第26話

 今年の四月――江那は中等部にあがり、理紗と寮で同室になった。


「理紗、いつものじゃないのか?」


 テラスで、ケーキを食べる理紗に、滝口が声をかけた。理紗はピスタチオではなく、フルーツのケーキを食べていた。向かいには相羽がいて、紅茶を飲んでいる。


「ええ」

「珍しいな」

「一生分、食べちゃったんだよな」

「そうなんです」


 相羽が、滝口を見ながら、理紗に言った。理紗も、滝口にそう返した。

 理紗は、江那が中等部に入ったのを契機に、すっぱりとピスタチオを断ったのだった。


「お姉さま、ケーキ食べてらっしゃるの?」


 向こうから、江那が歩いてきた。目線は理紗のまま、滝口と相羽に小さく礼をすると、こそこそと理紗のそばに寄る。


「いいな。私も食べたい」

「だったら週末、食べに行きましょう。安心なお店を知ってるから」

「もう。今、食べたいの!」


 江那が、甘えた声で抗議した。理紗は、「ごめんね」と微笑する。フォークを置いて、江那をなだめる。ふいに相羽が、笑い声をあげた。


「妹さんは、甘えん坊だな」

「相羽先輩」

「こんにちは。エナさん」


 江那は、理紗だけに放しているつもりだったらしい。突然入ってきた声に、顔を真っ赤にして俯いた。


「江那。紹介するわね。こちら、相羽亮丞さん」

「リサの先輩で恋人のな。リサから聞いてる?」


 江那は相羽の言葉に、目を見開いた。理紗の肩にぎゅっとしがみつくと、悔しそうに、相羽を睨んだ。相羽は笑みを浮かべたまま、鷹揚に言葉を続ける。


「俺はリサから聞いてるぜ。君がすごく可愛いって」

「先輩!」

「照れるなよ。本当のことだろ?」


 理紗が、頬を赤らめるのに、相羽は大笑した。滝口も理紗をやさしい目で見つめる。


「お姉さま、ほんと?」


 江那は、か細い、甘い声で問い返した。目はきらきらと、うかがうように姉を見つめていた。理紗は、はにかむと、頷いた。


「本当よ。先輩ったら……内緒だと思って、たくさん話したんですよ」

「うれしい」


 江那は、顔を真っ赤にして、理紗にくっついた。理紗もまた、妹の腕に手を添えた。相羽は、ほほえましげに、二人を――江那を見ていた。

 江那は、それから相羽に気を許したようだった。目線を合わせないながら、にこにこと、主に姉の話――姉から聞いた自分の話を知りたがった。

 理紗は、そんな二人に、ほんの少し嫉妬しないでもなかったが、相羽が自分の妹に好意的なことが嬉しかった。


「それから、少しした頃だった。相羽先輩に、別れを切り出されたのは」


 江那の瞳が、相羽のそれと合うようになっていって――相羽に、からかわれては、すねたり笑ったりするようになった頃のことだった。


「エナのことが好きになった。エナにも、リサにも、うそはつきたくない。別れてほしい」


 青天の霹靂、とは言い難かった。相羽の気持ちが、江那にむき出したことはわかっていた。理紗はそれくらいには、相羽のことを見ていたし、知っていたつもりだった。


「そうですか」

「本当にごめん」


 相羽は、真摯に理紗に謝った。いかに江那のことが本気か、姉である理紗を安心させるかのように、一生懸命語った。理紗はそれを悲しい気持ちで聞いた。同時に、それが嬉しくもあった。頼りにされているのが、わかったから。


「わかりました。お友達に戻りましょう」

「ありがとう」


 理紗は悲しい微笑を浮かべ、別れを承諾した。相羽はあたたかに笑い、礼を述べた。


「ただ、先輩。あの子、アレルギーがあるんです。ですから……」

「ああ」


 理紗の言葉に、相羽はジャケットのポケットに手を突っ込み、それを取り出して見せた。


「ピーナッツバーはやめた。江那に本気だから」

「そうですか」


 理紗は、目を伏せた。本当は、知っていた。江那と接近しだしてから、相羽がチョコレートバーに変えたことは。知った時はただ、その思いやりが純粋に嬉しかった。けれど、この時は、ひたすらに切なかった。


「頑張ってください」

「ああ、ありがとう」


 そう言って、二人は別れたのだった。

 江那は、相羽のアプローチに戸惑っていた。けれど、理紗は知っていた。江那もまた、相羽を憎からず思っていたことは。

 江那は、理紗との気持ちで板挟みになり、ふさぎこむことが多くなった。理紗は、ずっと浮かない顔をしている江那を見ると、かわいそうになった。


「江那、相羽先輩のことなんだけど」

「お姉さま、わ、私、あの人のこときらい! だから……」

「本当にきらいなの?」


 江那は黙り込んだ。たてた膝に顔を埋める。理紗は、江那の背をさすってやる。


「お姉さまは、一番うれしいことがあるのよ。何かわかる?」

「なに?」

「江那が幸せでいることよ」


 嘘はなかった。胸がどれほど痛くても、江那の不幸を望んだことはない。理紗は自分を鼓舞し、江那を励ました。


「お姉さま、ごめんなさい」


 江那が泣き出したのを、そっと抱きしめる。江那は、しゃくりあげながら、言葉をつむいだ。理紗は、江那の言葉を辛抱強く聞いた。


「謝らなくていいのよ」

「先輩、私の為に、ピーナッツバーやめてくれたの」

「うん」

「それで、私、止められなくなっちゃったの。私の為に、そんなことしてくれた人、初めてだったから」


 その言葉に、思わず理紗は目を見開いた。息を止め、江那を励ますことを一瞬、忘れた。理紗は、自分でも、自分のその反応がわからなかった。その時の気持ちは、怒りでも、悲しみでもない――ただ衝撃となり、理紗の心に穴をあけた。

 理紗は、江那に心から寄り添いながら、その心がしぼみ、倒れていくのをどこかで感じていた。


 ――はじめて。はじめて……。


「ショックだった。私も、相羽先輩のしているように、ずっとしてきたつもりだったから」


 自分にとって、当たり前のことが、江那にとって自分の恋人だった人を好きになる、決め手になりえたのだ。理紗は、江那がわからなくなった。正しくは――江那の中にいる、自分という存在がわからなくなったのだった。

 それから、答えのない問いが、ずっと理紗の心でこだまするようになった。

 ――私は、江那のなんなんだろう?


 やがて、江那は相羽とつきあい始めた。二人はそろって理紗にお礼を言いに来てくれた。


「おめでとう、ふたりとも」

「ありがとう、お姉さま」

「お前は最高の友達だよ、リサ」


 理紗は、祝福しながらも、足下から崩れ落ちそうだった。不安で、悲しくて、しかたなかった。

 くしくも、今年は誕生日に両親の予定があかず、家族で過ごせなくなったと聞いていた。江那は、相羽とふたりで誕生日を祝うらしい。理紗は、一人だった。

 二人は、二人の恋のキューピッドである理紗を信頼し、友人として関係は続いた。望んだはずのそれが、苦しくて仕方なく、そんな自分にも嫌悪していた。


「そんな時だったの。友人たちが、私の誕生日パーティーを開こうと言ってくれたのは」

 

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