を得るに値するはず。それにほら、世界は救われたじゃないですか」

「だから、死んだらもう遅いんだって。それに俺が見ていたのは君だけだよ。君以外の結末なんて別にどうでもいいんだ。全生命体の生き死にを何とかしようと考えるくらいなら、最初から俺たち以外の生命なんて認めない方が話が早い。キリがないからね。

 けどまあ、強いて言うなら君の右腕と左腕には好感を持ってはいた。それでもこれは、やっぱり君の問題だからさ」

「私以外の誰が死んでも興味がないと?」

「勿論」

「なに……それ……」

 私たちとは違う次元の存在。違う次元の思想。

 彼の提案は私にとってこれ以上ないほどの救済措置ではあるが、私以外の死などどうでもよかったと言われるのは心外だ。

 私にとって大切だったみんなが彼にとってはゴミ同然なんだ。彼が見てきたのは私が主役の物語であり、脇役たちの死には興味がないということ。

 それが何だか悔しくて、不愉快で、つい言い返さないと気が済まなくなってしまう。

 何が包容する光なものか。それはあくまでこの天使の特性であって、その性分は残忍そのものではないか。

「他人の死に関心を持たないような人も確かにいます。けどそれは、自分の人生に影響がない場合に限った話じゃないですか。

 特にあなたのような安全な場所から見ていただけで、何も苦労していないくせに私たちの……みんなの死をそんな、価値あるものだったはずが、道に捨てられただけでゴミの扱いにされてしまうようなことを……」

「アンヌ、君はかなり疲れてる。特にメンタルがまずい。俺はそこまで言ってないよ。俺の中ではこの世界で意味のある生命は君だけだと言っているだけで、他は別にゴミとすらも――」

「だから!上から喋るのやめろ!何が天使だ!死んでやるぞ!」

「無理だよ。君はもう既に希望を見出しているからね」

「…………あ」

 私の本音はやはり見透かされていました。気付けば涙が頬を伝っている。涙はあれきりで枯れ果てたはずなのに、まだ残っていたなんて。

 それともこれが、決意を新たにした証なのでしょうか。私はまだ生きている。まだやり直せることへの……期待。

「ごめんね。よりにもよって今の君を苦しめてしまうなんて元も子もないことだよね。俺の方が悪かったよ。絶望から希望へ変わる瞬間こそ丁寧に扱えって皆から言われてるけど、どうも下手っぽいや」

「下手?」

「うん。俺はほんのちょっぴり偉大なだけで、それ以外は並だからね」

 彼にも苦手なことがあるのかと気になり、思わず反応してしまいました。彼のような超越者には隙など1つもなく、完全完璧に完成された存在なのだという思い込みがあったからです。

 だからこそ、そのような絶対正義にみんなの最期を否定されたのが悔しくて、やるせなくて、取り乱すような真似をしてしまったわけですから。

 こんな私を受け入れて先に謝ってくれた彼はきっと、この大空を黄金に染め上げるに足る器の持ち主なのでしょう。

「あなたの仲間はあなたより凄いのですか?」

「勿論!俺たちは基本9名でやってるんだけど、たまに俺たちと同じような力を天使ではないどこかの誰かへ貸し与えて10名になる時期がある。仕事は大変だからね。多いと助かるんだ」

「あ、また……」

 先程と同じ。次に問うつもりだった疑問を先に応えられてしまいました。心を見透かされていると思ってましたが、本当に?

「この世界……いえ、私のことを仕事とは関係のない問題だと言ってましたけど、本来の仕事は何なのですか?やっぱり、死者を天界へ送るとか?」

「違うよ。天界は俺たちの家だから、崩壊を迎えるその時までは天使以外誰も入れないようにしてある。

 ほいで俺たちの仕事といえば、他の世界で好き放題にやってる神とかそれに並ぶ何者かがいて、誰にも止められなくなった際、その世界の住民に代わってそいつらをやっちまうってのが主な内容かなぁ。

 人間界ってのは他の5界と違って無数に存在していて、その1つずつを1体の神がそれぞれ管理しているから――」

 ……天使は身振り手振りで仕事内容や世界の仕組みについて教えてくれます。伝えたいことは分かるのですが、案の定、スケールが違い過ぎて理解はできませんでした。

 何だか丸い星を炎の刀で両断するようなジェスチャーがありましたが、それも天使の務めなのでしょうか?

