第4話 もう一人のアイドルに会えるらしい
「別の部屋に移動しましょう。ゆっくりでいいわよ」
——会えるならば、会ってみたい。
無瑕は結局、一人で生きるのは絶えられない弱い人間だった。弱さを認めることが、無瑕が生きていくためにできる精一杯のもがきだった。
無瑕の名を呼ぶかすれた老婆の声がしたので、荷物を持ってカーテンをめくった。すると、騒がしい人間の喋り声が聞こえてきた。今の無瑕はその騒音も気にならないほどに、期待と不安で胸が波打った。
老婆は個室が並ぶ廊下の一番奥にある、来店した時に見つけた、アヤシゲな黒いドアの前で待っていた。恐る恐る近づくと、先ほどは認識していなかったが、扉に『立入禁止』の張り紙がされていた。それだけではない、『勝手に入ったら、先生からきっついお仕置きがあります。怖いです』と脅しの言葉が並べられていた。
——やっぱりヤバいところかもと無瑕が扉を開けるのを躊躇していると、老婆は「さぁ、早く入って」と無瑕を急かした。無瑕は拭いきれない不安を漏らした。
「あの、きっついお仕置きってなんですか?」
「お尻ペンペンよ。無瑕ちゃんは入って大丈夫」
「あっ、はい」
無瑕はゆっくりとドアを開け、足を踏み入れた。部屋の中には、家のリビングにありそうな四角いテーブル、向かい合った二つの椅子。そして、二メートルはありそうな赤いドアがあった。無瑕は椅子に座り、鼓動がどんどん早くなるのを感じながら、大きなドアを見つめていた。今にもドアから何かが飛び出してきそうだ。すると、老婆が紅茶の入ったカップ二つとポットを持って来た。りんごの良い香りがして、無瑕は紅茶が目の前に置かれていたことに気づいた。
「すみません、ありがとうございます」
「時間は十分くらいかしらね、楽しんでね〜」と老婆は笑顔で返した。
「はい。……あっ、ちょっと待って」
ドアは音を立てて閉まり、無瑕の体もピクリと反応した。無瑕は説明も受けないまま一人残され、自分が置かれている状況を理解できなかった。その後紅茶を飲み終わっても、部屋では何も起きなかった。ここまで誰も来ないとさすがに不安になり、部屋から出るために椅子から立ち上がった。その瞬間、背後の赤いドアが輝き出した。
「なにこれ!」
無瑕は振り返ると、眩しさのあまり目をつむった。ギギギと扉が開いて、ヒールの音が近づいてきた。
「はじめまして」と滑らでむらのない声が聞こえた。段々と目が慣れてきて、無瑕はゆっくりと目を開けた。
「はじめ、まして……」
そこには黒髪のキレイな女性が立っていた。無瑕の印象だと歳は三十ほどのようで、形のはっきりした目元に長いまつげ、ゆとりある口を色づける真っ赤なリップが特徴的だった。前髪がなく、長い黒髪をクリップで一つにまとめ、黒いレザーのロングスカートがかっこいい印象を与えた。光を放ったドアから女性が出てくるという不思議な光景に、無瑕は驚きで口が塞がらなかった。
「私は上杉って言います。よろしくね、無瑕ちゃん」
「……お願いします」
疑心暗鬼になりながら、なんとか答えた。「なぜ名前を知っているんですか?」と上杉が無瑕の名前をすでに知っていることに、単純な疑問も持った。
「書いてあるから」
上杉が不思議そうな顔で指をさす先をたどり、無瑕は振り向いた。そこには、『久間無瑕』とそれはそれは大きな文字で黒板にかかれていた。老婆が書いたのであろう、乱雑な文字だった。無瑕は塞がれない口を押さえ、視線を上杉に戻した。一方の上杉は微笑みながら席についた。それを見て無瑕も椅子に座り、姿勢を正した。
「紅茶、いただきます」
上杉が紅茶を上品に飲んだのを見て、無瑕も緊張をほぐすために紅茶を飲もうとカップを傾けたが、先ほど飲み干していたので、たった一滴しか喉を通らなかった。カップを置き、無瑕は呆けている自分が恥ずかしくなった。すると、上杉が無瑕のカップに紅茶を注いだ。
「ありがとうございます」
無瑕は落ち着いて紅茶を飲んだ。いつもの無瑕は人をじっと見つめることはないのだが、上杉の顔から目が離せなかった。自分にはないものを持っているからなのか、彼女への興味が止まらなかった。
「一体、どこから……?」
「あのドアから」
―—それはそうなんですけど!
