無駄に賢い名探偵

@Yamane-ko55

第一章 【無駄な物語の無駄】

 プロローグ

 

 完璧とは何か。究極とは何か。不変とは何か。不滅とは何か。

 それはすぐ近くにあったもので。今とはなっては崖の向かい側にいる。

 いわば、金切透にとっての彼女——空桃花音はそういった存在だった。

 それを守ろうとした。保護しようとした。

 望まれてさえいないのに。

 それでも俺は彼女がこの世界に忌避されているのが見過ごせなかった。

 故に、誰もが羨望し、憧憬し、敬い従う、そんな存在へと彼女を昇華させることに決めた。完璧で、究極で、不変で、不滅で、無駄の削ぎ落とされた俺のヒーロー。

 彼女のためなら俺は何にだってなれる。

 そう例え、犯罪王と呼ばれようとも。

 確固たる決意を持って俺は動き出す。

 もうあの頃には戻れないと知りながら。

 

 簡潔に結論を言うなら。

 今回の一件は少しイレギュラーだった。これまでに類を見ない、むしろ俺でさえ拍子抜けするほどの不完全な事件だった。

 今では仰々しく犯罪王なんて名乗っちゃいるが、だからと言って人間の金切透の根本が揺らぐなんてこともなく、動揺が皆無であったかと聞かれればそうではない。

 久しく自分が人間であるのだと実感できた。

 不完全であると再認識できた。

 不完全であると言うなら今回の一件も負けず劣らずの不完全であったように思う。

 そもそも初めから何もかもが間違いだったのだ。結局は全てが無駄だった。担当編集の彼女も作家の彼女も、二人の関係性さえも。

 見るに耐えないとまではいかないものの、目も当てられなくなるような歪な輪郭で型取られていたことは確かだった。

 採算の取れていないような、釣り合いの取れていない天秤のような。決してイコールで繋がることのなかった彼女たちの物語が今回の事件の根幹を成していたのだろう。

 それさえもまったく無駄なことだ。

 欠伸が出るほどにな。

 ふわぁ……。

 しかし、作家の彼女に言わせてみれば、無駄こそが物語を導き変動させ得る唯一の要素なのだろう。

 こと俺に関しては決してそうは思わないがね。

 無駄が物語になるのではない。

 物語こそ無駄なのだ。

 故に無駄は物語に還元できる。

 無限性の汎用性を備える『無駄』と言う元素は、いわば水素だ。酸素だ。

 いやそれ以上の存在であることを俺は保証しよう。

 万物に添加できるそれは時に良薬にもなりうるが、大抵の場合デメリットしか生じない。添加物盛りだくさんの食品がただうまいの一言だけで終われないように、『無駄』もまた予測不能な因子を多分に孕んでいる。

 

 結局は……無駄だよな。

 

 良薬口に苦し。

 そんな言葉さえも無駄だよな。まるで幸せを享受したければ痛みにも耐えろとでも言いたげで、理不尽だよな、不可解だよな、不完全だよな。

 やっぱり無駄だよな。

 そもそもこんなことを考えているこの時間さえも無駄だよな。

 そんなことをしている俺もまた無駄だ。

 こんな無駄多き俺が、果たして本当に彼女を完璧へと昇華できるのか?

 そんな質問すら俺にとって

 ——無駄だ。

 彼女が完璧へと究極へと近づくのであれば、いくら俺が不完全でも無駄でも一向に構わない。

 失敗したことを考えるなんてことは最も無駄なのだから。

 

 

 

 プロローグ#2

 

 小説家になってまず思ったことは、小説が無駄であると言うことだ。

 それを書いたからと言って何になると言うわけでもなく、せいぜい得られる影響といえば見も知らぬ赤の他人の心に感動の波を立てるくらいだ。それはとても荒唐無稽なことだとは思わない?

 故に無駄であると私、狩野喜代は断定した。

 とも言いながらも、さてはて不思議なことに私は今も尚、物書きを続けているのだからそれはある種の病にかかっていると形容しても差し支えないよね。病というよりは呪い?

 何故、無駄であると断言したものを書き続けるのか。そう怒鳴り散らされたとしても仕方ないし、私は一向に構わないと思っている。

 むしろ大歓迎だよ!

 小説家に表現の自由があるくせして、読者にはないと言うのはいささか理不尽だからね。しかし、根拠のない発言は控えて頂きたいかな。

 無駄であると断定しているからと言って、別談私は小説が嫌いというわけではないのだよ。

 ここ最近世間を騒がしている、なんなら先日もお世話になった犯罪王と呼ばれる少年ではないのだし。世間が彼を忌み嫌うと同じような具合で、私が小説を親の仇のように思っているなんてことは断じてない。断じて、だ。

 しかしだからと言って、かの無駄に賢いと言われる名探偵ほど私は無駄に恋しているわけではない。あれこそ病気と言ってもいい。

 私が思うに、彼女が愛するその『無駄』は小説という無相世界を構成する一パーツでしかない。

 いわば酸素だ。水素だ。窒素だ。

 

 ——二酸化円周率だ!

 

 …………。

 おや、私の渾身のギャグが通じない?

 二酸化円周率……、私もこの身なりではありながら女性という立場だ。それについて少しばかりは気にしているのだが。はてもう成長期は来ないのだろうか?

 齢十四にして私に希望はもうないのか!

 正直そこまで気にしていることではないが。

 物書きにそんなものあってもなくても、執筆活動に影響することも、締め切りが先送りされることもないのだから、特に気にする必要は皆無と言っても過言ではないね。

 まだ彼氏なんて作るほど色立ってないしね。

 というか彼氏なんていても意味ないよね。無駄だよ。無駄。

 それこそ先日の一件に負けず劣らずの無駄さ加減だよ。

 無駄すぎて、顔の影が濃くなっちゃうよ。白金星を背中から出しちゃうよ。ロードローラーはどこかな?

 今週食べたパンの枚数は三枚です!

 天真爛漫狩野喜代ちゃんは、先日の一件について物申す。

 あの犯罪王も相当無駄なことをしていると思うけど、それに対抗するあの名探偵も無駄と言わざるを得ない。不毛な戦いというか……。

 いや別に両者とも争っているという訳でもないのだけど。強いていうなら痴話喧嘩。それはそれで争っているか。うーん。うん。争っている。争っているで間違い無いと思うよ。喜代ちゃんはそう断言する!

 犯罪王の行いに、一時世界が騒然として誰も彼もが、彼が仕掛けたトリックを紐解こうと躍起になったけど(それが叙述トリックであったなら私にも容易に解けたけどね……)。でもでも、蓋を開いてみればあっという驚きもなくて、なんていうかな、みんな居残りを食らったというか。

 間違えた。それは普段の私でした。

 というか、それよりも喜代ちゃんが今回で最も衝撃を受けたのは、折り紙のお兄ちゃんのことだよ。私が天才作家の狩野喜代であることに気づかず、私に私の小説のことを熱く語り強く勧めてくる、四季折々の畳み掛けられることが大好きなお兄ちゃん。

 そんなお兄ちゃんがまさかかの名探偵の助手だったとはね。流石の喜代ちゃんも予想だにしなかったよ。

 まあ、とりあえず折り紙のお兄ちゃんのことは横に置いておくとして本題に戻ろっか。

 居残りではなくて、意外すぎる結末に誰もが肩透かしを食らった気分でいたのだけれど。

 ん? でも、居残りを食らった気分という表現もあながち間違いでも無いかも。当たらずとも遠からずって感じ?

 流石私、無意識下でも物事を形容することの上手いことよ。

 そんな喜代ちゃんを褒めてくれたっていいんだぞ? むしろ大歓迎だよ? 拍手喝采だよ! わーパチパチパチ。

 自画自賛もそこまでに。

 居残ると言っても残るのは教室にではなく心にだ。

 何が——熱い思いがだよ。

 言うなれば無駄な思いだけが心の中にしこりとして残っただけだった。

 結局のところ今回の一件を一言で言い表すなら、この一言が最適だ。

 『無駄』

 この二文字に尽きる。

 小説家冥利に尽きる一件ではあったけどね。

 その一件のその無駄を拝借して、私は今新たな小説を書いている。

 尚、締め切りは明後日だ。ちなみに書き上がっているページはまだ三十も切っていない。

 あーもうストレスが溜まってく。こりゃSNSでファンに慰めてもらわなければならないな。

 ヒョイっと。

 ピポパポパポパパパパパポポポ。

 おっといつもの癖で変な書き込みをするところだった。

 まったく……これで最近痛い目にあったというのに。人間ていうのは罪な生き物だな〜。

 いやはや、身体に染み付いてしまった悪癖というのはどうにも消し去り難い。

 にしても……悪癖、ね。

 

 ——条件反射。

 

 君たちはパブロフの犬をご存知だろうか?

 なにぶん小説家という立場であるが故に、私の脳みそはそれなりの容量を学問的知識が占めているのだけど。

 パブロフの犬は貯蓄された膨大の知識の中のその一つで、生物の後天的に備えられる反射行動を指した生理現象を言う。

 詳しいことはあまり覚えていないのだけれど。

 かいつまんで説明するなら、犬にベルを鳴らしてえさを与えるのを繰り返すと、ベルを鳴らしただけで、犬がだ液を分泌するようになると言うもの。

 もっと詳細なことを知りたいのであれば、かの無駄に賢い名探偵の少女がおわせられる空桃探偵事務所の門を叩くといいよ。その日のうちに帰れるかどうかは保証しないけどね。

 話が難しくなっちゃたね。

 まあなに? 詰まるところ何が言いたいかってね。

 今回の事件は、現場が図書館なだけあって、知と学習にまつわるお話ということ。

 学ぶことによって得られる恩恵は何も良いものだけとは限らない。昨今の若者は切迫した表情で勉学に励んでいるけど、彼ら彼女らは真の意味で学ぶことの意義を知っているのだろうか?

 いや、知るよしもないだろう。それこそ小説家なんかではない限り。

 考えもしないはずさ。

 学ぶと言うことの意味を。学ぶことによって被る弊害を。

 結局そんなこともすべて含めて人間と言う生き物は無駄で在り続け。また、そんな彼らが紡ぐ物語も無駄によって構築されているんだ。

 少なくとも私——狩野喜代はそう考える。

 そう——結論づける。

 

 第一章【無駄な物語の無駄】

 part1

 

 ブワッと窓の外からカーテンを押し上げて早朝の陽気な風が傾れ込む。ローテーブルの上に開きっぱなしで置いてあった本のページがペラペラと捲られる音が耳朶だ震わせた。

 それにどこか焦燥感を覚えつつ、淹れたてならではの珈琲の香ばしいかおりに鼻腔をくすぐられながら、熱のこもったマグカップを手に僕は足早にローテブルへと向かった。

 チラリと本に視線を通わせると、見開きのページは100ページ以上先を行っており、更に予想以上の事態に僕は流れるように頭を抱えた。

 オーマイゴッド。

 やれやれ、珍しくも朝早く起きれたものだから、珈琲一杯片手にお気に入りの作家の新刊の小説でも嗜もうかと思ったのだが。どうやら天は僕にそれを許さないらしい。

 ほんとマジで、ああ神よなぜわたくしめにこのような試練をお与えなさるのか。

「それは夏君が神にすら嫌われているからじゃないかな?」

 視線の先から、嘲り戯けるような口調が僕へと向けられた。

 僕は確かにそこに在る少女の姿を視界の中央に据える。

 ここでひとつ、頭を働かせよう。

 おやおやその前に、そういえば自己紹介がまだだったね。

 僕は、夏冬げとう秋春。親しい友人からは花かっぱと呼ばれている。なんで花かっぱかって? そりゃもう、春夏秋冬朝昼晩だからですよ。

 そんな花かっぱこと——夏冬秋春は十七歳の高校生で新築のマンションで一人暮らしをしているなんの変哲もない青少年の一人だ。

 では目の前の少女は何かって?

 ガールフレンド。

 いやいや、そんなわけがあるはずがない。不肖極まれる思春期真っ只中の男子高校たる僕に彼女なんてまだ早いし、そして何より、無駄を愛し無駄に愛され世の中のありとあらゆる無駄を貪るこの少女に、一体僕の中のなんの感情を向ければいいというのだ。そんなん恐怖だけで十分だ!

 関わりがあるだけでも厄介この上ない少女とそれ以上の関係を結ぼうだなんて、すえ恐ろしくて考えるだけでも震えが止まらないよ。

 とはいえ、いくら関わり合いがあるからといって一人暮らしの僕の部屋に女の子がいることの不自然さは払拭されない。それは僕だって重々承知の助さ。

 だが、いくら記憶を振り返ってみても、彼女を玄関から部屋に通したこともなければ、昨晩泊めてやったなんてこともないし、ましてや朝起きてから一度たりとも窓に触れていないわけで。

 むしろ現状に一番の不自然さを拭えていないのはこの僕なのだ。

 不自然さというよりか、不可解さと形容した方が正しいのかもしれない。

 何を隠そう僕自身、なぜ彼女がここにいるのかよくわかってないのだ。

 しかしまあ、どのようにしてここにいるのかには想像がつくがね。

「じゃあ答え合わせと行こうか」

 そう言って、目の前で意気揚々と彼女が立ち上がった。

「僕はまだ一言も発していないぞカノンちゃん。突然なんだっていうんだ。まるで僕の心なんかお見通しとでも言わんばかりに」

「お見通しなんてものじゃないよ。秋君のことなら、頭の悪さから存在の悪さ、手癖の悪さに教養の悪さに至るまでありとあらゆるものを掌握仕切っている」

「全部が全部僕の悪いところじゃないか。え、何、僕には悪いところしかないってか? やかましいわ!」

 それに掌握仕切っているって、そこは把握している言うところじゃないのかね。まるで僕が彼女の傀儡であると言わんばかりだ。

 ……まあ、否定はしないが。

 あーっと言い忘れていたけど、僕の部屋に絶賛不法侵入しているこの少女は、空桃花音と言う。親しみを込めて僕はカノンちゃんと呼んでいる。

 僕より二つ年下で、関係は……まぁなんて言うんだ。ビジネスパートナー?

「と言っても答え合わせね……。そんなのどう見たところひとつしかないだろ」

「ほほう、二流未満の三流未満、いや入門編未満の春君の推理をゆっくりと聞かせてもらおうじゃないか」

 ちんまりとソファーに腰を落ち着けながらも仰々しい態度で、カノンちゃんは傍聴の構えを取る。

「そこの窓から侵入した」

 カノンちゃんの後ろ、今もカーテンはためく全開の窓を僕は指差した。

 すると、

「な、なんだってー‼︎⁉︎」

 カノンちゃんはまるで意外な人が殺人犯だったことを告げられた容疑者第一候補のようなセリフを淡々と読み上げた。

 おまけに身振り手振り小振りのリアクション付きだ。なんだか今日は機嫌がいいな。

 現在時刻はまだ七時の早朝でありながら、朝に弱いはずのカノンちゃんが珍しくもここまで元気に溢れているのだから、もう上機嫌と言っても過言ではないだろう。

 おかしな小芝居を続けるカノンちゃんを、僕は無駄物にでも触れるかのような瞳でジッとジトッと見つめる。

「それでどうなんだ?」

「どうって?」

 いやいや反問されても困るんだが。というか言い出しっぺはカノンちゃんでしょうに。

「いやだから、答え合わせのことだよ」

「んー? あー答え合わせね。ごめんこの小説読んでて、よく聞いてなかった」

 あんなに微妙なリアクションをしていたのに⁉︎

「微妙なリアクションなのに、聞き流されてるって思わないのかね?」

 悪びれる様子もなく言いやがって。さてはこの女はじめからちゃんと聞く気がなかったな。してやられたよ。降参だ降参。

 僕の負けだ。これで気が済んだか?

「うん、百分にね」

 前言撤回、全然機嫌なんて良くなかったよ。過言にも過言な発言だったよ。

 むしろ不機嫌だったんじゃないか。だからって僕を気分を上げるための秘密道具にするんじゃない。流石の猫型ロボットもこれには舌を巻くほかしようがないな。

「そうそう、猫型ロボットといえば通り抜けループという秘密道具があったよね」

「それを言うなら通り抜けフープだ」

 通り抜けループなのはカノンちゃんの耳だけだ。その頭の両端に取り付けられているそれは飾りかな?