 どうやら天使というのはイメージとは真逆の危険な戦闘集団らしいです。目の前の彼もその一員だというのなら、垣間見えた影の顔にも合点がいく。二度と引き出さないように気をつけましょう……。

「てなわけで、俺が今からやろうとしてるのはこの魔法陣だけを天界と接続して、更にここから2周目に行ける扉を作って君を始まりの日まで送り届けようってことなのよ」

「え?は?いや、だから話が一歩早い!それに天界と接続って、それは必要なことなのですか?」

「ただやり直すだけなら要らないよ。俺が用意した扉をくぐるだけで始められる。

 だけど、記憶の引き継ぎも何もないのに2周目を始めたところで納得のいく結末になる可能性は望み薄だし、何なら今回よりも早い段階でアンヌが死んで終わりってパターンもある。

 対策を講じた上でそういう結果になるならもう仕方ないけど、わざわざ同じ条件でリトライするのは意味がないって、君もとっくに気付いているだろう?」

「意味って……。けど、それはそうですよね。何なら今回こそが私にできる最高の結末で、本来はもっと悲惨……。あなたの言う通り、ここまで辿り着いたのも運が良かっただけなのかも……はぁ」

 溜め息も出るというもの。言っていて悲しくなるが、散々これまで痛感してきた致命的弱点。

 私はそもそも戦士ではなく、しがない占い屋の民間人に過ぎず、戦闘などはみんなに頼りきりだった。

 私に戦う術はないと勘違いした敵に雷魔法をお見舞いすることや、背後から短剣で脅すなど、その場凌ぎの一か八かで戦術とすら呼べない誤魔化しのみで今日まで生き残ってきたわけですから。

 ただし、最後の『愚者』との戦闘がどのようなものだったのかだけは、どうしても思い出すことが叶わないのですが……。

「そんなにすぐネガティブにならず、顔を上げて!せっかく一度きりのやり直しなんだから特典を連れていこうよ」

「特典?」

「まずはこれ。ほい!」

 天使が指を鳴らすと、目蓋を閉じても防ぎきれないほどの強烈な白光が魔法陣の全面を覆った。

 これだけで失明させることも可能ではないかというレベルの光度だが、不思議とすぐに馴染んだから目を瞑る必要もなく、白光はいつの間にかあの空に似た落ち着く黄金色へ変わっていた。

 そして、円の中央には彼のように真っ白な扉が出現した。

「これが、天界との接続。そして、やり直しの扉……」

 仕組みなど到底分かるはずもない。

 様々な魔法や異能、あるいは神秘や奇跡などを体験する旅をしてきたけど、そのどれもこれもが私の目の前で起きている天の御業には遠く及ばない。

 全ての国を隈なく見てきたということは、この世の全てを知ったと言っても過言ではないはずです。

 だからこそ、全てが終わった後で世界の理から外れた者がやってきて、このように格の違いを見せつけられると、これまでの様々なアクシデントの数々も別に落ち込むほどではない些事だったのかなぁなんて楽観してしまいます。

「よぉし。とりあえずこれで俺の力を貸すことができるようになった。とは言っても貸せるのは半分だけだし、その半分でもアンヌの体には刺激が強すぎて破裂しちゃかもだから、とりあえずはその更に半分。一先ずは四分の一だけを貸すことにしておくよ」

「戦闘力ですか!確かにそれがあれば今回より大分マシになるかも。四分の一でも十分だと思いますけど……破裂って?」

 物騒なワードが挟まれていたので聞いておきましょう。何ならその半分でも多少はリスクがあるようにも思えてきて不安になってしまいます。やり直しだなんてチート行為に比べれば安いペナルティかもしれませんがきちんと確認すべし。