「それは秘密だよ」
子供のような無邪気な笑顔で返す上杉に対して、もう言及するのは良いかもしれないと無瑕は思った。秘密を聞けば、老婆に怒られて出禁になるのではとも考えた。今はただ彼女と話がしてみたい。無瑕は自分でも珍しいと思いながらも、純粋な気持ちで質問を投げかけた。
「上杉さんもアイドル、なんですか?」
「うん、アイドルだね」
上杉の潔い答え方に、無瑕はより好感を持った。上杉は人差し指を上げて、ウインクして口を開いた。
「稀だけど、唯一無二じゃない」
「本当ですね」
「うんうん、それを分かってくれて嬉しいよ」
上杉の微笑んだ顔を見て、無瑕はだんだんと緊張がほぐれてきた。明るい上杉と暗い自分が同じアイドルだなんて、最初は信じがたかったが、本当に同じような人はいるのだなと、無瑕にも笑みがこぼれた。
「これも黒板に書いてあるんだけど」という上杉の言葉に従い、名前の右横に『二人の馴れ初めをよろしく!』と書かれていることを無瑕は確認した。恋愛相談をしにきたのではないと、無瑕は相変わらず居心地の悪い気持ちになった。
「マダムウィッチ先生は、私と彼の話をしてほしいとのことらしい」
無瑕は知らない人物の名前が出たので、「マダムウィッチ先生?」と上杉に投げかけた。
「占い師さんの名前だよ」
「知らなかった、すごい名前……」
予想外の名前に無瑕が直球な感想を述べると、二人の間で笑いが起こった。無瑕は上杉には心を開ける気がしていて、久しぶりの感情に自分でも少し戸惑った。恋人の話だろうが、構わない。彼女の話ならばなんでも聞いてみたいと思い、無瑕は頷いてから口を開いた。
「お話、聞かせてください」
「うん、ありがとう。けっこう昔の話だよ」と微笑んで言った上杉は、表情に少し陰りを見せて、無瑕は真面目な話なのだと感じ取り、すぐに真顔になった。
「私もこのアヤシイ店で占いをして、マダムウィッチ先生にアイドルだと言われてから、すごく悩んだ結果、アイドルとして生きることにしたの」
アヤシイという印象に共感を覚えながら、無瑕は上杉の話を重い表情で聞いた。
「こういう自分がしんどかったけど、自分を捨てることはできなかった」
捨てるというのは、自ら命を絶つという意味だろう。無瑕はその言葉を聞いて胸が痛んだ。上杉のように立派な大人でも、そのように考えてきた。多くの葛藤を乗り越えた先に上杉の華のような笑顔はあるのだと、無瑕はしみじみと感じた。
「マダムウィッチ先生には、アイドルを演じて本質を誰にも見せないことをすすめされたけど、私には無理だった。だから、付き合った人に本質を隠さなかった。それを受け入れてくれる人としか、一緒になりたくなかった」
上杉のその瞳は切実で、無瑕も一生理解者がいないなんて、絶えられないという思いが一緒であったので、仲間が見つけたと喜びを感じた。無瑕の場合、両親という理解してくれる人がいることが、理解者を求めてしまう理由なのだろうとも思った。上杉はゆっくりと目を閉じた。
「恋人になって日が経つに連れ、私の本性というか完璧じゃない私が出てきてしまう。本当は全くアイドルなんかじゃないからね。今までの彼はすごく残念がって、私のギャップに耐えられなくなるみたいで別れてきた。でも、彼……私の夫は違った」
上杉は夫の顔を思い出してか、顔がほころんだ。
「彼は私を受け入れてくれた。私には裏があると打ち明けたの。本当にステキな人で、彼はそれを含めて私が好きと言ってくれた」
「本当に……ステキですね」
無瑕は心の底から感動してしまった。夫婦愛とは本当にステキだなと、人同士の信じられるものを感じた。
「無瑕ちゃんにも必ずいる。理解してくれる人が」
「いますかね?」と無瑕は期待と不安が入り混じり、求めるように上杉を見た。上杉は満面の笑みで、深く頷いた。
「もちろんだよ。だから、あなたらしくいてね」
「私も自分を捨てたりしません」
無瑕は思ったことをそのまま上杉に告げた。相手の顔色は伺わず、本心を言うことができた。
「ありがとう、約束だよ」
上杉は嬉しそうに小指を立て無瑕も同じようにし、二人は指切りをした。その時、タイマーが鳴り響いた。無瑕は目を見開いて上杉を見ると、二人は吹き出した。しばらく笑い合っていると、上杉がゆっくりと立ち上がった。
「もう行かなきゃ、ばいばい」
「もうですか?」
無瑕は、沈みゆく夕日を眺めているような切なさが込み上げてきた。すると、上杉は目を伏せて頷いた。無瑕は上杉も同じように別れを惜しんでくれているのだと感じ、感動が込み上げてきた。
「ありがとうございました」
言葉一つ一つに気持ちを込めて伝え、無瑕は深々と頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとう」と上杉は胸に手を当て優しく微笑むと、ドアに向かって歩き出した。無瑕は寂しさを覚えつつ、上杉の背中を見つめていた。すると、上杉は突然振り返って、まるで我が子を見るような愛おしい目で無瑕を見ていた。その瞳を見た無瑕の心は、上杉への好意と別れの淋しさが入り混じり、泣きそうな目で微笑みを返した。五秒ほど見つめ合ったが、上杉がふと背を向けた。ドアが開かれると、辺りは一瞬で眩しい光に包まれた。無瑕が目を開けると、赤いドアはしっかり閉じられており、上杉が使ったカップだけがテーブルに残されていた。
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