赤い文字

沙波

プロローグ

 本当に彼女にそんな世界が見えているのか、僕は驚いてもう一度聞き返すと、

「見えるわ。この絵の中に美しい世界が」

 そう言って微笑んでくれた。

 僕にはそれだけで、十分だった。


 ◇


 私は母の言葉からずっと『聖女』と言われ、育てられてきた。

――聖女って何?

 ゆりみたいに美しい女の子のことよ。

――女の子はみんな聖女じゃないの?

 ゆりが特別なのよ。


 母が言っていたその言葉を聞いて、幼稚園生の頃は自分が聖女であることを疑ったことはなかった。でも、大人になるにつれ、私が聖女ではないことは一目瞭然だった。学校のクラスには、色気付いた女子で溢れ、クラスメイトの視線は私ではなく彼女たちへ。

 “ゆりちゃんは清楚だね”

 それが唯一もらった私の褒め言葉。

 だけど、そんな言葉も裏を返せば、地味だと言われているのと同義に聞こえた。

 スカートの長さは学校の規定通りで、切り揃えた黒髪に、これと言って特徴のない顔。スタイルも普通。取り立てて自慢できることはなかった。母が私を聖女だと言ったのは、母のなりの愛情表現なのだとそう割り切って、私は自分自身に諦めた。

 聖女として生きるよりも、今をどう生きるかの方が大変だったから。


 学校の勉強、友人との付き合い、家族のこと。

 高校を卒業して、専門学校を卒業して、なんとか就職口を掴んで。誰もが通るべきと定められたルートをなんとか走り抜けた。

 そんな時に出会ったのがあの人だった。


「きみは聖女のように可愛いね」

 そこ言葉はどこまでが本当で、どこまでが嘘なのか、私に知る術はない。

 確かなのは彼が、今まで誰もくれることのなかった、私が一番欲しかった言葉をくれたということ。

 “聖女”という言葉をもらった私は天にものぼる気持ちになった。

 彼と恋人関係になってから、とても幸せだった。ただ、彼はひどく忙しい人だったから、会えない日がよくあった。

 電話をくれると言って、ずっと待っていたのに来なかった日。

 メールをしても返信がないことはザラだった。

 周囲にそれを相談すると、やめた方がいいと引き留められたが、踏ん切りはつかない。

 ある時、彼から彼の友人だと言う画家を紹介してもらった。

 その画家で無口な人だった。最初は彼のことがあまり好きになれなかった。でも、連絡がこない時はなんとなく彼の部屋に行った。

 同じマンションに住んでいたから行きやすかったのも一つの理由だろう。

 彼の声を聞くと、常に変わらない感じがして、ホッとした。

 あるとき、少し用事があって部屋に入らせてもらった。わがままを言って、部屋に入らせてもらったのだが、その時も彼は嫌な顔ひとつ見せず、どうぞと、淡々とした感じで言ってくれた。もしかしたら、子供が部屋に入りたいと駄々をこねたように彼の目に映ったのかもしれない。画家と言う職業の人には”ミューズ”とも呼べるような感性を掻き立ててくれるそんな存在の女性が幾人かいる。それは私が画家と言う人達に対して抱く勝手なイメージだ。彼にもきっとそんな存在がいるのだろうと思う。しかし、彼にとっての私はミューズ=聖女ではないのだと痛感する。

 私はひとつの用事を済ませた。前々から恋人の不貞を疑っていた。信じたかった。でも、弱い心が私を今日の行動へと駆り立てる。結果は黒。許さない。許せない。でも……。

 祖母がいれてくれる温かい緑茶が飲みたい。もうこれ以上ここにはいられないと思って、部屋を出た時、画家の彼はコーヒーの香りを漂わせたカップを差し出す。

 その気遣いが心に沁みた。

 だからか、妙な気になって画家の描いた絵をぜひ見せて欲しいと言った。

 この時、画家の彼は初めて人間らしい表情を浮かべた。今まではその表情には感情が全くともっていなかったのだとも私はその時知った。。初めて表情に纏わせた感情は“驚き”であった。

「どうぞ」

 画家はそれだけ言って、彼のアトリエだと言う部屋に案内してくれた。

 部屋の中にはムッとする絵の具(おそらく油彩)と、部屋に所狭しと大小様々なキャンバスが乱雑にならんでいる。

「たくさん、描かれているのですね」

 この部屋にキャンバスは全部入りきれないので、向こうのリビングにも絵を並べているのだと言った。

 先ほどの私の個人的な見解を再掲すると、画家という職業の人はその、絵のモデルと親密な関係になりやすいのではないかと。そう思っていたのだが、しかし、彼の絵を見る限り、ほとんどが油彩の色の暗いもので、おそらく人っぽいという描写はあるが、一目見てキレイだと判断できるような人物は見当たらない。そう言った関係の女性はいないのかもしれない。

 だったら、私を描いて欲しいなと思った。

「見えるわ。この絵の中に美しい世界が」

 そう言った時に、初めて彼の表情に華やかな色がついた。


 

 気がつくと彼女からキスをされていた。

 その時に思ったのは、彼女への恋愛感情ではなく、僕自身が心の師とあおぐ、あの悲劇の画家のこと。

 彼がどうして天女など、現実にはいないだろうと思われる女性の絵を描いていたのか。今、その理由の一端がわかったのような気がした。もう会う事の叶わない誰かを思って描いたのではないだろうか。

 月日が経つにつれて、思い浮かぶ女性の顔が次第に薄れて行き、あのつくりものめいた表情を浮かべる女性が出来上がったのではないかと。

 あの画家は一体どんな女性を思っていたのだろうか。多分、彼の経歴から言って……

「ねえ」

 呼びかけられた声で現実に引き戻される。

「ねえ、聞いている?」

 目の前の女性と視線を合わせる。

 無表情。

 声のトーンなどから、僕自身に怒っているのは間違いなさそうだ。しかし、なぜ怒っているのかがわからない。

 昔からそうだった。

 他人の感情に対して疎い部分がある。

 傷つけたい訳でも、冷たくしたい訳でもないのだが、どうしてかそう言った部分に関しては上手くいかない。

 絵だってそうだ。

 本当は、誰か著名な画家が描いている様な美しい人物があるような絵を描いてみたいと、心の奥底では思っているのだが、そんな絵に近づいて描こうとすればするほど、人から離れてしまう。描いている僕の方が、訳がわからなくなってしまう。

 人生で一度くらいは女性の絵を描いてみたいとそう思うのだが。

「ごめんなさい。無理やり家に上がり込んで、勝手にこんなことをされて怒っているのは貴方の方よね。本当にごめんなさい」

「……」

「絵を描いていらっしゃったのよね? ごめんなさい、お邪魔をして。私、もう行くわ」

 彼女は無理やり笑顔をつくって立ち上がる。

 僕は本能的に彼女のことを傷つけているのだと察知するが、具体的に僕自身の何が彼女の気にそぐわなかったのかが、わからない。考えても考えても、いつもわからない。

 今の僕に、彼女をひきとめる言葉なんて持ち合わせていない。

 こんな時に『ごめん』と逆に謝っても彼女を余計に傷つけるだけだということは何となく思った。

 パタリと、玄関の扉が閉まるまでただ、ずっと眺めていた。

 心の中に彼女に対しての罪悪感だけが残った。

 

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