 しかし、通り抜けフープね。

 確かにそれさえあれば僕の借りているこの部屋に外からでも容易く侵入できるだろうね。それこそ、音を立てず気配すらも感じさせず、まるで奇術のように何もないところからフッと現れることさえ可能だ。

 ましてやそれを犯罪にでも用いようものなら、捜査の難航性はぐんと跳ね上がるに違いない。

「だけどそんな秘密道具が実際にあるわけでもないし、やれ果て、本当に、一体どうやってカノンちゃんは僕の部屋に不法侵入したんだい? それに、カノンちゃん、君の家はここから直線距離でも十キロは離れているだろう」

 わざわざこんな朝早くからやるドッキリにしては、手がと言うか労力がかかり過ぎている。いくら彼女が僕を揶揄うのが好きだからと言っても、例に漏れず朝に弱い彼女が朝早くに大大と動くはずがない。

 それはそれで無駄であることには変わらないが、しかし、彼女が好むタイプの無駄では決してない。

「いやいや、冬君はもう忘れてしまったのかい? 確かに君の頭はおざなりであり、花かっぱよろしくお花畑であることに変わりないのだけど。だからと言って、昨日あったようなことを翌日にして忘れてしまうようでは、この私の助手なんて到底務まらないよ」

 この私の——名探偵であるこの私の助手にはね。

 そうカノンちゃんは言い張って、未だ無知蒙昧を気取る僕を諌めた。

 昨日……昨日ね。

 カノンちゃんの言うに従って深く記憶の湖底を漁ってみる。

 …………あっ。

 そう言えば——いや、言わずとも、あった。

 今日にはなくとも、昨日に何かしらが確かにあった。

「そうだった。昨日カノンちゃんの経営する探偵事務所がこのマンションに移行したんだったか」

 すっかり忘れていた。なんなら僕も引越し作業を手伝ったと言うのに。

 これには、流石の僕も彼女の諫言が耳に痛い。

「ごめん。これにはほんと弁解のしようもないよ……ごめん」

「はは、そこまで謝るようなことじゃないよ。別談、私もそこまで気にしていると言うわけではないしね」

 そこで、ふっとカノンちゃんは優しく微笑む。

「それよりも、秋春君が私のことでここまで気分を落としているという事実が、何よりも嬉しい。ようやく助手という立ち場も板に付いてきたようだね」

 助手が板についてきたかどうかは些か議論の余地があるが、彼女の寛大な心で許されたのだからそこは追求しないで、平々と感謝を示すのが吉だろう。

「……そう言ってもらえると助かるよ」

「助かったというならそれはお互い様だよ。危うく(頭の)動きが鈍くなったと思って、助手を新品に取り替えなくてはならないなんて使命感に駆られるところだった——まさに駆られる三秒前だった」

 結構ギリギリじゃねえか。危ねえ。あともう少しで僕、生活に困窮するところだった。

 カノンちゃんと僕は友達でこそないにしろ、ビジネスパートナーである分、雇用者と労働者の関係である。

 そして間違いなく労働者の方である僕は、雇い主側であるカノンちゃんから月々にそれなりの金額のお給料が支払われているわけで。その最たる収入源がなくなったともなれば、冗談抜きで僕は生活困窮者になっていたところだ。

 そんな人を古くなったスマホのバッテリーを交換するようなノリで、解雇しようとしないで欲しいものだ。

 すんでのところで首の皮一枚繋がったような気分だった。

「スマホのバッテリーならともかく、助手を新品と取り替えるとなるとそれなりの労力と時間がかかるからね。……取っ替え引っ替えなんてとてもではないが、できたものじゃない」

 それに、とカノンちゃんは愉快げに口元を歪め、歌うようにその先の言葉を紡ぎ出す。

「夏君みたいな明らかに無駄と言わざるを得ない助手はそうそういないからね。この先、未来永劫、私自らが君を手放すなんてことは決してない——とそう断言していい」

 君に代わりはいても、君の代わりはいない。

 

 

 part2

 

 カノンちゃんの珍しくも無駄無駄しい称讃を間に受けて、思わず頬が熱を帯び、ついぞ取り乱しそうになったけれど、寸前のところで僕の脳裏を一つの疑問が過ぎり、それに待ったをかけた。

 何やらいい話ふうにまとまりかけていたけど……。根本的な話——というか、話の原点回帰を果たすなら、なぜ僕の雇い主であるところの彼女が、無駄を愛する無駄に賢い名探偵であるところのカノンちゃんが、なんの知らせもなくあるいは断りもなく、助手である僕の部屋に転がり込んでいるのかというのが、今回の一連のやり取りにおける肝であり最大の疑問符だ。

 それを撤廃すべく、カノンちゃんから課された問題。

 whyではなくhowを問う問題に弱輩ながら答えたわけだけれど、結局のところその採点もままならず、解答の是非も知りえないままずるずると現状にまで至ってしまっている。

 もうそろそろ、話を——物語を次のステップへと移すべきだと思うんだよね、僕は。

 こんなところでつらつらと無駄話に花を咲かせているようでは、まるで物語が小説が無駄なものであるかのように読者に思わせてしまう結果となってしまう。

 言葉遊びもたまにならいいが。小説はあくまで物語を展開する場だ。

 僕とカノンちゃんの掛け合いをまざまざ見せつけるような場ではない。

 ましてやカップルでもない僕たちの、ラブもコメも微塵もない掛け合いを見せられたところで、それは興醒めという他ないだろう。。

「いやいや、冬君。君はまるでこれまでの私たちの会話が公道でイチャコラするカップルたちの会話の内容と似たり寄ったりであるように言うけれど……、私は一度たりとも話の腰を折って話をしたことはないよ」

「僕、別に自分たちの会話の内容がそこらのバッカプルと似通っているなんて、一度たりとも発言したことはないぜ」

「揚げ足を取るんじゃない。そんなことに頭を回さないでもっと違う視点でみることに頭を回しなさい。ぶぅぁかが」

 急激に詰られた⁉︎ しかも独特な発音で。

「別の視点ね。僕、ゲームをする時もそうなんだけど一人称視点じゃないと上手くプレイできないんだよね。ほら、FPSとかキャラクターから一歩引いた二人称視点なんかでやると、敵との距離を精密に測れなくてついやられちゃうんだよな」

「なんだい。秋君はつまり、自分は自己中心的な思考形態でしか物事を捉えられないと、そう主張したいのかい?」

「僕は別に自分勝手野郎じゃないよ! 僕が言いたいのは、詰まるところ、一つの視点でしか物事を見極められないってこと。これに関しちゃカノンちゃんが僕に見出した無駄の一つでしょうに」

「そうだよ。春君のその無駄は私が発掘したと言っても過言ではない」

 過言だよ。千分に過言だよ。まるで僕が無駄の宝庫であるかのように言うな。

「ははは、君の言うとり確かに君は無駄の宝物庫だ。私の目を引く無駄が沢山眠ってる。でもだからって、魅力あり余るそんな無駄をただ有しているから、という理由で私は君を助手に雇ったわけではない。私はそこまで無駄に身をやつしているわけじゃないよ」

 そう言ってカノンちゃんは僕の胸に指を突き立てる。丁寧に手入れされた爪が僕の皮膚に食い込むほどの力で。

「痛い、痛いんだけど」

 苦悶の中に若干の緊張を含んだ表情を浮かべポツリと漏らす。

 そんな僕の姿に、カノンちゃんは不敵に笑って言った。

「そりゃあ痛みが伴うさ。これは罰なんだからね」

「……罰?」

「そう罰。君はまるで一つの視点でしか物事や物語を捉えることができないことを、悪性の無駄であるかのように言うけれど。しかしながらね、私は一度たりともそう感じたことはない」

 伸ばした指を引き戻して尚、彼女は吃ることなく口を動かし続ける。

「この世界に蔓延る無駄は決して善悪では判別できない。それこそ、大犯罪を犯した人間が必ずしも悪人であるかどうかわからないのと同様にね。人の行動を善悪で二分化できない以上、人の行動についてまわる無駄もまた善悪で語ることはできない。

 異なる視点で見ろと言うのは流石に言葉のあやだったかな。そこは私のミスだね。

 でもね夏君、私が君にして欲しかったのは、自分の持つ無駄を卑下することではなくて。君の真っ直ぐでしか見れないその視点を無駄を用いて、これまでの私との会話文の中から、答えに通ずるヒントを見つけだすことなのさ」

 無駄に賢いと謳われる名探偵の瞳が爛々と僕を見つめる。逃さないとばかりに離しはしないとばかりに。

 あるいは——失うことを嘆くように。

「私は知ってるよ。秋春君は普通以上に——否、無駄に出来のいい頭を持つくせして、自分を愚か者であるかのように見せて触れ回っている。そしてそれが、私という存在に影響されてのことだってこともまたお見通しさ」

 ドカンと胸にダンプカーに当てられたような衝撃が走った。

 妙な感覚を残しながらも僕は口を挟まず、彼女の話に真っ向から耳を傾ける。

「春君、私は君とはなるべく対等の関係でありたいんだ。探偵と助手という上下関係ではあるもののね。一方通行でもいい、一直線でもいい、不器用な君の不器用なりの助手としての推理で隣から私を支えてほしい。名探偵の私からただ享受されるだけの存在にはなってほしくない。

 ただ他人から何かを享受されるだけではダメなんだよ。それでは君に自我があっても自由はない。気がつけばベルを鳴らされただけで口から止めどなく唾液が溢れ出てしまうことになってしまう。君の意思と関係なく君は、君以外の誰かによって君を操作されることになる。関係的にもイワン・パブロフ的にも君には犬にはなってほしくない」

「……イワン・パブロフや犬やなんかって、それはカノンちゃんの無駄に豊富な知識の中の一つ?」

「そう、生物の生理学的な実験のお話さ」

「そうか」

 カノンちゃんの言うそれと僕とが一体何の意味関係で紐つけられているのかは、未だ僕にはさっぱりだけれど、しかし、僕にはツンとして譲れないものがある。

 話の腰は折っても、折れない信条は僕にだってある。

「でもやっぱりカノンちゃん。僕にはそれは約束しかねるよ。確かに僕だってカノンちゃんとは対等な関係でありたいと思ってるし、現にそうであると認識しているつもりさ。でも……」

 でも、やはりどうしても、僕——夏冬秋春と彼女——空桃花音は、どうしようもなく名探偵と助手であり、それは関係どうこうとかそう言ったことでまとまるものでもなくて、もう本質的にとどのつまりは——

「力量として僕とカノンちゃんの間には越えようもない隔たりがある。そこはいくら僕らが手を回そうが焼かれようが、埋まることのない差異であって『才』なんだよ。

 かろうじて画面上では遠近法を用いてカノンちゃんの隣に立っているように見せるこはできても、実際に隣にはいない君を支えるなんてことは僕にはできないよ。僕にできることとしたら、君の無駄に塗れ、無駄に彩られ、無駄に装飾された推理高説を糸電話越しで拝聴することぐらいなものさ」

「この場合の糸電話の糸は運命の赤い糸なのかな?」

「どうだろう、あるいは腐れ縁かもしれないぜ。まあそれはどっちだっていい。僕がカノンちゃんに約束できるのはたった一つさ。その推理高説に澱みが見受けられようものなら僕は、全身の全霊で持って君を叱りつけよう」

 よそ見をしてるんじゃないって、こらって、頭を小突いてあげよう。

「それでも聞き入れてくれなかった場合は、容赦なくこちらから君との繋がりを断つまでさ」

「なるほど」

 とカノンちゃんが察して頷く。少し不満そうではあったけれど納得している面持ちだ。

「私は縛りである君を失うわけにはいかない。そのためには私は正しさを歪めてはならない」

「そして僕はカノンちゃんの枷としてカノンちゃんを絶対に正しいとは思わない」

 これは僕たちが今の関係に至るまでに交わした約束で、契約内容だ。僕たちが僕たちである以上これを違えるようなことがあってはいけない。

「春君は優しいよね」

「それはお互い様だよ」

 見も知らぬ、得体も知れぬ、この僕を助け拾ってくれたのはカノンちゃんだったじゃないか。その恩を返すまで僕は……。

 それにしても、なんだかんだで辛気臭い話になってしまった。僕らには似合わないというのに、こりゃまた無駄な工程をひとつ挟んでしまった。

「別にいいじゃない。無駄を楽しむのが私たちの流儀だろ?」

「それはカノンちゃんだけの流儀だ」

 まあだが、それも悪くはない。

 随分と遠回りしてしまったが、最後は名探偵と助手らしく目の前の謎(カノンちゃんにとっては謎ですらないが)を解決するとしよう。

「解決すると言ってもね秋君。今回のそれは大して込み入ったものでもないんだよそれが。ちょっとのひらめきで解決できるようなものなんだ。君が頑なに答えを渋るだけで」

「僕が最初に言った話しは間違ってるんだろ? ほら、そこの窓から隠密侵入したって話し」

「そうだね。それは今回私が犯行に用いた手口ではないよ」

 元気よく首を縦に振ったカノンちゃん。

 ついに犯行って認めちゃったよ自分で。それほど胸を張って言えることじゃあないけれどね。

「となると……うんやっぱりわからないな。実は僕が過去にカノンちゃんに合鍵を渡していたなんてうっかりミスはないんだよね」

「ないね。そういえば春君はいつになったら私に合鍵を渡してくれるんだい?」

「いやいや、今回のような事例があった以上、鍵を渡したいだなんて思考回路にはならないと思うんだが」

「一度、出た情報をまとめてみてはどうかな」

 と、カノンちゃんの提案。

 言うに倣って僕は脳内で情報の整理を始めた。

 カノンちゃんのことだ、これまでの会話文中にヒントを張り巡らせてくれているだろうし、実際いくつもの手がかりがあった。

 ひとつは、最近カノンちゃんの探偵事務所がこのマンションに移行したこと。場所は丁度僕の部屋の真下だっただろか。この掃除の行き届いたフローリングのその裏に、物が散々とした事務所があると思うと少しだけ気が滅入る。

 次にその二、玄関から侵入していないとしたら、これはもう窓から侵入したに違いないと僕は決めてかかったけれど、それは先ほどカノンちゃんにこっぴどく否定されたばかりだし。以上から侵入経路について少なくとも現状でわかるのは、扉や窓などといった開閉の動作を伴う出入り口の類からではないと言うこと。

 この時点でもうさっぱりであることを宣言しておこう。

 そういえば、探偵という括りで見ていたから、すっかり検討から外れていたけれど、カノンちゃんはいつも事務所で寝泊まりしているんだった。他にも部屋の広い下宿先があるというのに。

 それなら朝に弱いはずのカノンちゃんが僕の部屋に侵入できたことにも納得がいく。

 もし仮に、直線距離で十キロもある僕の借家に、今のこの時間に間に合うように到着するようにするためには、一体どれだけ早くにタイマーをセットしなければならないのか……。いや例え、目覚ましの準備が万端だったとしてもカノンちゃんが深い眠りから覚めることはなかっただろう。

 しかし、ここまではいい。ここまでは名探偵の助手でなくともなんとなくは考えることだ。

 問題なのはこの先だ。

 いくらカノンちゃんの朝よわよわ問題が解決され、直線距離十キロも道のりを踏破しないで、元気いっぱいフルパワーの状態にあったからといて、出入り口を使わず僕の部屋に侵入するのとはまた、別問題だ。

 僕はチラリと救いを求めるような眼差しでカノンちゃんを一瞥する。意図を汲み取ったカノンちゃんが仕方なさそうに肩をすくめる。

「いいだろう極大のヒントをあげよう」

「そうか、なら——」

「ああ、ああ。みなまで言うな。冬君が知りたいヒントくらい三十分前より把握している」

「そんな早くから‼︎ まだカノンちゃん僕の部屋に来てないじゃん」

「無駄に賢い名探偵とまでくれば容易なことよ」

 す、すげー。さすが無駄に賢い名探偵。無駄に先読みのセンスがある。

 そこに、痺れて打ち震えて憧憬を覚えるぅ。

「ごろ悪! じゃなくて、私からの極大のヒントってやつは猫型ロボットが使う秘密道具のことだよ」

「青だぬきの秘密道具?」

「そこまでは言ってない」

 カノンちゃんの物言いたげな視線に僕は満足げの笑みを返す。

「ああ、通り抜けフープのこと?」

「そうフープではなくループのこと」

「……。まあループにしろフープにしろ、現代この時代にそんな画期的なアイテムがあるわけないだろ」

 はあ、まったくやれやれカノンちゃんは夢見がちな少女なだから。呆れを追い抜いて関心が勝るよ。

「むむ。私を妄想幻想少女と呼ぶとは失敬な! 分からず屋の夏君にはとっておきの格言を教えてあげるよ」

「何? 胡蝶の夢だって?」

「誰が夢と現実の区別がない美少女だって?」

「いや、美少女とまでは言ってない」

「そうじゃなくて、私が言いたいのは——」

 

 無いのなら 作ってしまえ 通り抜けループ&フープ

 

「うっわ」

 ごろ悪。

「まだあるよ」

 いけしゃあしゃあとカノンちゃんは次なる格言とやらを口にする。それはもう自信に満ち満ちて。

 

 窓や玄関から侵入できないのなら、通り抜けループ/フープを作ってしまえばいいじゃない。

 

「……」

 唖然。

 未知未到の技術をこの瞬間で築き上げろなんて、さすがのマリー・アントワネットもビックラ仰天だよ。

「ん?」

 待て。

 途端に頭に電流が走ったような感覚に襲われ、今までぐちゃぐちゃに混線していた糸がピンと張ったように一本の筋を立てて真相へと導べをつなげる。

「これがヒント?」

 確かめるようにというより、衝撃の真実に脳が理解を拒絶するように僕は再度カノンちゃんに尋ねた。

「うん。これがヒント」

 カノンちゃんのその言葉を聞いた次の瞬間、僕は弾かれたようにその場から部屋中を駆け回り、家具という家具をずらしては元に戻してを繰り返す。

 おいおい、まさか。いや本当に。そんなまさか。ねえ。いや、ねえ。

 まさかのまさかではあるが、人様の家に勝手に侵入するだけにとどまらず、相談どころか断りも入れず、人様の家屋の壁や天井あるいは床に、何やら大掛かりな仕掛けを施すなんてことをするやつはこの世もといこの世界には一人たりともいないだろう。 

 いや例え、相談、断りを入れらたからと言って「うんいいよ」なんて返事をするやついるはずがない。

 それぐらいカノンちゃんだって知っているはずさ。

 大丈夫大丈夫なはずだ。

 降参です!