「今回の君はこれといって鍛錬とか積んでないし、戦闘も安全策ばかり選んでいたでしょ?はっきり言って吹けば飛ぶ軽さだ。2周目も同じく弱い体でスタートするわけだから、いきなり俺の力を半分も積むとなると体を壊すかもしれないんだ。だから、始まりの君にはこれくらいが限度なんだよ」

 まあまあ納得のいく説明ではある。昔の私は引きこもり状態に等しかったから、いきなり負荷をかけては筋肉痛では済まなそう……。

 体力など当然あるはずもなく、この体でよくここまで走ってこられたなと、自身の強運を褒めたくなります。それが幸運なのか、悪運だったのかはいくら考えてもキリがないのでしょうけど。

 彼は私以上に私のことを案じてくれています。

 やり直す以上は成功してほしいのだと、心から願ってくれているのがよく分かります。スケールは相変わらずぶっ飛んでいますが、決心の時が刻々と迫ってきていることも身に沁みてきました。

「贅沢は言えません。助かります。力が備わっている分だけよりまともな結果にできるかも。ただ、私に戦う勇気がなければせっかくの力が無駄になっちゃいますけど……」

「力というのは単純に戦闘力に限ったものじゃない。武力をはじめ、優しさ、他者の心を救う巧さ、惹きつけるカリスマ性……。そういったものをまとめて力としているからね。

 振る舞い方は勿論のこと、君の性格も多少は変化するかもだ。クールビューティーになるかもね。けどまあ、体と心は同じだから。仮に今の君が次の君を俯瞰して見たとしても、立派になったなぁと感心する程度じゃないかな?少なくとも四分の一の段階では」

「そう、ですか……」

 とにかく、次の私はこの私よりもしっかりしているようで少し気が晴れる。

 ……そんな思考は、今ここにいる私の終わりを受け入れ始めていることを意味しており、自決が遠い過去に思えるほど今は何だか惜しい気持ちになってしまいます。

「私が去った後、この世界はどうなるのですか?」

 だからそんな、どうせここで終わるのに、考えない方が楽なことを気にしてしまうのです。

「次の君からすれば無かったことになる。全てね。君が扉をくぐった時点で君の旅の過程も、結果も、諸共が完全に抹消されて生き残っている人たちも記録としては消滅する。

 彼らは自分たちが終わった存在なのだと気付くわけもなく、静かに生きて、たまに騒いで、そしてまた静かに次々と死んでいくだけさ。最後の一人になるまでね」

「……」

「記憶を引き継げない君は、この世界で出会ったみんなのことを全て忘れることになるからさ。0から出会いを始めるわけだから当然だ。君が愛したアルカナたちとは当然お互いに初対面となるわけだけど……そこで!もう1つの特典が発動されるのさ」

「どういうことですか?」

「デジャブだよ。初めて体験することのはずなのに、過去にどこかで体験したことがあるような感覚にハマること。君にも、他の誰にでも稀にあることだよね。これは2周目の君が何度も利用できる超強力な特典なんだけど……」

「あっ、そうか。記憶を無くしても体と心は同じだからデジャブは有効に……あれ?それって出来るのですか?……ああっ!そうです、そうです!2周目の制限ってそもそもあなたが調整してることだから、匙加減でデジャブくらいなら認められるってことですね!」

「出来るよ。制限は付けるけどね」

「えー!どうし……あっ」

「調子が出てきたね。うんうん。そろそろお別れの時間だから暗いより明るい方が良いよね」

「ごめんなさい……」

 彼の言わんとすることを読み切ったつもりになって思わず慌ててしまいました。

 ただ、彼の言う通り調子は回復していて、これまでの旅路の中でも今ほど心にゆとりを持てることは無かったくらいです。

「制限ってのはデジャブの範囲にしよう。あれもこれもどれも見たことがある。目に映るもの全て、体験する出来事の全てに既視感があるなんて頭おかしくならない?俺でもキツいよ」