 そう淡い期待をしていた時期も僕にはありました。

 結果論。

 通り抜けフープもとい円状の縦穴は僕の寝室のベッドの下にあった。

 なるほど然り。使うたびに壁に取り付けなければならない通り抜けフープでは、同じ場所で何度も使うことはないとまでは言わないものの回数が限られてくるだろう。対して、秘密道具ならぬ秘密工作によって生成されたこの縦穴は、制作地点から一歩たりとて移動できないという性質上、僕の部屋とカノンちゃんの事務所を行き来する時、何度も何度も使用されることになるわけで、それはもうエンドレス的に半永久的に、繰り返し使えるわけだから確かにループというのは言い得て妙だ。

「何度も行き来するとは言ったけれど、普通に部屋を出て階段またはエレベーターを介して向かうってのじゃダメなのかい?」

 こういう無駄こそ、無駄を愛し無駄に愛される名探偵の取るべき無駄の行為の一つではないのだろうか。

「いやいや、そんな無駄は撤廃するに限るよ」

 無駄を愛する者にあらざる発言が出ちゃったよ。このままじゃあ、カノンちゃんの存在意義が、キャラの濃さが失われてしまう。

「こりゃあ緊急事態だよカノンちゃん。僕はカノンちゃんの助手としてカノンちゃんの存在そのものを保護するために、この縦穴——もとい通り抜けループを撤廃することをここに誓うよ」

「いやいや、ただ私の事務所から君の部屋への移動を楽にするためだけに、この通り抜けループを作ることの必要の無さ、つまりは無駄さを理解できないと? 私はミリ単位もキャラなんてブレてなんかないが?」

「……っ!」

 ああ言えばイヤイヤ言う。イヤイヤガールかおどれは。

 まったく無駄に賢い名探偵は厄介だぜ。

 カノンちゃんほど隠密性に長けていたわけではないけれど、こっそりと通り抜けループを埋めようだなんて僕の画策は、隠密性猛々しく霧散することとなった。

「さて、目的を果たしたことだし、私は事務所に帰ることにするよ」

「……目的って?」

「早朝の秋君の様子を見に来ることさ。何気に寝起きの冬君の顔を見るのは今回が初めてだったからね。そのためだけに通り抜けループを作った言っても過言ではない」

 フンスと鼻を鳴らして息巻くカノンちゃん。

 過言ではないって、え何、僕の寝起き顔に床を破壊すること以上の価値があるの? それはまあなんというか、僕っていうやつは罪なやつなんだなって思うけど。

 僕の寝起き顔を拝むためだけに破壊された床ってやつはもう、言葉も尽くせないほどに哀れなのであった。

「随分と無駄を踏んだな! カノンちゃん」

「他の誰でもない私自身のためさ。それくらいの無駄、朝飯前だよ」

 無駄にかっこいいことを言う。

 まったくこれだからカノンちゃんの助手はやめられない。彼女に迷惑をかけらる間は僕が彼女の隣に居られる時間でもあるのだと、なんとなくではあるがそう感じた。

 不思議とね。

 カノンちゃんと僕の主従関係は決して、強い結びつきで成っているものではない。

 むしろ、引っ張ったらプツンと途切れてしまいそうなほどに、僕らの『糸電話の赤い腐れ縁の糸』はほつれた状態で繋がっている。

 あやふやで、不完全で、儚い関係。

 これほど無駄な人間関係、世界中を探してみてもここにしかないだろう。

 でも僕はこの関係が嫌いではない。

 きっとカノンちゃんもそう思っているだろう。

 ふっと流し目でカノンちゃんの横顔を捉える。

 幼い顔立ちの女の子。

 無駄を愛し、無駄に愛された、正義を司る女の子。

 無駄に賢い女の子。

 名探偵な女の子。

 僕より二つ年下の普通の女の子。

 その矮躯に、小さな肩に、のしかかる重圧は想像を絶するものだろう。それでも、潰れることなく進み続ける彼女の背中は、気高く美しい。無駄と思えるほどに。

 視界の端で、カノンちゃんが通り抜けループに飛び込んで行くのが見えた。

 彼女の銀色の長髪が重力に逆らってふわりと跳ね上がる。サラサラと宙で靡くその様は、渓流のような静謐さを湛えていた。

 森羅万象の流れを止めることは決してできない。

 瞬いたあとにはもうカノンちゃんの姿はなく、通り抜けループのその彼方に消えた。

 さて、少し寂しさは残るものの、僕は僕の日常の続きに戻ることにしよう。

 そうして、通り抜けループを向いていた足を翻して僕はキッチンへと戻————

 

 グオオオオオオオオ!!

 

 ————ろうとした。その瞬間、世界の終末を思わせる腹の音が通り抜けループのその彼方から響き渡った。

「…………」

 何故……。

 何故なんだ!

 何故、僕らはいつもこうなんだ!

 最後にかっこつけて終わらせたかったのに!

 どうしてカノンちゃんは僕の邪魔ばかりする!

 と、内心狂乱していると、通り抜けループからひょっこりカノンちゃんが顔を覗かせる。

「いや〜、実際朝飯前に夏君のもとへ向かったものだからついぞ限界だったらしい。というわけで秋君、私の分の朝食も作っておいてね」

「おいカノンちゃん、朝っぱらから人に迷惑をかけておいて、いや実際は昨日から迷惑をかけられていたわけだけど、これ以上さらに僕に迷惑をかけるのか! 僕は許さないぞ。絶対許さないぞ! 今朝は、カノンちゃんの苦手なものだけを作ってやる。苦手な食べ物を言いやがれ!」

「嗚呼、ワタシ、ステーキトハンバーグガニガテダワ」

「ようし、それなら今から有り合わせの材料でステーキとハンバーグを作ってやる! 覚悟して待っていろよ‼︎」

 一気呵成に怒涛の勢いで僕は捲し立てる。

 そんな狂乱に犯された僕の声に、カノンちゃんは嬉しそうに頷くのだ。

「うん! 楽しみに待っている」

 年相応の少女の笑みでもって。

 

 こうして僕の慎ましやかな日常は寝台下の床と共に、カノンちゃんに手よって破壊されたのだった。

 そして、これからはこんな破茶滅茶な日常が続くのだ。

 そのことに少しだけワクワクしていることはまだカノンちゃんには内緒だ。

 

 

 part3

 

 饅頭怖いよろしく、カノンちゃん自称の苦手な食べ物であるところのステーキとハンバーグの調理が完了し、先ほどまで歓談していたリビングのローテーブルに置き並べたところで、タイミングよく、カノンちゃんが再び通り抜けループの中から姿を現した。

 朝からステーキにハンバーグって、多少なりとも場の勢いが背中を押した節があるにしても、無茶をしすぎたように思う。

 カノンちゃんほど僕の体は朝に弱いわけではないけれど、しかし、対照的に彼女ほど僕の胃腸が頑丈であるということはなく、それぞれ一皿ずつしか用意しなかった。

 二つの皿から四分の一だけを切り取って、僕の皿へ一つにまとめる。

 それを見て自分の食べる量が減るとカノンちゃんは頬を膨らませた。

 僕に言わせれば、わざわざ作ってやったんだからこれくらい目を瞑ってくれてもいいものだろうに。

 最後の手前に、朝のニュースをとテレビの電源を入れて、僕たちはローテブルを囲み、食卓を囲みそして手を合わせた。

 

 いただきます。

 

「ところで夏君、その本は君のなの?」

 そんな問いが僕に投げかけられたのは、それなりに食事が進んだ頃合いであった。

 カノンちゃんは二口サイズに切り分けたステーキを豪快に口に詰め入れ、数回の咀嚼を経て喉に流し込む。これに関して僕は毎度の如く感心を覚えざるいられない。まったく、恐竜かっての(せっかくの愛らしい容姿がダイナソーってね)。

 ローテーブルの端に置かれた一冊の本を指してカノンちゃんは言ったのだった。

「嗚呼これ? そうだよ。これは僕の愛読書、タイトルは『十二人の使徒』って言って、十二人の高校生がそれぞれ【名探偵】だとか【葬儀屋】だとかそういった役を持っていて、一巻につきひとりずつがそれに沿った物語を展開していく様子がとても迫力があって面白いんだ。カノンちゃんも知ってるだろ? ほら、あの有名な狩野喜代先生の著作だよ」

「……あぁ、狩野喜代ね。思い出した思い出した。あの最年少作家のことね。うん聞いたことある、噂だけならかねがねね」

「ここ最近じゃテレビでも新聞でもその名前を聞かないことがないと言うのに、噂だけなんてことはないだろ」

 それともカノンちゃんは家であまりテレビを見ないのだろうか。

「いや、そんなことはないよ。私だって年頃の女の子だ。近頃のファッションだったりなんだったりに興味津々で、うん、常々ブルーライトの光を目に入れているところだよ」

「カノンちゃんがファッション? 事件発生の吉報待ちの間違えじゃないのか?」

 僕は今までカノンちゃんが身なりや服装に気を配っているところなんて、目に入れたことがない。適当言うのも程々にしろよ。

 それに、テレビを視聴することをあたかも健康被害に遭うかのように風潮するのはやめろ。否定できないのが心苦しいわ。

「やれやれ、酷い言われようだね。まるで私に乙女心どころか人の心さえないように形容しないで欲しいものだよ。落ち込むわぁ」

 ならもっと落ち込んだ表情と声作りを意識しろよ。まるでその感情が感じられない。

「まあ、噂だけと言うのは確かに虚言ではあったかもしれないけど。でも実際、私は彼女のつまりは狩野喜代の名前と簡単なプロフィールしか知らないよ。どんな書籍を出しているかなんてさっぱり知らない。そもそもの話、私がその二つを知ることとなったのは夏君、君によるところが大きい」

 ……僕?

 僕、そんなにカノンちゃんに狩野先生の書籍を勧めたことがあったけ? いや、図書館司書の鏡子ちゃんならいざ知らず、カノンちゃんに迫るように勧めたことはないけどな。

「いやいや、だって君、読書家って風貌じゃないのに、たまにコーヒー小脇に本を開いていることがあるじゃない? まあ、それがカッコつけだってことは重々承知で、それについて今更重箱のすみをつつくような真似はしないけど。その時必ずと言っていいほど、決まって手にしていたのが彼女の作品だったから——」

「僕は何もかっこつけてなんかねえよ! 好き勝手に僕のイメージを操作するな。まるで僕が痛い奴みたいじゃないか‼︎」

「え、違うの?」

 違うに決まってんだろ!

「痛くはないにしても、気色悪いと言うことに変わりはないんじゃないかな?」

「何、もしかしなくても僕を泣かせに来てる?」

 ……そうじゃなくて。

 深呼吸だ。一度、頭の中をリセットしよう。

「ごめん、話を逸らした。それで、僕が高名な狩野喜代先生の書籍を頻繁に読んでたからなんだっていうだ?」

「ん? ああ……だから、あの頃はまだ冬君のことをよく知らなかったし、だからってわけでもないんだけど、君という生態を解き明かしてみようと思ってね。一度だけその名前で検索をかけたことがあるんだ」

「だから、噂だけとまではいかないにしても、それに近しいくらいの知識しかないのだとカノンちゃんは言いたかったのかい?」

「その通り、やるじゃないか助手秋君。中身は腐ってなくて安心したよ」

「おい、さっきの話引きずってんじゃないよ」

 しかし意外だ。

 カノンちゃんにも知らないことがあるんだな。

 いや、確かにいくら無駄に賢い名探偵と囃されているカノンちゃんではあるけれど、知らないことだって両手で数え切れないくらいにはあるだろう。

 普通の女の子以上に、異常に物知りであると言うだけであって、知り得ないことは依然として存在している。

 しかし、その点が不可解なのだ。

 何も自分を卑下するわけではないけれど、普通の女の子に並ぶ程度にしか一般的な知識を持ち合わせていない僕が、果たして彼女の知り得ないようなことを知っているのかと言うこと。

 カノンちゃんにも好き嫌いはあるだろうし、興味のないものに興味を抱かないのは人間として何も間違ってない。だが、こと空桃花音に関してそれは適用されないのだ。

 例え興味がなくとも、親の仇の如く嫌いなものであったとしても、彼女は人並み以上に知っているのだ。

 その詳細を。

 その真相を。

 だから不可解でたまらない。気持ち悪くて、背中がムスムズする。

 本当にカノンちゃんは狩野喜代という、今や世界中の誰もが知っていると言っても過言ではない、最年少小説作家の詳細を知らないというのか。

 この国の首相の一日の生活サイクルさえも把握しているあのカノンちゃんが⁉︎

 とはいえ、知っているということを隠すにしてもその真意がいまいち理解できない。

 僕の敬愛する狩野喜代先生は、これまで表舞台に現れその御尊顔を晒したことはない。

 だからって、謎に包まれた彼女の素性をひた隠しにするにしたって、それは僕がカノンちゃんに問い詰めない限りは発生しないような状況だ。

 しかし、そういうわけでもなさそうなのだから、本当にカノンちゃんは知らないのだろう。

 まあ、不可解さは拭えないが、そう納得する他あるまい。

「にしても、夏君。私は君が彼女以外の本を手にしているところを一切目撃したことがないのだけど、それに関してはなんらかの深い事情があったりするのかな? 例えば、一生彼女の作品しか目にしてはいけないとか……さもなければいてこますぞって感じで脅されていたりするのかな?」

 そんなことあるわけないじゃないか‼︎ 

「たまたま、初めて手に取った文学小説が狩野喜代先生の処女作だっただけで。それからはなんとなく、他の作家に目移りすることなくここまで来ているだけさ」

「へえ」

 と、カノンちゃんは興味無さ気に相槌を打つ、訊いてきたのは彼女なのに。訊いてきたのは彼女なのに!

 にしても話はミリ単位で遡るけれど、一体全体、どこの極道がそんなことをほざきやがるんだ?

 一生物の縁もゆかりもない物語を推し続けるという許容できないことを、何処の何奴が強要するというのか。

「神業辺りならやっていてもおかしくはなさそうだが?」

 確かに、あのイカれポンチ極道ならやっていてもおかしくはなさそうだ。何せ、二次元中のキャラクターを推しすぎるがあまり、組の掟に『推しの時間』というものを設けているのだから。

「自分の推しを他人にも推させるってのはもうパワハラって言っても過言ではないのか」

「まあ、そこは極道中学生の小粋な計らいと思えばいいさ。すでに法を犯している彼らに今さらパワハラだなんだと言っても法執行機関は聞く耳を傾けてくれないよ」

 やけに淡々と言い切るカノンちゃん。

「でもさ、カノンちゃん。だったら、なんで先日、あの事件の時に彼らを捕まえなかったのさ。結果論、あの事件の犯人は彼らではなかったけどそのついでに訴え出ることもできたんじゃないか?」

 そんな僕の素朴な疑問を受けて彼女は真っ直ぐ僕を見据える。

 いや、素朴な疑問ではなかったのかもしれない。次に発せられた彼女の返答を耳にして、僕はようやく自分の疑問がいかに無駄であったかを痛悔するのであった。

「確かにあいつらはこの社会の秩序を乱し法を犯す存在ではあるけど、しかしここで言うこの社会っていうのは表側の社会っていう意味でね。それに対立する形で存在する秩序も法も存在しない世界、裏側の社会では立派な番人なのだよ。この街のね。この街が平和でいられるのは確かに警察方の治安維持への尽力もあるのだろうが、それと同じように対をなすように、彼らもこの街を他所の犯罪者集団から守っているのさ」

 それは——

 ——いや、これはひょっとしたら、必要のない会話なのかもしれない。

 むしろ無駄と言える。

 こんなものは、純粋な懐疑心から錬成されたものでは決してない。ただの心の奥底にしこりとして残ったいわば僕の心残りだ。

 それはもう、僕が何処までもカノンちゃんを神聖視していることの証明なのかもしれない。

「仮に神業君がそうだというなら、もしかしなくとも、あの犯罪王も……つまりはカノンちゃんの元親友にして初代名探偵助手だった金切透も、悪を持って悪を制裁する裏社会のダークヒーローだったりするんじゃないのか?」

 カノンちゃんが無駄を愛し、無駄に愛される、無駄に賢い名探偵であるとするなら。

 きっと僕は、無駄に気づかない振りをし、無駄を見ないふりする、無駄に愚かな名探偵助手なのだろう。

 カノンちゃんはいつも以上に落ち着き払った様子で僕に言った。

「それはないよ。あいつはこの街をひいてはこの世界を守ろうとして犯罪王になったのではない。強いて言うなら私のため私を守るために犯罪王になったんだ。そのためなら、この街を、世界をも、破壊することを厭わないただの——」

 

 ——ただの不遜な年相応の中学三年生の子供だよ。

 

 と。

 …………。

 ……。

「——そういえば、犯罪王で思い出したのだけど……」

 カノンちゃんにとってあまり触れてほしくない話題に触れてしまったことに対する気まずさから、しばらくして、居ても立ってもいられず僕はそんな風に話題を挿げ替えた。

「ともすれば、今日この日、この時、モーニングのお供に狩野喜代先生の小説を読もうと踏み出したきっかけでもあるのだけど。カノンちゃんは知ってるのかな。ほら昨晩、犯罪王がネットでつぶやいていたじゃない」

 そう僕が言うと、カノンちゃんは少し考え込むそぶりを見せる。

「ああ、それなら私も見たよ。なんだっけ? 確か……」

 

「「物語は無駄である」」

 

 妙なところでハモったな。

 僕とカノンちゃんはどちらからともなく視線を交わし、軽く吹き出す。

 さすが探偵と助手のパートナーシップと言ったところか。

「可笑しいね。夏君と私は出会って間もないというのにここまで息ぴったりとは、これはもう私の助手になるためだけに生まれてきたのではないかと疑義を呈したいところだよ」

「さすがにそれは言い過ぎってもんだぜ、カノンちゃん。過言に過ぎるよ」

 それにその表現だと、まるで僕がこの星に生を受けた時から彼女の奴隷になることが決定付けられていたようだ。

 それもまあすごく魅力的ってものなんだけど、まだ『僕たちの出会いが〜』と語った方がロマンチックに聞こえるってものだ。 

「とどのつまり、秋君は犯罪王の声明を見て聞いて怖くなってしまったんだね」

「ああ。怖くなっちまった」

 心中を言い当てらた僕は、とりわけ取り乱すことなく何気ない歓談をするかの如くカノンちゃんと言葉を交わした。

 その時僕は、ふと小説本の方に目をやった。

 何せ、話題の中心だったものだから、『つい反射的に』というのがぴったりくる言い回しか。

 しかし、驚くことに、恐るるべきことに、慄くことに、そこに小説本なんてものは、これポッチも欠片も存在していなかった。

 そこには、何も存在はなかった。

 

 

 part4

 

「は? え?」

 咄嗟に出た反応は混乱だった。

 パンクしそうなまでに僕の頭は思考を膨らませ、そして案の定、破裂したのだった。

「おいこれは一体どういうことだ?」

 疑問。

 疑問。

 ついて出るのはそれだけ。

 そんな中でもカノンちゃんは僕とは真反対に、至って冷静のまま愚かしくも焦燥を全面に押し出した僕に声をかけた。

「おい春秋君。前だ。前。前を見ろ」

 それは決して失ったものに消失感を禁じ得ない僕への励ましの言葉なんかではなく、ただただ、腰を落ち着けた位置から彼女の正面を向いた先のことを指しての指摘であった。

 カノンちゃんに促されるままに僕は、ローテブルの上から彼女の正面に先立つテレビ画面の方へと視線を移した。

 すると。

 画面には『緊急速報』の四文字熟語が、画面天井付近で水平方向に光陰流水と流れて行った。

 続いて、次の文章が先行の四文字の後を追った。

『私立迷時大学図書館にて窃盗事件が発生。盗まれたのは

 …………。

 私立迷時大学図書館って、そりゃぁ図書館司書の鏡子ちゃんが働いていて、なおかつ僕がよく訪れる図書館じゃないか。

 ……そして、そこは僕が初めて狩野喜代先生の小説に出会った場所でもあった。

 唖然と言うよりも、愚かにも僕は納得していた。

 そしてすかさずカノンちゃんに尋ねる。

「これは僕らの事件かい? 名探偵」

「そのようだね、助手クン」

 皿の中に残っていた最後の一切れを口に含んで、カノンちゃんは席を立つ。そのまま玄関へと身を翻し、顔だけ僕を見据えて言った。

「さあ、事件が私たちを呼んでいる。迷子の謎を迎えに行こうじゃないか」

 無駄な遠回りを経由しながらも。

 

 

 part5

 

 威勢よく、格好つけて家を飛び出したはいいものの。

 現在高校二年生の僕である。そこらの女子中学生以上よりは保持する速力に持久力は高いと思うのだが、容姿や年齢の一切に反してそんな僕よりも高いスペックを持つカノンちゃんは気付けば、もうその姿が遥か遠くの彼方へとかけ離れてしまっていた。

 僕の全力を持ってしても、五分と彼女と並走することは叶わなかった。

「くっそ、カノンちゃんめ。一体どれほどの高性能エンジンを積んでやがるんだあの矮躯に!」

 積載量オーバーにならないのかね。

 もうなんだか、未だ全力で彼女を追いかけようとしていることがばかばかしくなって、だんだんと歩速を落としていったその時だった。

 彼がちょうど偶然僕の目の横を通りかかったのは。

「おや、四季先輩じゃないっすか。こんちゃっす」

 それは義理に堅く、友情に熱い、極道中学生——神業幸助だった。

「やあ、こんにちは。それはそうと、その四季先輩って呼び方やめてくれないかな? 幸助の若旦那」

「いやいや。四季先輩だって俺のこと幸助の若旦那って呼んでるじゃないっすか」

 彼はすれ違う寸前まで馬乗りになっていたバイク——ではなくバイシクル、自転車から腰を降ろし地面に両足をつけて僕の方を向いた。

「そんな息を切らして、なんすか急ぎの用事すか?」

 こんな急いでいる時に悠長に尋問に応じる余裕が果たして僕にはあるのか否か逡巡して、やっぱり僕は雑談に乗ることにした。

「そうだよ急ぎの用事。用事は用事だけど用事という用事は事件なんだ」

 犯罪王による事件なんだ。

 切実に拙劣に僕は言う。

「ああ、犯罪王の! なんなら俺もさっき見に行ってきましたよ事件現場の図書館」

「本当か!」

「ええ、四季先輩に俺が嘘つくなんてことあるわけないじゃないっすか。なんせ俺らマブブラっすからね。兄弟の血は通わずとも、義兄弟の盃を交わした俺らはもうマブダチにしてブラザー、略してマブブラなんすよ!」

「なんかえっちな気がするが気のせいか?」

「気のせいっすね」

 やれやれそれならまあ、これ以上は言及しないが。

 しかし、行った。行ったのか事件現場に。私立迷時大学図書館に。

 それなら僕と会う前にカノンちゃんと出くわさなかったのだろうか。

 気になったので訊いてみた。

「いや、あの無駄に賢い名探偵とは出会ってないっすよ。だから驚いて思わず四季先輩に声を掛けたんっすよ。珍しくも驚かしくも一人行動をしている名探偵助手のあんたを目撃してね」

 そう言って幸助くんは僕に指先を向ける。さながら、懐から取り出した拳銃を構えるように親指と人差し指の二本をピンと立てて。

「おいおい、幸助くん。確かに僕は名探偵であるところのカノンちゃんの助手をやってはいるけれど、別に僕たちは二人で一つ運命共同体ってわけじゃないんだぜ。酸素や水素の分子のように常に一緒にくっついていなきゃいけないってわけじゃないんだ」

「ちょナンすか先輩。サンソ? スイソ? あ……ああ、わかりました国の名前っすね。察するに、ヨーロッパ圏の国名であることに違いないっすね」

 検討はずれも甚だしい。お前、もう少し勉強した方がいいぞ。

 極道活動(まるで部活動とでも言うかのようにこの言葉を使っている僕にむず痒さを禁じ得ない)なんてしてないで、ちゃんと学校行きなさいよ。

「な⁉︎ し、失礼っすね。四季先輩は」

「誰が無遠慮で不躾で無作法な非礼儀者だ!」

「そこまで失礼なことは言ってないっすけど。ですが四季先輩。先輩は先輩で俺に失礼を働いているんっすよ。これでも俺、今学校の帰りっすから」

 へえ、今日学校あったんだ。

 って……。

「ちょっと待ってくれ幸助くん。何、今日学校なの? えーっと訊いて差し支えなければ答えて欲しいのだけれど、確かカノンちゃんと幸助くんて同じ学校に在籍しているんだよね?」

「ええ、そうですけど、その通りですけど……なんすか、あの人今日も学校来てなかったんすか。はえー名探偵ってやつも忙しいんだな」

 つい二十分ほど前までグータラとくつろいでいたけどね名探偵。

 そうじゃなくて、まったく、カノンちゃんのやつ学校あるのにそれを僕に言わないなんて。言わないだけならまだいい、尚且つ登校もしないだなんてどうこうしている。これはもう本格的に本腰を入れて説教をしなくてはいけないな。

「ってあれ……カノンちゃんが僕に今日学校があることを秘密にしていたことについて、怒り心頭だったから考慮が外れていたけれど………幸助くん、今日は何か特別な日だったのかな? ほら学校の創設記念日だったとか」

「いえ、普通の日課ですけど」

 じゃあなんで平然とサボってんだよ君は。

 授業くらいちゃんと出なさいよ。

 そんな風に彼に呼ばれるまま先輩風を吹かして、問い正し諫言したいところだったけれど。

 そんなことより、気になることが僕にはあった。

「まあ、学校を早退したのは隣に置いておくとして」

 僕は目の前にある無色透明の立方体を両手で挟むイメージで持ち上げ、横の虚空へと移す素振りを見せた。

「学校帰りにどうしたら事件現場に出くわすんだよ」

 名探偵やその助手でもあるまいし。

 多少自嘲を込めた問いを僕は彼に投げかけた。すると幸助くんはさも全人類周知の事実であるかのように当然とばかりに口を開いた。

「え、だって、事件現場ってうちの中学校の敷地内なんですもん」

 もん、ってそれはキャラブレに繋がるから控えなさいと宥めつつも、僕は内心驚きを禁じ得なかった。

 あの図書館はカノンちゃんが普段(からではないが)通っている中学校の敷地内にあると言うことは、つまりその存在をカノンちゃんは知っているはずであるのだが、どうしてカノンちゃんは僕に自分の母校が詳しく母校の図書館が事件の標的になったと言うことを伝えてくれなかったのだろう。

 何かしらの考えが思惑が思慮があったのだろうか。

 思考を巡らしてはみるが名探偵でもない僕にわかるわけもなく、僕はそれをすぐ取りやめた。

「おっともうこんな時間だ」

 腕時計を確認した幸助くんの横顔が網膜に映し出される。

 彼は再び自転車に腰掛けると一度僕の方を向いてペダルに足を乗せた。

「それじゃ、野郎どもが待ってるんで、これにておさらばさせてもらうっす」

「そうか。まあ、学校に行けという説教を絶賛不登校ぎみの僕なんかにされたくはないだろうけど、でも、だからこそ尚更僕は君にそう注意するよ……必ずとは言わないから、ほどほどに学校には行くんだよ」

「ご忠告痛みいるっす、四季先輩。いや〜、先輩の言葉なら例えそれが間違っていようと不完全であろうと恣意的であろうと俺は聞き届けますけどね! 何せ、四季先輩の言葉っすから」

 それじゃ。

 と、大きく手を振る幸助くんを乗せ、車輪が回りだす。

「——あっと、一つ先輩に言っておいた方が良かったことを思い出したっす。四季先輩から有難いご忠告を受け取っておいて、何も返さないのは極道としての名折れ……。俺も先輩にならってこの度一つのご勧告をさせてください」

 彼が動きだすのと同じくして動き出していた僕は、不意に背後から投げかけられた声に腰ならびに首を捻った。

「あの名探偵ならもうすでに察しているとは思いますが、あまり今回の一件を事件としてみない方がよろしいかと思いますよ。むしろ事故と認識して挑んだ方がいい」

 それだけ言うと、「それじゃ今度こそ」と残して彼は僕の前から颯の如く飛び出して行った。

 事件ではなく、事故……か。

 故意的ではなく、偶発的と言うことだろう。

 それが一体何を示しているのか、愚かな僕にはわからないけれど、ここは名探偵ばかりに頼ってばかりではいられないと、珍しく頭を働かせ一つの予想を立てておく。

 あの計画的な犯罪王のミスによって今回の事件は引き起こされたのだ、とそんな感じで。

 スマホのロックを外してスイスイと液晶をなぞり、中のアプリを操作する。

 ホワイトアウトの奥から浮かび上がってきた画面はネットニュースのトップページだ。

 そこには大大と目立つような存在感のある文字で、『犯行は犯罪王によるものか』『小説の存在の消滅により世界中に混乱』などと続報が綴られていた。

 僕はそれらに一通り目を通して、小さな板状の電子機器をポケットにしまった。

 

 

 part6

 

 僕が図書館に到着する頃には、カノンちゃんが入口正面に位置する案内所のカウンター前に事件発覚当時現場にいたと証言する人たちを集め、すでに事情聴取を終えていた。

 その様子を遠目に見ながら、なんだか一人だけ重役出勤してきたみたいで図書館内に足を踏み入れるのが億劫になる。

 だが、そうも言っていられない。僕はトボトボと負い目を感じながら図書館の自動ドアを潜った。

 その音を聞いて、耳聡く聞きつけて、カノンちゃんの首がこちらを振り向いた。

「おや、随分と遅かったね。途中不良にでも絡まれでもしたのかい?」

 なんでわかるんだよ。怖。

 さてはエスパーかな。

「まあ、不良ではなくて極道で、それも絡まれるというより通りすがりざまの挨拶をしていたわけなのだけど、遅れたことには違いないよ。ごめん」

「いや、別に謝るようなことではないよ。君がいたところでいなかったところで、私さえ現場にいれば事件なんてものはすぐ解決されるのだから」

「そうかよ! なら無駄周りをしないで、とっとと事件を解決してくれ!」

「それは約束しかねるな。なんせ私は無駄に聡く賢い名探偵なのだから」

 そんな決め台詞誰も聞いてないよ。

 一通りの軽口を終えて僕は、集めらた人物たちの面々を品定めするような視線で見回す。

 そのうちの一つに予想外の知人の顔が見えて、僕は思わずあっと声を上げた。

「沙羅道! どうして君がこんな時間にこんなところに?」

 沙羅道飛鳥。僕の数少ない友人にしてクラスメイト。彼女という人間を如実に言い表すならこの一言が妥当だろう。

 正義。

 僕とは対照的に学生の模範的な態度を取り、由緒正しく、礼儀正しく、考えることの全てが正しい、富豪名家のお嬢様。

 この文面だけを見たら完璧超人のように思えてしまう。

 そんな彼女の絶対的なパーソナルは正義と断ずるのが正しい。

 中学校がそうなのだから例に漏れず高校も通常通りの授業があるわけで、そんな正しい彼女がその正しさを律するための学校に行っていないことが、僕には天変地異の前触れのような気がして気が気でなくなっていた。