「確かに……考えただけで気持ちが悪く……」

 頭がグルグル回りだしてまた吐き気がしてくる……。

 これ以上はいけないと、首を激しく横に振った。彼はそんな私に微笑み、説明を続けてくれた。

「プレッシャーを減らすためにも制限は必要だよ。天使の力が体への特典なら、デジャブは心への特典といったところかな。だからこそ、心を守るためにもレベルを落とした方がいい。

 そうだね、アルカナたちとの初対面時にだけ発動するようにしようか」

「それはとても便利ですね。最も苦労したのはアルカナを見つけ出すことでしたから。街ですれ違う人々の中からデジャブを通じてアルカナを引き当てるようなことが出来るのなら話が早いです」

「うん?ああ、そうだね」

 あえて力を制限することで便利になるという考え方がなかったので、一時でもそれに不満を抱いた自分を恥じた。

 勇敢に戦える力とこのアルカナ探知機があれば次の旅はかなり円滑に進むのではないでしょうか。

 しかし、今度は何やら彼の方が不満げな様子ですが……。

「必ず役に立つと思うよ」

「あの、私は何か……」

「デジャブはね、アルカナ探しのツールってだけじゃないんだ。今回の君が確かに生きていた証。旅の思い出の良い部分だけを次のアンヌへ引き継がせることができるんだよ」

「あっ……」

 彼が次に言うことが分かる。それでも、せめてそれだけは私の口から言わせてください。全く、どうして私はこんなにも勘が鈍いのか。

「そう、か。嫌な人たちの出来事は全て滅びるけど、私が好きだったアルカナたちとの思い出だけは……僅かばかり連れていける……」

「そういうこと。アルカナ以外の好きだった人たちはここに置いていくことになるけどね」

「いいです。もう、本当にこれだけ……いただけたのなら……」

 どれだけ泣いても涙は止まらない。そういう人生だったのだと、事ここに至ってようやく思い知る。幼子の頃でさえこれほど泣くことはなかったはずでしょうに。

 だけど、こればかりはしょうがない。

 今の私と次の私。同一人物のようで違う私たち。

 次の彼女には未来があるけど、今の私は結局ここで終わってしまうのですから。

 この世界に残った醜いものと、それしか残せなかった自身に絶望して自殺を決行した数分前の私へ。

 ……私たちはちゃんと報われるのです。

 黄金の空から舞い降りた雪のように白い男の子のおかげでアンヌの自殺は大いなる意味を成し、残滓となって次の私と共に旅を始めるのです。愛するみんなにもまた、きっと再会できることでしょう。

 だからもう、迷わない。かつてのように何も分からず世の中を怖がる必要なんてない。次の私なら、天使が見込んだ私なら、きっと上手くやってくれるはずだから。

「キヅナ、ありがとう」

「説明はもういいかい?いやー性に合わないことしたなー。俺ってば説明するのあんまり得意じゃないからさー」

「あっ、ごめんなさい。肝心なことを聞き忘れてました。もうちょっとだけいいですか?」

 肩の荷が下りたとばかりに腕をマッサージしている彼に対し、最悪のタイミングで大切なことを思い出してしまい申し訳ない気持ちになる。

 それでも、やっぱりこれだけは聞いておかなければなりません。

 というか、彼はどうしてこんな大事なことを先に話してくれなかったのでしょう?