「やだな〜花かっぱくんもとい——秋春くん。君はいつだって私を名探偵を差し置いて絶対的に正しい正義の人間と形容するけれど、実際の私はそう大層なものじゃないって言ってるでしょ? それに私だって学校に遅刻する時くらい往々にしてあります!」

 遅刻。その言葉を聞いて僕は胸を撫で下ろす。

 なーんだ。サボってるってわけじゃないのか。僕と違って。

「そうだよ。秋春くんと違って私は学校を私的な理由でサボったりはしないよ。今回はまあ、結果としてサボることにはなりそうなんだけど」

 敢えて口に出しはしないけど、別にサボることは悪いことじゃないと僕は思うけどね。むしろ、こと僕に関しては嫌な学校をサボることでメンタルを調整していると言えなくもない。

「あの子が君が助手をしていると噂に聞く無駄に賢い名探偵?」

 そう言って、沙羅道はカノンちゃんを一瞥した。

「そうだよ。あれが僕が普段お世話をしている名探偵だ。今朝だって彼女ためにステーキとハンバーグを作ったんだから」

 どうだ沙羅道すごいだろ。頑張っただろ。どうか僕を褒めてくれ労ってくれ。

「へぇ、助手さんってのも案外大変なんだね」

 あっさりとした反応だった。

「そりゃないぜ沙羅道。もっと僕を褒めてくれよ労ってくれよ!」

「そうしたら秋春くん、天狗になって聞きたくもないような話を延々と繰り出し続けるでしょ?」

 妙に頬を膨らませる割には、建設的な判断をするな。

「沙羅道はきっちりと正しい対応をするんだな」

「正しくはないよ。ただ、最適解だったってだけ」

「そんなもんかな」

「そんなもんだよ」

 またも沙羅道はさらりと答える。吃ることなく澱みなく。

 にしたって何がどうして、こんな場所に沙羅道がいるのだろうか。

 下校の時、寄り道を誘ってもなかなか了承することのない彼女が、こと登校時に限って寄り道することを良しとしているなんてことが本当にあるのだろうか。

 自らを厳しく律し、鉄のように叩いて鍛え上げることを是とするあの彼女が。

「確かに寄り道は寄り道なんだけどね。ただ借りていた参考書を返そうと思って立ち寄ったんだよ。何せ、返却期限が迫りに迫っていたからね。加えて返却できるような余裕が今朝のこの時にしかなかったものだから……」

 そうして、立ち寄った時、運悪く事件に遭遇してしまったと。

 そういうことらしい。

 家を出てから今までの間に、学校へ向かう途中に図書館に立ち寄った人と、学校からの帰りに図書館に立ち寄った人の、二種類の人間に出会っている。こんな偶然滅多にないぜ。

 日頃の行いはいい方のはずなんだけどな。時々抜けてるっていうか、巻き込まれやすい体質とでもいうのだろうか。

 巻き込まれ体質という点では、名探偵助手であるところの僕も捨てたものじゃないけれど、こと沙羅道飛鳥と比べると僕なんて霞んで消えてしまう程度のちっぽけなものだ。

 普段からカノンちゃんに色々な事件に連れまわされてゴタゴタに巻き込まれているけれど、それと同じくらい彼女は自らが事件を引き寄せる傾向にあり、たいてい事件現場に赴くと彼女の姿がそこにはある。

 一度とは言わず何度も、彼女が真の黒幕なのではないかと考えたこともあったが、気さくで気楽なキャラが売りの彼女にそんなもの務まるはずもなく。僕の中では、某小さな名探偵のような存在——そこに存在するだけで事件を引き寄せる存在という認識がとっくのとうに出来上がっていた。

 ともなれば今回も。

「そうなの、春秋くんの考えてる通りだよ。私が今回の事件の第一発見者なの!」

 今回事件の、ではなくても今回事件の、といった方がより一層正確に聞こえるのだが。まあそれは置いておいて、またしても君かと毒づくのは後回しだ。

 第一発見者ということは、つまり、この図書館のどこかに飾られていた世界最高峰の小説が消失していたことを誰よりも早くいち早く発見したのが沙羅道ということになるのか。

「わかり切ったようなことを聞くけど、犯人は君じゃないんだよな」

「うん。私じゃないよ。神には誓えないけど、物語に誓うよ」

「はあ」

 沙羅道が言っていることは難しくてよくわからん。

 そんなこんなで、もうすでにカノンちゃんが歩いたであろう道を再び通りながら、改めてもう一度個人的に事情聴取をしているそこへ、横槍が飛んでくる。

「話の途中失礼するよ!」

 横槍といえど、それは随分と小ぶりで愛らしいマスコットのような声だった。

 聞き覚えのあるその声に僕は反射的に周辺を目でなぞった。

「ここだよ、ここ、ここなんだよ! 折り紙のお兄ちゃん!」

 花かっぱでもなく、名前を呼ぶでもなく、姓名からわざわざ一文字ずつ切り取って使うわけでもなく、僕をたった一枚から何にでもなれるような創造性にあふれた呼称で呼ぶのは、この世界で一人しかいない。

 僕はそんな彼女の姿を視界に宿してその名を呼ぶ。

「鏡子ちゃん!」

 豈鏡子。この図書館の図書館司書をしている少女。齢十四でありながら完璧な仕事ぶりを魅せてくれる彼女は、実にプリティーでキュートな愛らしい存在だ。

 僕の彼女に対する感情、これを世間一般ではこういうのだろう?

 ——推しを推す感情

 と。

 彼女はこんな辺鄙な図書館で止まっていていい存在ではない。もっと輪をかけて世界的な図書館アイドルとして彼女には世界に進出し、グローバルに活躍してほしいと常々星に願っている。

 ついでとして、僕と彼女の関係についての詳細を添付しておくとしよう。

 僕に狩野喜代先生の著書を初めて勧めてくれたのが彼女——プリティガール豈鏡子ちゃんなのだ。

 彼女の職場で事件が起こったからには彼女がこの場にいてもなんの不思議もない。が、正直に言うならこんな面倒事に巻き込まれないでいて欲しかった。

 鏡子ちゃんにはのびのびと生きていてほしいと言うのが、僕の今最も強い祈りなのだから。

 と言うことで、名探偵助手として鏡子ちゃんの身の安全を確認するのが、今僕が果たすべき究極の任務だ。

「だだだだだだ大丈夫かい⁉︎ 何か怪我とかは? 痛いところとかはない? まったく犯罪王の野郎、僕のマイスイートエンジェル鏡子ちゃんのおわす神殿に傷をつけるとは、僕は絶対にあの野郎を許さない」

 僕の心の中で復讐の炎がメラメラと燃え盛っているぜ。燃えろ僕の小宇宙コスモよ!

「折り紙のお兄ちゃん……今どきの若者に通じずらいネタはやめてもらえるかな?」

 ……な。僕はイマドキの若者じゃない⁉︎

「大丈夫だよ。怪我なんてないし、傷も負ってない健康優良物件だよ!」

 それを言うなら優良児なのだが優良物件って、もしかして、契約できるんですか?

「ええ、もちろん。今ならお手頃価格、三千億万円でご購入できちゃうよ!」

 三千億万円か〜。

 くっそそんな単位……存在しないじゃないか。どうしてだ、どうして千億万という単位は存在しない。存在していたら今頃は。

「僕と鏡子ちゃんの幸せハッピーセットライフが……」

「何を狼狽えてるんだよ。夏君」

 苦虫を噛み潰した表情で固く拳を締める僕を見て、若干引き攣った表情のカノンちゃんが声を上げる。

「ついに私が君を犯罪者として検挙する時がくるとは」

「おい待て、待ってくれカノンちゃん僕は無実だ! 無実の罪だ!」

「女子中学生を前に関係を迫る男子高校生……、秋君。この文言を聞いて情状酌量の余地があるとお思いで?」

「そんな余地まったくありません。殺してしまった方がマシだとさえ思います!」

 我ながらスラスラと言葉が舌の上に乗ったものだった。

 

 閑話休題。

 

 話を戻そう。本題へと遡ろう。

 カノンちゃんに集めらた人々は、沙羅道と鏡子ちゃんの他に三人いた。

 沙羅道たっての希望で足早に事件を解決しなくてはならなくなった。何も、早く束縛から解放され兎に角授業を受けるべく学校へと急ぎたいらしい。

 そんなこんなで、いちいち僕が各々事情聴取する時間も惜しいとのことで、その他三人のことはカノンちゃんを通じて詳細を知ることとなった。

 一人目は、赤色のネクタイにシワひとつ許さないスーツに身を通した老紳士という風格の男性。佇まいや言葉遣いからも年相応の貫禄というのが見て取れる。

 二人目は、くたびれたスーツに身をやつす壮年の男性。目元には濃いクマができており、ここ最近、質の良い睡眠が取れていないことを暗に表していた。

 そして最後に、メガネをかけたスレンダーな女性。彼女の名前を聞いて僕はすっかり言葉を失ってしまった。行方のしれない感情に取り憑かれ頭が真っ白になった。

 彼女は自分を、狩野喜代と言った。

 話を聞くに、彼女は——狩野喜代先生はどうやらこの図書館の最奥で毎日執筆活動をしているらしい。

 まさかこんな事件の事件現場で敬愛する狩野喜代先生と出会うことになるとは、なんだか複雑な心境だったけれど、握手とサインを忘れる僕では決してない。

 狩野喜代先生から色紙を受け取ったその後、僕は図書館司書の鏡子ちゃんに連れられ、世界最高峰の小説が飾られていたというその場所に向かうこととなった。

 これはカノンちゃんの申し付けだ。現場をその目で見て、素直な感想を伝えてほしいとのことだった。カノンちゃんはすでに現場を見に行ったらしかったので、僕らの列に加わることはなかった。

 とことこと僕らの足音が図書館に響く。静謐な雰囲気を纏う図書館ならではの反響性能はとても凄まじい。

 四方八方の至る所の壁に反射し共鳴する足音に掻き消されまいと、鏡子ちゃんはわかりやすく声を張ってみせる。

「いやー、お兄ちゃんがあの名探偵の助手だったとは、流石のキヨちゃんも予想だにしていなかったよ」

 鏡子ちゃんは作家の狩野喜代の『きよ』と自らの名前の鏡子の『きょう』をかけて、自分をキヨちゃんと呼称している。これは彼女が僕と同じく狩野喜代先生の熱烈なファンであるからであり、狩野先生のような人間になりたいという強い思いから自分を鼓舞するために使い始めたのだと、以前僕は彼女から聞いたことがあった。

「あれ……僕言ってなかったけ?」

「言ってなかったよ。例え言っていたとしてもキヨちゃんは聞きたくもなかっただろうけどね」

 なんだそりゃ。

 まったく最近の女子中学生の心境ってのを理解するのは度し難い。

 だからこそ聞き落としていたんじゃないのか、なんてつい言い掛けてしまうけれど、その前に周囲の環境の異様さがそんな軽口を叩くことを僕に禁じるが。

 その代わりに嘆息を漏らせと背中を叩いた。

「はぁ」

 堪えきれず大きく息を吐いた。

 それは深呼吸も兼ねており、僕はその時一刻も早く冷静さを取り戻したかったのだ。

 だってそうだろ。

 ここは図書館なのに本棚に並ぶほとんどの本の存在がないのだ。とりわけ小説と称されるものだけが、一切合切、息を合わせたようにその姿を境界線の向こうへと隠してしまったかのようだ。

 しかし、ここで肝なのは存在しないと言うだけで本という物体は確かにそこにあるのだ。

 確かに本という形を取られているのに、それを小説と捉えることができない。物語が綴られた一冊の本であると認識できない。

 ただの立方体のようにしか思えないのだ。他の図鑑だったり郷土集だったりはそれをそうと認知できるのに。

 本としての本質が失われたものがずらりと並ぶその光景に、図書館が図書館然としての機能を役割を果たしていないような気がして気持ち悪い。

 吐き気を催すほどに。

 一人でに気分を害する僕を尻目に鏡子ちゃんは眩しいほどの笑顔で笑った。

「普段はいつもカウンター越しに話していたけど、こうして隣り合って肩を並べて足を進めているとまるで、同級生にでもなった気分だよね。そうは思わない? 折り紙のお兄ちゃん」

 それは彼女なりの励ましだったのだろう。そのことにうっすらと気づきながら、僕はこくりと同意の相槌を打つ。

「新鮮って意味じゃあ、確かにそうだな。僕と鏡子ちゃんじゃだいぶ歳の差があるから、その分身体的な差もあるから、肩を並べてと言っても高さじゃなくて縦横に並べることになるんだろうね」

「それってこんな感じかな?」

 ガシッと僕の右腕をホールディングして、鏡子ちゃんは強制的に僕と彼女の肩を横一文字に並べる、というかくっつける。

 これじゃあまるで披露宴の新郎新婦入場で、娘とバージンロードを歩いているお父さんの図じゃないか。

「良いかい鏡子ちゃん。結婚の挨拶を親御さんたちにするのはもう当たり前のことだけど、その前に一旦僕のもとに挨拶に来なさい。僕がその相手のことを見定めてやる!」

 もし、鏡子ちゃんに相応しくないとその場で判断したなら、僕の得意技ローカルローキックをお見舞いしてやる所存だ。

「急に何を言い出すんだよお兄ちゃん。キヨちゃんと一緒に将来ママパパの元に挨拶に向かうのは折り紙のお兄ちゃんって決まっているでしょ? 決まり散らかしているでしょう」

 決まり散らかしている⁉︎ なんて荒々しい言葉の暴力なんだ。

 それじゃあまるで……まるで、

「僕と鏡子ちゃんが——」

「なんてね!」

 語尾に星マークがつきそうな無邪気さで言って、鏡子ちゃんは見事綺麗なウィンクを決めた。

「……鏡子ちゃん。男の子の純情を弄んじゃいけないよ。これはお兄ちゃんとの一緒の約束だよ?」

「え、あ、うん」

 鏡子ちゃんから生返事だけが返ってきた。

 さて軽口の応酬はここまでにしよう。件の本棚ももうすぐそこだ。

 僕は生唾を飲み込む。

 世界最高峰と称され拝まれ敬われる小説があった場所。それも数時間前まで。

 そんな場所に訪れるのだと思うとなんだか神聖な領域に足を踏み入れるようで、心なしか動悸が鳴り止まない。

 うぅ緊張でゲボ吐きそう。

 いやいやこんな心境じゃダメだ。僕はこれから犯罪王の手によって世界から奪われた世界最高峰の小説を取り返すんだ。もっと犯罪王と対峙しことを成すのは僕ではなくカノンちゃんなのだが。

 鏡子ちゃんの踵の刻んていたリズムがピタリと静止する。

 現実とは残酷なもので結局僕は心の準備を十分にできないまま、件の本棚に到着してしまったらしい。

 それをまざまざと知らせるかのように、鏡子ちゃんの小さなお口が開かれる。

「ここだよ! 折り紙のお兄ちゃん! ここが事件の発生現場だ」

 そしてそれは、沙羅道をはじめとして世界が事件を認識することとなった場所でもあった。

 

 

 part7

 

 そうして、トコトコと二十分にも渡って図書館を歩き回って僕らは事件現場に到着したのだったが(いやはや、いつ来てもこの図書館の広大さには僕の脳細胞の全てが驚天してしまう)。

 しかし、これはなんというか。

 僕が想像していた世界最高峰を祀る本棚というのは、それこそ御神体でも祀りあげるようないわば本棚型の祭壇のようなものを想像していたのだけれど。

 いや、本棚型の祭壇って。

 だが実際、箱を開けてみれば、縦穴を覗いて見れば、夢を語ってみれば——百聞してから一見してみれば、存外、あっという驚きもなくて、どれだけ僕の頭はイマジナリティーに富んでいたのだろうと自分が恐ろしくなるけれど、それでもやはり納得できないというのが素直な見解であった。

 それは想像以上に本棚で、予想外なまでに本棚であると言えた。

 もしかすると初めからそんなものがあったのかと疑いたくなるほどだ。

 しかし、目を丸くして観察してみると確かにそれはあったのだと、直感的にそう思う。

 まるで朝の通勤列車の中身のように、所狭しと肩を並べ足並みを揃えられて棚の上に陳列した幾冊の本たち。

 一見しただけでは棚の全てが埋まっているように見えるが、その中に一点、いや、一冊分だけの余白が存在している。そしてその足元の棚には純金製のプレートが取り付けられており、そこにはおまけ程度のノリでこう書かれていた。

 『世界最高峰の小説』と。

 仮にも世界最高峰ならもう少し奇抜な演出を加えられていてもおかしくは思わないけれど、流石にここまで質素となるとおかしく思わざるを得ない。

 まるで読者の認識の穴をつく叙述トリックにまんまとかかっているような気分だった。

「なあ、鏡子ちゃん。ここの本棚って、その世界最高峰とまではいかないけれどそれに準ずるレベルの本が集められ並べられた本棚なのかい?」

 意識朦朧と尋ねる僕に鏡子ちゃんは平々とした口調で応える。

「いや、ここの図書館の本はここにやってきた順番で本棚に並べられるんだよ。まあ、五十音で別れてはいるんだけどね。そして、ここはその『せ』の本棚というわけだね!」

 なるほどそういうわけか。

 だとしてもやっぱり。世界最高峰と呼ばれる小説ならもっと、こう美術館のように展示していても良いように思えるが。

「確かに両者は学術面でも芸術面でも似通った性質を保持しているけど、そこは棲み分けってやつだよね。あくまで図書館ここは読書を楽しむ場。紙媒体に記録された過去の記憶を呼び覚ましそれを糧とするためにある施設で、決して、過去の遺物を物珍しそうな瞳で囲い見つめるような所じゃないんだよ」

「それもそうか。確かにここは美術館じゃあないもんな。鏡子ちゃんの言う通りだよ。こりゃ僕の認識を改める必要がありそうだな」

「そんなことないよ! 折り紙のお兄ちゃんはそのままでいいんだよ。自分では愚かだって卑下しているけれど、物事を他の人とは異なる視点から眺められるってのは立派な才能だとキヨちゃんは思うよ」

「ありがとう鏡子ちゃん。そう言ってもらえると嬉しいよ」

「うん……。ほんとお兄ちゃんはあの名探偵の助手にしておくには勿体無い」

 そっぽを向いてぼそっと鏡子ちゃんがつぶやいた。

「なんだって?」

「なんでもないよ! 折り紙のお兄ちゃん! というかそれより、キヨちゃんに気を遣っているより、キヨちゃんに気を引かれているより、まず先にやらないといけないことがあるんじゃないかな?」

 ああそうだった。

 ここに来た本来の目的を僕は鏡子ちゃんに咎められることで思い出すのだった。

 中学生女子に手伝ってもらわないとまともにタスクをこなせない僕ってやつは、まったく、本当に愚かしい奴だ。

「しかしとは言ってもだよ鏡子ちゃん。ここの現場から一体何を読み取れって言うんだ。実際に僕はその……何? 世界最高峰の小説とやらの実物を目にしたことがあるわけでもないし、本当にこの場に存在しないのかどうかさえあやふやなところなのだけれど、貸し出ししたってわけでもないんだよな……」

「その点に関してはキヨちゃんのお墨付きをあげるよ」

「お墨付き?」

「太鼓判とも言えるね! 世界最高峰の小説はここ十年ほど貸し出しはされてないよ」

 自分が管理している図書館から物を盗まれたと言うのに(それも世界最高峰の小説だなんて呼ばれている代物を)、警備の穴に対して太鼓判を押すと言うのはいささか図書館司書として穴だらけだと思うのだが。

 鏡子ちゃんには図書館の警備力に太鼓判を押して欲しいところだった。

 今後に期待しよう。

「まあ、鏡子ちゃんがそう言うならそうなんだろう」

 それに沙羅道の証言もあることだし。だとしたら、よく沙羅道はこんな棚に世界最高峰の小説があっただなんて知ってたな。そっちの方が驚愕の事実だ。

 こんなの、茶碗一杯分によそられたコシヒカリの中から一粒のインディカ米を探すくらい困難なことだ。

 まったく『ウォーリーを探せ』かよ。

「ん? 待てよ。ここまでの道のりに二十分くらいかかったのって、もしかして探すのに時間がかかったって言うのもあったりするのかな?」

「ま、まさか。そんなはずあるはずないじゃない。完璧で究極にプリティーなこのキヨちゃんが道を間違えるだなんてそんなことあるはずがないよ!」

「できれば完璧で究極な図書館司書であって欲しいところだった」

「これでもキヨちゃんは『ウォーリアーを探せ』の世界屈指の実力者なんだよ?」

 なんだそれ⁉︎

 ウォーリアーを探せ? なぜ戦士を探す必要がある? 

 何か? あれか?

 盾職に、魔法職に、弓職は揃っているのにあと一人、前線で刀を振るう者がいない冒険者のパーティーかよ!

 募集かけろよ。わざわざ能動的に行動するな。それだけのメンバーが揃っているならそのうち相手の方からやってくるよ。 

「冒険心が止められないんだよ」

 さては他の本棚に目移りしていた口だな? 図書を司る者としては真っ当な生き様か。

 まぁいいや鏡子ちゃんの可愛らしさにこれ以上は不問としよう。

「しかしまあ、この図書館から本一冊を盗み出すのはいとも容易いことだろうけどさ。実際問題、世界中から物語を綴った小説の存在を消すなんてことできたりするのか?」

 それこそ魔法職でもない限りは荒唐無稽な挑戦だ。

「いやいや、お兄ちゃん。あの犯罪王ならそれは容易いことなんじゃないかな」

「というと?」

「先月の中旬に犯罪王が大きな事件を起こしたじゃない。今世紀最大にして空前絶後とも呼べるあの大事件——チントン事件を思えば、今回の一件なんて朝飯前と言えるんじゃないかな?」

 チントン事件。

 あぁ、そう聞かれずとも知っているさ。あの男ならやりかねない。

 なんせその一件で彼は国家一つを消滅させたのだから。まるで奇術のように一切手を触れることなく。カノンちゃんが愛する無駄という言葉一つのみで。

 あれには流石のカノンちゃんも対抗できずに終わった。僕らは一度犯罪王にこっぴどく敗北しているのだ。

 考えたくはないけれど、今回がその二の舞だってことも十二分にありえる。

「あいつにしたら、概念すらも消すことは容易いってことか……」

 僕が悩ましそうにそうぼやくと、鏡子ちゃんのしかめっ面が僕の瞳を覗いた。

「お兄ちゃんは何を言ってるの?」

 阿呆を見る目だった。

「ふうやれやれ、鏡子ちゃんにはまだ難しい内容だったか……」

「いや、お兄ちゃんの話している内容が難しいのではなくて、お兄ちゃんが難しく考えているだけだよ」

 ビシッと人差し指を突きつけられる。

 そんな決め顔で言われても……、鏡子ちゃんこそ一体何を言っているんだ。難しくなっているのは僕らのコミュニケーションの方だ!

「……」

「……」

 いつになく気まずい雰囲気が僕らの間に流れていた。

「チラ」

「プイッ」

「——ッ!」

 鏡子ちゃんが目を合わせてくれない⁉︎ 

 ウソだろ⁉︎ このまま鏡子ちゃんとの関係に亀裂が入ったら僕はもうやっていけない! この先の人生何を楽しみに生きていけばいいんだ。

 僕の心の砦は数がないんだぞ!

 今のところの僕の心の砦は、一つが狩野喜代先生の小説なわけだけど。それは現在あの憎き犯罪王によって、城壁のど真ん中を撃ち穿たれ風穴が開けられている。

 これだけでも半年は寝込むレベルなのに、鏡子ちゃんと仲違いしたとあってはもう364日を茫然と部屋の隅で過ごすことになる。

「もしかしてお兄ちゃんはサンタクロースのひよっこだったりするの?」

「ああ、そうだぜ。僕は年がら年中怠けることだけを考えて生きている男子高校生だからな。自然とサンタクロースになる素質が出来上がっているってものだ」

「でもでもお兄ちゃん。サンタクロースが364日休むのは相対的にそれだけ休まざるを得ない仕事を一日でこなしているからじゃないのかな? ただ怠けるだけを考えているお兄ちゃんじゃぁ到底なれっこないよ」

 くるりくるりと手のひら返しがすごい! 手首だけにとどまらず肘までもが捩じ切れそうな勢いだ。

 少しの間だけ僕らは互いを見つめ合う。

 そして、どちらからともなく破顔した。

 それほど長くはない時間、声を抑えた笑い声が静謐なる図書館で僕らの周りだけに響く。

「さてね、一応現場の視察も終わったことだし、カウンター前に蜻蛉返りすることとしようか」

「そうだね。そろそろカノンちゃんが痺れを切らしている頃合いだ」

 二つの足音が再び図書館に木霊を生む。

 相も変わらず愉しげな響きだと僕は思った。

 

 

 part8

 

「やいやい、随分と遅かったじゃないか。何かよからぬことでもしていたんじゃないだろうね?」

 そう意地悪くも機嫌悪く言うのは無作法にもカウンターの上に腰をかけ、事件現場の調査結果を待っていた我らが名探偵なのだが。

 にしても、やいやいって、出会い頭に喧嘩でもふっかけるつもりか。

 事件現場の調査結果というとなんだが、大仰に聞こえるから言い直すけど、事件現場を視察した僕の感想を赤裸々に僕はカノンちゃんに語った。

 そうしたところ、彼女の受け答えは「ふうん」の一言だけだった。何かもう少しあってもいいだろうに。そうは思わないかい?

 だが僕のそんな淡い願いがもう彼女に伝わることはない。何故って? カノンちゃんの推理は始まっている。名探偵は考え出したら止まれない生き物だからさ。

 数瞬の熟考を終えて、カノンちゃんは名探偵らしからずカウンターの上に両足を立て、次に名探偵らしくパシンと手を鳴らし「さて」と言った。

「解決の欠片は揃った。それじゃあこれより、物語は解決編へ躍進する」

 そうしていつものように僕はカノンちゃんのその宣言に対し、こう返すことになるのだ。

「今回の無駄は何処にある?」

 カノンちゃんの回答は、

「今回の無駄は『物語』にある!」

 の二文字だった。

 よって事件はすでに解決され、カノンちゃんの掛け声と共に世界は小説の存在を取り戻した。

 この後に語られるは無駄語り真相その一つのみだ。

 

 

 part9

 

「さぁて、今回の事件の核心となるのは一体どこにあったのだろう」

 冬君はどう思う?

 そう問われ、すべての視線が僕に集中する。

 ウッと引き攣った声が漏れるけど、勤めて僕は冷静を装う。

「そりゃカノンちゃん、世界最高峰と謳われ敬われる小説がこの図書館から姿を消したことじゃないのか?」

 それこそが事件の発端であり、元凶である。

 と思っていたのだが次の発言を聞くに、どうやらカノンちゃんの主義主張とは異なるらしい。

「そうだね。それがすべての中心点だ。しかしながら、それは事件の全貌を語るには少々物足りない。……そうだな〜。じゃあ沙羅道君」

「私?」

 自分に指先を向け、意思の統一を図る沙羅道。

 カノンちゃんはこくりと頷いた。

「そう君だ。第一発見者である君に訊きたい。では一体全体どのように世界最高峰の小説はその消息を絶ったのだろう?」

 鼻頭を摘み沙羅道は思考する。

 これは彼女の癖みたいなものだ。物事を整理したり、深く思考したりするとき、彼女は無意識に自らの鼻頭を押さえる傾向にある。

 彼女の指がパッと解かれた。

「そうだなー。確かなことは言えないんだけどね。私が思うにこの図書館の本は、歴史的にも学術的にも価値のあるものがたくさんあるのに対し、誰にとっても比較的盗みやすいようになってる気がするの。それこそ犯罪王でなくたって簡単に盗めるのではないかと思ってしまうくらいには」

「うんうん。続けて」

 手のひらを向け催促するカノンちゃん。

 僕ならつい吃ってしまいそうなところを沙羅道はつまずくことなくスラスラと言葉を紡ぎだす。まるで舞台上のバレリーナのような華麗さだと言っても過言ではない。

「……そんな風に言うとまるで盗まれることが前提のように聞こえてしまうけど、でも過去に遡ってみても、この図書館で本が盗まれたなんて話は一度たりとも聞いたことがない。マーケットに出せば高値がつくような蔵書もたくさんあるというのにだよ。

 だから私は思ったの。いくら盗むのが簡単だと言っても、それは本棚から取り出すことが容易いと言うことであって、決して図書館の外側に持ち出すことを表しているわけじゃない、って。詳しいことは知らないけど、そういうところの調整がなされているのがこの場所、出入り口前のカウンターだったりするんじゃないかな。だらこそ、名探偵さんは私たちをここに集めたのでしょう?」

 沙羅道の返答を受けてカノンちゃんの口許がニヤリと歪む。

「ご名答! 伊達に場数を踏んでないね!」

 皮肉なのか賞賛なのかどっちつかずの言葉を並べて、沙羅道へ拍手を送る。

 ぱちぱちぱちと乾いた音が空気を伝染した。

 視界の端の鏡子ちゃんの表情が苦々しく映った。

 呆れているような、うんざりしているような、ともかく不快感を描く面持ちであることに違いはない。

 そこへ、見計らったかのようにカノンちゃんの言葉が差し込まれた。

「それは、この図書館を管理している図書館司書さんに聞けばわかるだろう。実際どうなのかな、図書館司書さん?」

 鏡子ちゃんに目を振らず、ただ真っ直ぐ正面だけを見つめて彼女は言った。

「………確かに、この図書館には特別な防犯機器は設置されていないよ。まあ、それはどこの図書館をとっても言えることだけどね。ここの図書館もそれに倣ってそれらしい設備は整備されていない。そもそも図書館の本を盗もうだなんんてするやつがいるとは考えられないからね」

 渋々と言ったように鏡子ちゃんは図書館の警備体制について言及した。

「しかし、現に今、この図書館から一冊の小説が姿を消しているじゃないか。それについてキヨちゃんはどう思うのかな?」

「……っ。さてね。あの犯罪王による犯行だ。たかが図書館司書如きが彼の編み出したトリックを暴くことなんてできるはずもないさ——」

 

「——今回の窃盗犯は犯罪王じゃないよ?」

 

 淡々と吐き出されたカノンちゃんの言葉がすらすらと耳に流れ込む。

 僕は混乱を振り切れず、気づけばほぼ無意識に二人の会話に割って入っていた。

「! 待ってくれカノンちゃん。それってどういうことだよ。僕らは犯罪王が犯人であることを前提に推理を披露していたんじゃないのか?」

 あっけらかんな顔でアホ丸出しの僕を見てカノンちゃんが失笑する。

 甲高い笑い声が図書館全体を覆う。

 この女、一体どこまで僕を貶めれば気が済むというのだ。ほら見てみろ、鏡子ちゃんや沙羅道が哀れみの視線を向けてきている。それだけじゃない、狩野先生や他の人たちも僕を悲しい目で見つめている。

 僕はそんな哀れな人間じゃない!

「あっはっは。笑った笑った」

 随分と楽しそうな響きを湛えていた。

「春君、君はどうして犯罪王が犯人だと思っていたんだい?」

「そりゃぁ……覚えているだろ今朝のニュース。そこでそう書いてあったじゃないか」

「いや、君の言っていることは間違っている」

 そうやって僕が頑張って絞り出した言い訳を、しかしカノンちゃんはバッサリと切り捨てた。

「え?」

「よく思い出してごらんよ。あの時のテロップにはなんて書いてあった?」

 と、急かされ僕は必死になって記憶の棚を漁る。

 あともうすで思い出せそうだという時に、「タイムアップ」と残酷な発言が下される。

「あのテロップにはこう記されてあったはずだ」

 

『私立迷時大学図書館にて窃盗事件が発生。盗まれたのは

 

 と。

「犯罪王なんて言葉では一つも出てきていないんだよ。つまり君は——いや君を含む世界中の人間は……」

「……勘違いを、していた?」

 カノンちゃんの瞳が蠱惑的に揺れた。

 あまりにも犯罪王が不可能と言える犯罪を起こすがゆえに。

 あろうことか、僕たちはいつの間にか彼が引き起こす大事件に慣れてしまっていたのだ。

 言い方を変えるなら、見慣れ飽き飽きとしていた。

 犯罪王ならやりかねないとそう思っていた。

 信じ込んでいた。

 そうまるで、目の前で奇跡を起こした人間を神と崇め、信仰するかのように。

 僕らは疑うことをしなくなっていた。

 ここでようやく僕は、幸助くんの言っていたことの意味を理解することになったのだった。

「それだけじゃない。犯罪王が事件を起こしたとして生じた二次災害。チントン事件のほとぼりがまだ冷めていないというのもあるのだろうけどね。世界から小説が失われたというのも君たちの思い込みによるものだ」

 それを聞いて僕は思う。

 世界は一寸たりとも小説の存在を奪われてはいなかったのだ。今回はチントン事件の二の舞ではなかった。あの時の国家のように、小説は犯罪王の無駄の一言で存在を消し去られてはいなかったのだ。

 むしろ、消し去っていたのは僕らの方だった。

 ほんと、つくづく僕は愚かものだ。

 ともなれば、これまでの前提が全て崩れるとするのなら、これは事件ではなく事故という形に変貌することになるのだろうか。

「それを確かめるために図書館司書から話を聞こうとしているのだよ」

「鏡子ちゃん、教えてくれ! 実際、盗まれたことはなかったとしても、以前にこの図書館の蔵書が盗まれそうになったことってあるのかな?」

 数秒ほど沈黙が佇む。

 それでもその後すぐに鏡子ちゃんは口を開いた。意を決したように一度瞑目を挟んでから。

「そりゃあね。あるにはあったよ。なんせここには一冊だけでも一億という値がつくほどのものが約五千冊ほどあるからね」

 一億! 五千冊! 