「最も大切なことです。あの、どうして私が主役なのですか?やっぱりアルカナを束ねるカード使いだからですか?」

「確かに世界を救う宿命にある君はこの世界の主役みたいなものだから見つけやすかった。けど、それだけじゃないよ。俺からしたら救世主なんて別に珍しくもないし。ほとんどはスルーするか、何なら俺たちの仕事を代わりにやってもらうかだしさ」

「じゃあ、この結末が駄目だったとかですか?一応は救いましたけど、良い形ではないからとか……」

「いや、世界の美しさなんてどうでもいいよ。確かに仕事で救いに行くこともあるけど、これはもう滅んだほうがいいわって呆れることもあるからね。そこに生きる住民を見てから判断することも多い。必ずしも世界の存続が正義とは限らないし、何度も言うけど俺はこの世界に興味がない」

「では……どうして私を救ってくれるのですか?」

 私が素朴な疑問を言葉にすると、天使はその問いを待っていましたと言わんばかりに最高の笑みを返してくれました。

 それは、これまでに見た優しい笑みも悪戯な笑みも遠く及ばない……誰も遠く及ばない領域から世界を見据える超越者の貫禄に満ちた無敵の貌でした。

 

「俺はハッピーエンドが好きなんだよ。世界が救われるだけじゃなくて、ちゃんと主役が報われて、最期の瞬間に幸福な生涯だったって、心から満足して完結する明るいストーリーが大好きなのさ。

 別に、全員に機会を与えてきたわけじゃない。何とかできそうな子や、そもそもやる気のない子には干渉どころか流し見すらしないからね。

 いいかい?俺はね、君が好きなんだよ。

 君のように分不相応ながらも悪戯な運命により困難な問題を投げられて、ボロボロの格好で何とかその役目を果たす繊細な勇者。美しい少数のために醜い多数を許したお人好し。どれだけ結果に納得していなくても、憎しみの矛先を連中ではなく自分に向けることを選んだ優し過ぎる子。

 そういう子は、幸せになったほうがいい」

 

 ……そうか。私は一時の感情に任せて彼のことを、何も苦労せずただ眺めていただけの部外者だと判断して蔑むこともあった。

 それは事実でもあり、私の誤解でもあった。

 彼は今、私の胸をずっと締め付けていた重荷に触れた。

 私がずっと気付いて、傷ついて、褒めてほしかったことを……彼はずっと前から見抜いていたのかもしれない。

 これでは本当に返しきれないほどの恩ができてしまいます。

 本来なら最悪の気分のまま終わるはずだった私のおとぎ話は、最も遠い場所にいながらも深く理解してくれていた彼の手により報われようとしているのですから。

 彼こそが私の瞳に映る世界の救世主だったのですね。

「そんな……私そんな、物語の主役なんかじゃないのに……」

「それは君がそう悲観しているだけさ。俺に限らず、誰もが君をストーリーの核に相応しいヒロインだと認めていくはずさ。今回の君はかなりネガティブだったけど、次の君はとんでもない名役者に決まっている」

「分かるのですか?」

「分かるさ。俺が未来視を捨てたのは、そんなものに頼らずとも勘で賄えるからだもの。あるいは、信頼かな?」

 無敵の天使がそう言うと、白い扉が独りでに開かれた。中から白光が溢れ出して向こうの景色なんて見えやしない。

 それでも、彼が用意してくれたものなら間違いはないと信じられる。短い付き合いだというのに、どうやら私は彼に心を奪われてしまったようです。

「思い残すことはないかい?少なくとも、俺だけは君とここで話した内容を覚えているから、デジャブと同じように俺の中で君の証は残るわけだ」

「いいえ、もう満たされました。これ以上は、正しく破裂してしまいそう……」

「そっか。それなら間に合った甲斐があったなぁ」

 私だけでなく彼の方も望みを叶えて満足している様子でした。それが分かると私も一緒に嬉しくなりました。

 だから、もう始めないと。

 長く時間を使えばそれだけ賢くなってしまい、新たな謎に悩まされてしまうことでしょう。そうなる前に、心が充実している今こそが出立のタイミングに丁度いいはずなのです。

「私、行きます。今度はもっと上手くやれますように。みんなや世界のためだけじゃない……私こそが納得のできる最善の終わりを迎えるために」

 決意を顕わにすると、天使はまるで舞踏会の紳士のような所作で私を白い扉へと誘った。自然的で手慣れた振る舞い。改めて彼という芸術に魅了させられてしまいます。

「行ってらっしゃい、アンヌ。今の君とはここでお別れだけど、次の君とはターニングポイントとエピローグで会うことになるだろう。俺も出来る限りというか、やっていい範囲で君に強力すると誓うよ。何せアンヌは俺のお墨付きだ。きっと、上手くいくはずさ」