 ってことは全部売ったら五千億円ってことか……。指折り数えてみる。

「何やら折り紙のお兄ちゃんから下衆の匂いがぷんぷんするよ?」

「……な、なんのことかな?」

 急に冷や汗が全身の毛穴と毛穴から吹き出してくる。

 僕に向く周囲の視線がさらに悪い方向へと転がった。

「ちなみに、この図書館で最も価値が高い蔵書は、世界最高峰の小説の百二十億円だよ」

「おいおいならもっと焦れよ図書館司書!」

「別に百二十億円くらいいいかなって」

 愛らしい仕草で彼女はスケール宇宙大のことを言う。

 僕には到底真似できない領域だぜ。

 いつしか僕も百二十億円くらいなんともないと宣ってみたいものだ。

 しかし、それほど高価なものを保管していると言うのに、防犯機器一つも配備されていないと言うことは、それを遥に凌ぐほどの機能を持った最終兵器を鏡子ちゃんは持っていると考えるのは、名探偵の助手としては自然なことだろう。

「折り紙のお兄ちゃんは知らないとおもうけど、この図書館の図書館司書は特別製なんだよ。何せあの私立迷時大学附属真理学園が支援している図書館だからね! 普通の図書館司書はここにはいないんだよ。だけど、その代わりにと言ってはなんだけどね、この図書館には貸出記録を機械に入力せずとも暗記できるという超ハイテク図書館司書が常駐しているのさ!」

 ぴょんぴょんと跳ねながら踊るように他人事のように語ってみせる鏡子ちゃん。

「折り紙のお兄ちゃんの同級生さんとそこの名探偵の推測はまったく持ってその通りだよ。このカウンターから出入り口までの間に、障壁となるようなものはないからね。カウンターを介さず本を持ち出そうとするやつは丸見えってことで、次の瞬間には身柄を確保して豚箱エンドってわけ!」

 相変わらず鏡子ちゃんは見た目にそぐわず過激的なことを言う。

 それにしても、全てを暗記しているのか鏡子ちゃんは。

 暗記というより管理って感じではあるけど、まあそれが電子機器を用いず人の頭一つでやっているのだから、そう言っても過言ではないのかもしれない。

 ますます、カノンちゃんの通う学校の底が知れなくなった。

 なんでも記憶できるというと、僕の知っている中ではハイパーサイメシアというものがある。それは目にしたものを意識せずとも記憶できるという一種の病気らしい。

 学生からしたら喉から手が出るほど欲しいと思う奇病ではあるが、それはないものねだりの駄々っ子てなわけで、持たざる者は持つものが故の苦悩を理解できないってやつだ。

 完璧に幸福になれる能力なんて実はないのかもしれない。

 それはカノンちゃんにも言えて、僕にも当て嵌まり、果てには真理学園の生徒にも該当するようなことだろう。

 あの犯罪王さえもそれに対する苦悩が故に、世界と相対するようになったのだから。

 ハイパーがあるならスーパーやマスターなんかがあるのではないかと、愚行してしまいたくなるネーミングではあるけど、そんな風にハイパーサイメシアの症状にも幾らかの種類があるのだろうか。

 例えば、一つの図書館に執り行われる蔵書の貸し借りだけを覚えていられると言ったような。

 それはとても荒唐無稽な話だけど、僕自身その病気のことを詳しく知っているわけじゃないのでなんとも言い難い。

 バンとカウンターで音が弾けた。

 反射的に視線を移すと、その音の発生源はカノンちゃんであり、その一コマで彼女はその場の意識を強制的に自分に向けさせることに成功した。

「では改めて問おう。今日この日、事件が起こる寸前までにこの図書館から蔵書を盗み出そうとした者はいたのかい? 図書館司書さん」

 やはりここでも、カノンちゃんが鏡子ちゃんを振り向くことはない。

 またそれを、鏡子ちゃんが気にすることもない。

「いなかったよ。そんな人はいなかった」

 ならばと僕は頭を働かせる。

 これまでにでた話の内容をまとめよう。

 犯人は犯罪王ではない。

 ハイパーサイメシア並の能力によって、この図書館からは絶対に蔵書を盗むことはできない。

 推理は煮詰まった。

 あとは正々堂々と名探偵が真なる果実に手を伸ばすだけだ。

 罪を築くのではなく、取り払うために。

 そして、カノンちゃんは今まで登っていたカウンターの上から飛び降りその内側の床に足の裏を接地した。

 それから突拍子もなく、カウンターの下をゴソゴソと漁ると、革製の表紙に包まれた一冊の蔵書を取り出したのだった。

 そう、世界最高峰の小説は奪われたのではなく、単に隠されていたのだ。皮肉にも本の行方を見守る入口正面のカウンターこの場所に。

 

「世界最高峰の小説は犯罪王によって盗まれたのではない! ただ隠されていたのだ。悪意のある第三者の手によって」

 

 

 

 part 10

 

 その後、私立迷時大学図書館に警察が到着し、僕たちを含め改めて事情聴取をされることになったけど、カノンちゃんの威光と知り合いの刑事がいたということもあって、十分ほどで任意という名の強制力を持つ協力から解放されたのだった。

「まったく、お前さんたちはいつも大変な目に遭ってるな」

 知り合いの刑事こと西午光太郎が訝しみの目を向けながら僕に言う。

「それ僕に言うより沙羅道に言った方が尚いい言葉ですよ西午刑事」

「そうかい。俺からしたら引き寄せる方も引き寄せられる方も変わらないと思うけどね」

「そりゃ一体どう言う意味で」

「もちろん、面倒事を持ち込んでくると言う意味でさ」

 いつも通りなこの刑事の無気力な調子に僕は構わず蔑視する。

「面倒事ではなく事件ですよ刑事。国家公務員なんだからちゃんと仕事しろ」

「はいはい。やってますよ〜っだ」

 この男、本当に大人か?

 その風格がまるで見られないことに僕は何度も驚愕を覚えざるを得ない。

「大人なんて言葉に縛られるなよ少年。それは今回の事件からも学べることだろ」

 彼が言うとそこはかとなく説得力がない気がするが。しかし、その通りだろう。

 僕らはいつだって目に見えない何事かに縛られ続けているのかもしれない。事件と聞いてまず犯罪王を疑ってしまうようではダメというわけだ。

「ダメってわけじゃない。何かを疑うことは大切なことだ。ただ、疑う対象を単数から複数に増やす必要があるってことだよ秋君」

 急に背後から現れたカノンちゃんに肝っ玉がかっ飛ばされそうになる。

 びくりと肩を浮かせて、彼女の登場に僕は苦言を呈することになる。

「普通に声をかけることができないのかこの名探偵は……」

「普通ではない名探偵だから、私の肩書きの頭にはさらに肩書きがあるのだろうに」

 もっともなご意見どうもありがとう。

 そんな僕らの掛け合いを眺めていた西午刑事がくつくつと笑い声を舌の上で転がす。

 笑いのツボから解消されたかと思ったら、西午刑事は辺りをキョロキョロと見渡し始めた。

「あれ、さっき話に上がった引き寄せる方の女子高生はどこに?」

「もう学校に向かったよ。遅刻遅刻って言いながらね」

 僕は数分前のことを思い出しながら言った。

 あれでジャム付きのトーストを加えていたら、新たな出会いを引き寄せていたかもしれない。

「そう言うお前は行かなくていいのか?」

「いやー、西午刑事と違って助手の仕事で忙しいですから」

「自分から突っ込みに行く奴がよく言う」

「正確に言うと僕じゃないくてカノンちゃんの方がですけどね」

「とは言え、まあいいや。盗まれたと思われていた本は無事で事件も解決したことだし、話の通り監視カメラもない警備体制だからな、本を隠したと言う犯人を探すことはもうできない。この国の平穏を裏から密かに守っているこの身としては随分と心痛むが致し方ない。何もできない俺たちはそろそろ帰るとするよ」

 訥々とせず並び立てられた言葉の羅列は、どうにもふわふわとしていて中身がないように聞こえる。

 その宣言通り、西午刑事は他の同僚を連れこの場から去っていったのだった。

「さて、カノンちゃん事件が解決したわけだしこのあとどうする?」

 スマホの時刻を眺めながら尋ねていると、確かに先ほで隣にあった人影は文字通り見る影もなく忽然と姿を消した。

 もう、一体どこへ行ったと言うのだ。

 ことごとく僕はカノンんちゃんに振り回される運命らしい。

 嘆くべき僕の人生にため息を吐きかけたその時だった。

「名探偵殿をお探しであるのかな?」

 と、カウンターの前に集められていたうちの一人の、いかにも老紳士といった装いの男性が僕に声をかけた。

 優しい響きの中にも確固たる威厳が垣間見える。

「はい。そうなんです。あの子、目を離したらすぐにどっか行っちゃうから」

「ほっほ。元気がよろしいのですね」

「まったくほとほと勘弁していただきたい限りですよ」

「そんな名探偵殿は私どもと一緒におられた、目の下に濃いクマができておられる男性の方へと向かっておりましたよ」

「あ、ありがとうございます。あの……重ね重ね申し訳ないのですが、その方向も教えていただいてもいいでしょうか?」

 そんな図々しいお願いを老紳士の男性は嫌な顔一つ見せず、むしろ歓迎とばかりに聞き入れてくれた。

 別れ際に一礼と感謝を伝え僕はカノンちゃんが向かった方へと走り出す。

「次は目を離さないようにしないさいね」

 背後で老紳士が何かを呟いたのが聞こえ、その内容まではわからなかったものの僕は頭だけでもお辞儀を返すことにした。

 その時には老紳士の身体は図書館の入り口の方を向いた。

 僕の礼儀が最後に伝わらなかったは少しだけ残念だった。

 老紳士の言う方へ五分ほど足を進めていると、次第に、図書館が立つ大学の敷地と公道が接する境目の地点に二つのシルエットが虚空より浮かび上がってくる。

 一方はよく知るカノンちゃんの姿で、もう一方は今朝初めて顔を合わせた男の姿だった。

 距離が狭まるほどに、どうやら終盤に差し掛かっているらしい会話の内容が聞こえてくる。

「さすがは唯一兄貴の認めた方だ。一目で私の正体を見抜くとは」

「そう難しいことじゃないだろう。なんたって私は図書館からあの男が出てくる光景を目にしていたのだから」

「そうでしたか。兄貴も運が悪い。それで、わざわざ帰る様子を見せた私を呼び止めてまで、私に何をして欲しいのです?」

「何をして欲しいか、それは最も君がわかっていることなんじゃないのかな?」

「なるほど理解しました。名探偵にそう言われては付き従うほかありません。それで、どこをどのようになさるおつもりです?」

「事件の真犯人を私が言ったままにしてほしい」

「……。それは相手に塩を贈るというのではないでしょうか」

「別に私は構わない。ただ君のところの若旦那がやろうとしていることが、私の仕事に支障が出るというだけさ」

「現在のあなたのネームバリューからして、この学園の後ろ盾は必要ないように思えますが。まあ、いいでしょう。わかりました。触らぬ名探偵に疑いなしということで、今回は私どもが引きましょう。名探偵はこのあとお忙しいと見えますので、私はこの辺りで」

 そう言って姿見目からは想像のつかない口調だった男は、身を翻しトコトコと帰って言った。

 僕がカノンちゃんの元に辿り着いたのはちょうどその頃だ。

「なんの話をしてたんだ?」

「いや、なんでもない。ただ幸助の野郎に釘を打っただけさ。君のやろうとしていることは私の好むところの無駄ではないとね」

 それでも言っていることがわからなかったが、僕はそれを口にすることはなく、次の行動の指示を仰ぐのだった。

「で、どうする? もうお昼に近いけどどこかそこら辺のファミレスでランチとでも洒落込むかい?」

「選択肢がファミレスしかない時点で君の、男としての底と財布の底が窺い知れるのだけど……。しかしそれはもう少し後になるだろう。何せ、事件は解決されても私の推理はまだ最後まで語らえていないのだから……」

 僕はたまらず首を傾げる。

「それっとどういう——」

「ところで」

 彼女の言葉の真意を解き明かそうとした時、ふと彼女は大事なことを思い出したかのように僕の目を見た。

「夏君。私が重要参考人として集めた中にいたご老体がどこに行ったか知ってるかい?」

 その行いの姿は先ほどまでの僕のそれで、その対象は偶然にも彼女の居場所を僕に教えてくれたあの老紳士だった。

 これも何かの偶然かと思いながら僕は別れ際の最後の記憶を辿ってみる。

「あの老紳士なら優しくも僕にカノンちゃんの居場所を教えてくれたあと、図書館の中に戻って行く姿を見たけど……」

「! 秋君、それは本当かい?」

 問いただすカノンちゃんの表情はみるみるうちに焦りの色を帯びていく。

「あの女が危ない」

 そう言って、カノンちゃんは僕の手を掴み、図書館に向かって脱兎の如く駆け出した。

 

 

 part 11

 

 僕がカノンちゃんと合流するために駆け出してしばらくした頃の図書館内。

 鏡子ちゃんはカウンターより内側で、カノンちゃんに集めれていた最後の一人である女性と席を隣にして座っていた。

 会話もない空白の時間が永遠に続くとも思われたが、その均衡は程なくして一人の老紳士により崩れる。

 ウィンと自動ドアが開き、そんな弱々しい機械音の奥から姿を見せた老紳士は、自動ドアをくぐる前より向いていたカウンターの方に歩みを進める。

 初めに声を上げたのは鏡子ちゃんだった。

「キヨちゃんが一人で対応するから、あとは任せて」

 それは隣に座る女性に投げかけられたものであり、当人は若干拒むような姿勢を見せるものの、鏡子ちゃんのがんとした眼差しを受けて何も言い返すことなく、図書館の奥へと姿を隠した。

「どうしたのかなご老人。何かお探しのものでもあったりする?」

 ほぼ初対面に人に対してこんな馴れ馴れしい態度というのは、鏡子ちゃんらしいと言えば鏡子ちゃんらしいのだけど、人を選ぶようなそれの対応に老紳士は一切表情を崩さずに応じる。

「そうですね。探しているものというよりは、今から探す必要ができたものといった方が正しいのかもしれませんが……」

 ゆっくりと二人の距離が詰まっていく。コツコツと靴の踵に立つ音がそれをまざまざと暗示している。

「これはキヨちゃんの勝手な意見ではあるけど、生憎とあなたに渡すようなものはこの図書館にはないかな。それにこんな事件があったからね。今日はこのあたりで閉めようと思うんだ。ご老人には申し訳ないけど片付けの準備があるから、退館して欲しいな——なんて」

「………」

 それでも老紳士の足色と表情に変化の兆しは見られない。

 鏡子ちゃんは長く深いため息を吐く。

 先に崩れたのは鏡子ちゃんの態度の方だった。

「はあ。うちの揉め事に勝手に割り込んで独りでに憤るのはやめてくれないかな。

 犯罪王——

 いや、金切透」

 いつにも増してトゲのある物言いに、老紳士——否、犯罪王は目を目を見開き舌を巻いた。

「いやはや驚きましたよ。まさか、そんなにあの女が大事だったなんてな。お前と言う奴はもう少し冷たいのだとばかり思っていたよ」

 口調が、声が、雰囲気が、その存在を構成するすべての要素が途中から犯罪王の、金切透のそれと入れ替わったかのように変化した。

「さすがは犯罪王。変装もお手のものというわけだね」

「そういうお前こそ、俺ほど完璧な変装ではないけれど、変えているのは容姿ではなく存在の方だけど。豈鏡子……、ね。

 アナグラムで偽名を決めるとは流石は天才小説家、狩野喜代といったところか」

 彼女の眉間がピクッと跳ねる。

「小説家が偽名を使うなんて別に珍しい話じゃないでしょ」

「いや随分珍しいよ。ペンネームが本名で、偽名を本名にするなんてことはな!」

「あんたには関係ない」

 喜代ちゃんは心底呆れたようだった。

 そんな彼女の姿を目の当たりにして、更に犯罪王は言葉を続ける。

「それに何より、意外でもあった」

「何が?」

 だんだんと怒気を孕みつつある彼女の声色に、特段気を配るような様子は犯罪王に見られない。

「他人とつるむことを忌避する傾向にあるお前が、あの男を前にしてその態度を変えたことだよ。もしかしてお前——」

「黙れ! 犯罪王……普段は温厚な喜代ちゃんだけど、それ以上の発言は命の保障がないと思った方がいい」

 犯罪王は頭より上に両手を掲げ言外に、それ以上は追及しないことを伝える。

 それで喜代ちゃんの敵意が霧散したとは到底いえないけど、今にも飛びかかりそうな物々しい雰囲気は彼女の内側へと引いていった。

「だがな小説家。たとえお前の言っていることが正しかったとしても、それは通じない。その正しさは俺にとって無駄でしかない。確かにそれはお前にとっては、うちわの揉め事でこれ以上注意を払うに値しないものであってもな。俺の計画に綻びを作ったことに変わりはないんだ」