 天使の言葉に背中を押されて扉の前に立つ。

 あと一歩で私が終わり、新たな私が始まる。

 これは要するに、転生が約束されているだけの自殺に他なりません。先程のような絶望した上での自殺ではなく、今は希望に胸を躍らせているくらいの違いです。

 だから、いけないことに、つい躊躇してしまいました。

「あ……やだ……怖い……」

 これだけ尽くしてもらっておいてもなお、私の心には迷いが残っています。

 何を得るために、何を捨てるか。

 これまでの旅路はそういう重い選択の連続だったでしょうに、いざ私自身の命に関する決断ともなると鼓動が早くなり、両脚が震えて止まない。

 死を予感して気分が悪くなってきた。ああ、もう……また泣いてしまった。

 そんな私に何も言ってこないキヅナは私に呆れてしまっているのでしょうか。彼の表情を窺うのも怖くて棒立ちとなった私は、もう済んだはずの話を続けて時間稼ぎをするしかないのです。

「そういえば、あなたはずっと私を見ていたのですよね?それなら――」

「ずっとではないけど……『愚者』が何者か気になるのかい?生憎、それを知ったところで余計に惑うだけだよ。俺としては、君はその正体を知らないまま旅立った方が良いと思うな」

 ……凄いなぁ。そこまで見抜けるなんて。未来視も何もなく、ただ勘が良いというだけで他者の気持ちを読み取れるなんて。そのセンスは生まれつきのものなのか、それとも長い時間を経て身に付いた業なのでしょうか。

 もし……もしも彼が私の想像通り長命の生者だというのなら、これだけ多くの才能を背負いながら生きるというのは、果たして、幸せなのだろうか……。

 そういえば、誰もが欲しがるような力をいくつも捨ててきたと言ってましたっけ?それはやっぱり、たとえ彼の器に相応しい力だったとしても、快適より負荷の方が大きかったからなのでしょうか?

 彼はこれまでに何度も私のような人をたくさん救ってきたはずですが、彼自身は果たして誰かに救われたことがあるのでしょうか……?

「あの、私がこんな……言える身分じゃない、とは分かってますけど……あなたは、ちゃんと……幸せなのですか?」

 声がかすれて上手く喋れなかった。自分の耳でも聞き取りづらい声質だったからキヅナにも届かなかったはずです。ほら、何も返事が返ってこないじゃないですか。

 勇気を出して彼の顔色を確かめると、いつもの笑みを浮かべてくれていて、対する私は頬を涙で濡らす挙句、赤ん坊のように号泣する寸前で本当にみっともない。

 

 ――あれ?でも、彼には声が届かずとも心を読むことができるのでは……?

 

「行ってきます!」

 居ても立ってもいられず、私は羞恥から逃れるように扉の先へ足を伸ばし、爽やかにその生涯を閉じたのでした。

「行ってらっしゃい。よく頑張った!」

 最期だから、かすれたままの声を懸命に張り上げて私の天使と別れを告げました。

 不意に労いの言葉をかけられたので涙で顔がめちゃくちゃになってしまいましたが、間一髪でその慟哭をここに置いていくことは免れました。

 本当に、終始みっともない様を晒してしまいましたが、そんな私をずっと応援してくれていた彼こそがそれを許してくれているのですから別にだらしないまま終わっても構いませんよね。私とは所詮、こういう女だったのですから。


 ――さようなら、泣き虫アンヌ。来世の私はきっと、尊厳に満ちた多幸の旅路を歩むことでしょう。

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