 だから報復をする。

 きっちりと採算を合わせバランスを保つ。

「世界は平衡的であるべきだとは思わないか?」

 ともすれば、これまで犯罪王が引き起こしてきた数々の事件の最大の動機と言えなくもないそれを、喜代ちゃんは一息の果てに一刀両断した。

「思わない!」

 揺るがない意志を宿した瞳が、ぎらりと揺れる。

 犯罪王に譲れないものがあるように、自分にも譲れない信条があるのだと言外に彼女は訴える。

「誰かが幸せになったから誰かが不幸にならなくてはいけないなんて法則はあっちゃいけない、それを私は認めない! 不幸も幸福もその全ては自己によって自己責任で完結されるべきでありそれが然だ」

 犯罪王は何の感情も灯さない瞳でそれを受け止める。

「……そうか。やはりそうなるのか。少しでも理解が得られると期待した俺はまったくもって無駄——だよな」

 無駄な茶番だったな。

 犯罪王はそう言うと、

「なれば実力行使に移るのみだ」

「っ!」

 瞬く間に喜代ちゃんに肉薄し、そして踵を後ろへ振り上げたところで動きを止めた。

「彼女に言い残すことはあるか?」

「………ストーカー犯罪王に気をつけろと伝えて欲しいかな?」

 犯罪王の絶対的な自信と不遜なまでの余裕が垣間見える問いに、喜代ちゃんは苦渋に満ちた表情で返す。

 その皮肉に激昂する様子もなく、淡々と流れるように彼女の側頭部に狙いを定めた。

 その時だった。

 ——ウィン。

「やあ……待たせたね。ちっこい小説家!」

 自動ドアの閉じる音を背中に控えながら満を持しての彼女の登場だ。

 図書館が孕む全ての図書が彼女の出番に歓喜をあげ、読者は黄色い拍手を送り、その場に往々にして存在するあらゆる無駄がファンファーレを奏でて張り詰めた空気を振動させる。

 無駄に賢い名探偵——空桃花音ここに見参。

 その横には微力ながら彼女を支える奴隷もとい名探偵助手の僕——夏冬秋春の姿も。

「大丈夫かい鏡子ちゃん! 今から助けにいくか——」

「出番だよ冬君! 運が良ければ打ち身程度で済む」

 は? なんだそりゃ。

 僕の重大にして肝要なただでさえ少ない見せ場を潰すだけでなく、次の瞬間、カノンちゃんは一抹の迷いなく華麗に僕の背中に中段蹴りを叩き込んだ。

 背骨がみしみしと悲鳴をあげ同時に僕の口からも情けない悲鳴が溢れていた。

「ぐぇえ」

 

 

 part12

 

 ふわりと身体が宙に浮き、全身で重力を感じている。のしかかるではなく、地面に引き寄せられるようなその感覚は僕の神経を逆撫でする。

 待て待て待て待て。これは一体どういうシュチュエーションだ? 僕の物語ディクショナリーには味方を蹴り飛ばす光景なんて掲載されていないぞ。予習復習以前の問題だ!

 気がつけば、容赦なく身内を蹴り飛ばす光景にはりつけになった犯罪王の横を過ぎて、僕の体は一気にキヨちゃんの目の前まで迫っていた。

 刹那の間衝撃的なシーンに釘付けになっていたとはいえ、多少速度が落ちたにしても犯罪王が繰り出した三日月蹴りが止まることはない。

 僕は鏡子ちゃんを庇うように抱きかかえながら、甘んじて犯罪王の一撃を脇腹で受ける。

「きょぇぇ」

 これまた奇怪な声を漏らしながら、キヨちゃんを抱えたまま僕の体は数メートル先に飛ばされた。

 着地の瞬間、軽く受け身を取るも惰性によって、僕らはゴロゴロと回転し図書館の端の方へと流れ着いた。

「だ……大丈夫かい鏡子ちゃん」

 腕の中で震える鏡子ちゃんに心配する言葉をかけながらも、僕の心中は一連の理不尽に対し不平不満を並べ立てていた。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 骨が痛い。

 多分、犯罪王の攻撃の盾になれということで僕を蹴飛ばしたんだろうけど……いやその時点で十分に文章が不自然だ。なぜ僕は蹴られる必要があった⁉︎

 何が打ち身程度で済むだよ。骨にまで響いているじゃないか。骨折したら手当金をいただくからな! 「もちろん! そんなものはない」と、イマジナリーカノンちゃんが僕の脳内で言い張った。

 まったく、僕の運命ってやつは本当にまったくのまったくのまったく愚か者だ。

 しかし、鏡子ちゃんから一向に返事が返ってくる様子がなく。気になって僕は胸に抱き寄せた彼女の顔を覗き込んだ。

「う〜〜〜〜」

 すると、どうしたことか、キヨちゃんは目を回していて、頭頂部からは煙のようなものまで尾を引いている。

「どうした? おいキヨちゃん! キヨちゃん‼︎」

 返事はない。ただの屍のようだ。

 って言うとる場合か!

「カノンちゃん、鏡子ちゃんが!」

 そうやって救いを求める視線を相棒の彼女に送るが。

「……チッ、運がいいやつ」

 何やら不穏な言葉が聞こえるばかりだった。

 そこでタイミングよく鏡子ちゃんが息を吹き返す。

「は! あなたはどこあなたはだれ?」

「それを言うなら、ここはどこ私はだれ、でしょうが。僕はここにいるし、僕は君が言うところの折り紙のお兄ちゃんって奴だ」

「ああ〜、折り紙のお兄ちゃんね。うん、し、知ってるよ。あれだよね、一年前に道端で食い倒れていた私に、この先きっと使うことのない折り紙を折る技術を教えてくれた人だよね?」

「ちゃんと記憶を失っているじゃないか!」

 て言うか、道端で食い倒れている人相手に、その僕は何を教えているんだ。宮本宙也氏プロデュース難易度ベリーハードの『死神』の折りかたでも、教えてたんじゃないだろうな?

 全工程464工程もあるあの『死神』を。

「なんて冗談冗談。喜代ちゃんのハイパースーパーマイノリティ演技力に騙された?」

 確かに王道的な記憶喪失の演技ではなかったけど。

「そんなものに騙されているわけないだろ? ただこの先一生僕の知る鏡子ちゃんと馳せなくなるのだと覚悟を決めようとしただけだ」

「うわ〜十分に騙されてるぅ」

 侮蔑の眼差しが僕に降り注ぐ。

 現実から目を逸らすように——否、鏡子ちゃんから目を離して改めて僕はカノンちゃんの方を向き、彼女に指示を仰ぐ。

「カノンちゃん、鏡子ちゃんは犯罪王から遠ざけたぞ!」

「そのようだね……。それじゃあ真の解決編の幕開けとしよう」

 数十分前のこの場所で、語らなかった推理のその全てをカノンちゃんは開示する。

「まず、夏君。君の勘違いの方から正しておくとしよう」

 そう言ってカノンちゃんは顔の前に人差し指を立てる。

 僕の勘違い?

 僕はまだ勘違いをしていることがあるのか?

「その通りさ。まず一つ。この図書館の図書館司書は圧倒的な記憶力を持ち館内のその全てを掌握していると言っても過言ではないはずなのに、そこの図書館司書は事件現場に向かうというただそれだけの簡単なことができなかった。そこに不思議がある。

 ——謎がある。

 いいかい冬君。君が鏡子ちゃんと呼び偶像崇拝するそこの彼女こそが、天才小説家狩野喜代本人だ」

「……え」

 反射的に鏡子ちゃんを向く。彼女は気まずそうに重なった視線を逸らした。

「マジで?」

「……うん」

 随分と縮こまった相槌が、僕の記憶の底にある彼女とのやり取りの記憶を思い出させる。

 と言うことは、あの時言ったことも、あの時つぶやいたことも全部作者本人に聞かれていたってこと?

「……うん。聞いてた」

「じゃあ、半年前に出版された本の内容が僕が予想した通りだったのは……」

「そうしたら折り紙のお兄ちゃんが喜ぶと思って……」

「じゃあじゃあ、僕が一度狩野喜代の作品を悪評したあの後、図書館に顔を見せても喜代ちゃんの姿がなかったのは……」

「あまりの酷評に消沈してたの……」

「じゃあじゃあじゃあじゃあ、僕が推していたあの巨乳名探偵キャラのヒロインが殺されたのは……」

「それは初めから殺す予定だった。気に食わなかったし」

「あ……そう」

 なんて言うことだ。僕は知らず知らされぬうちに狩野喜代の作品の一要素となっていたのか。光栄な気もするが、ちょっと複雑だ。

 そして何より、狩野喜代先生に対する熱い思いを愚かしくも本人の前で語っていただなんて恥ずかしくて千回は死ねる。

「まあ、喜代ちゃんは気にしてないから、お、折り紙のお兄ちゃんも、き、気にしなくていいよ」

 反応が気にしている反応‼︎

 しばらくはこの羞恥との戦いの日々に明け暮れることになりそうだ。

「それにね。冬君。君はもう一つこの事件に関して重大な勘違いをしている」

 若干の呆れを(自分に)抱きながら僕は訊き返す。

「一体なんだって言うんだそれは」

「まあ、安心して聞いてよ。これは別に君自身が勝手に勘違いをしていると言うより、私の手によって口によって勘違いさせられていただけのことなのだから……気を落ち込まないで聞いてくれ」

 僕は何も言わずただカノンちゃんを見つめ返す。

 その沈黙を肯定と捉え、彼女の口が再び開かれた。

 

 

 part13

 

 先ほど私は犯人は特定できないと言ったが、実のところ私はすでに犯人の特定を済ませていたのだよ。

 じゃあなんでそれを言わなかったんだって顔をしているね。

 言わなかったのではなく、言えなかったのさ。

 それは私と君の隣にいるそこの女が遥昔に交わした不可侵約束の事項に含まれているものだったからね。

 狩野喜代の秘密を公衆の面前で吐露するわけにはいかなかったんだ。

 ん? なになに?

 いや、それは違うよ秋君。

 犯人は彼女ではない別の誰かだ。

 そして、あの時、私が集めた人の中に真犯人はいる。

 ここまで言えば、君の目にしてきた情報を組み合わせても犯人を特定することは容易いだろう。

 そう。その通り。

 犯人は自らを狩野喜代と自称したあの女の人だ。

 自分を狩野喜代と名乗るよう仕向けたのはそこの小説家だけどね。

 彼女の本名は極牟長良と言う。彼女こそが私立迷時大学附属真理学園に席を置く、世界最高の図書館司書だ。

 君の言う通り、司書としての仕事に対しハイパーサイメシア的な能力を発揮することが彼女にはできる。

 そして彼女は、春君同様、狩野喜代という天才小説家の偶像を崇拝する信者の一人であり、それは君に比べ数段強力にして苛烈にして狂信的なものだった。

 彼女が犯行に至った主な原因はそこにある。

 彼女は狩野喜代が綴った作品が、これまで生み出されてきたどの作品よりも優れていると信じていた。

 そして、信じすぎるがあまり、また、狩野喜代という小説家を愛するあまり、それを世界共通の認識として広げたくなった。

 なぜそう思ったのか。

 犯罪王、君なら心当たりがあるんじゃないかな?

 ほんと、あの時はよくもやってくれたね。おかげで私の名探偵としての株は大暴落まったなしだったよ。

 無駄を踏んだのが災いした……ね。何度君に無駄が無駄であると言われても、私は無駄を真の意味で無駄に思うことは永遠にないよ。

 あの時に私が踏んだ無駄は決して無駄ではなかった。私はそう確信するよ。

 まあ、何にしても、君があの日起こしたあの事件は、世界中の至る所に多大な影響を与えたんだよ。

 そしてそれはこの小さな図書館に勤務する一人の少女のもとにも訪れた。

 彼女は世界の認識を塗り替えたチントン事件を辿れば、狩野喜代の小説を正真正銘世界随一の小説へと昇華できると踏んだ。

 準備に準備を重ね、いざ実行するとなった日の前日。

 ことは起こった。

 あろうことか、これから自分が引き起こそうとしていることを暗示しているかのような声明が犯罪王から世界へ発信されたのだった。

 彼女は迷った。

 このまま実行に移すべきか否か。迷いに迷ったことだろう。眼鏡の奥の瞳が充血していたのは、昨晩質のいい睡眠が取れなかったからだ。

 本当にそうだったのかって? いやいや、冬君、君はそれでも名探偵助手なのかな。その節穴っぷりは見過ごせないね。後でお仕置きだ。

 だが結局、彼女は計画を実行することに決めた。

 人がとある出来事を潜在的に覚えていられるのはそこまで長くない。

 時が経ち、世界中の人々がチントン事件を過去の遺産として見るようになるのを恐れていたというのもあるだろうけど、実際は、犯罪王の威風を利用した方がことを上手く運ぶと思ったんだろうね。

 虎の威をかる狐とはいうけれど、この場合は、犯罪王の威をかる図書館司書というべきだろう。

 そうして、彼女は、極牟長良は世界中を巻き込む犯罪王扇風に乗ることにした。

 それが裏目に出るとはつゆほども思っていなかったことだろう。

 通常通りに図書館を開錠した後、彼女は脳内で管理している、図書館利用者の貸し出しリストに再びを意識を通わせた。そして、今日この日その朝、返却期限に追われてあの少女がやって来ると予想していた彼女は、推測通りの彼女の来訪をカウンターで出迎えた

 彼女は計画の進行を順調に感じながら、あそこの本棚から世界最高峰の小説を取り出し懐に隠した。そして、その本棚近辺の本を借りていた、なおかつ、その周辺の本棚の貸し出し状況に詳しいあの少女に発見されるのを待った。

 きっと、それがあの少女でなければ彼女の計画は失敗で終幕することになっただろう。しかし、あの少女の事件を引き寄せる能力は、発生することのなかったその事件を引き寄せる結果となった。

 ここで、計画していた計画が全て思い通りに進んでいるかと思われたが、しかして、実態はそうではなかった。

 彼女は狩野喜代を過大評価するあまり、相対的に犯罪王のことを過小評価していた。彼が世界に与える影響力を小さく見積もっていた。

 本来なら、犯罪王の手によって盗まれ空きが開いた『世界一の小説』という穴を、狩野喜代の小説で埋めることで両者をすげ替えようとしていた。

 しかし、世界に巻き起こったのはそれと全く関係のない現象だった。

 この世界で一番と称せられる小説が犯罪王の手によって盗まれたということにより、世界中の人間は小説という存在そのものが、犯罪王によって盗まれるほどの無駄なもの出ると自動的に解釈し、無駄を無駄であると認識することが難しいように、世界中の人々は小説を小説として認識することができなくなった。

 そうして世界から小説が一時的に失われたのだった。

 己が信仰し崇拝する狩野喜代の作品を神格にも似た存在に昇華させようとしていたのが、その存在を消滅させるという結果になり、彼女は大いに後悔したことだろう。

 そしてそのことを、ついうっかり、そこの小説家の前で漏らしてしまった。

 それを聞いた狩野喜代本人は、その事実を隠蔽することにした。全ての責任を犯罪王とか空の真犯人に押し付けて。

 ほら思い出しても見てよ、夏君、

 彼女が自分を図書館司書と偽って君に話しかけていたことの内容の全貌をさ。

 そう彼女は君に、犯人が犯罪王であると思い込ませるような発言を多々している。そして君はまんまと騙されたのさ。

 彼女の図書館司書という演技に。

 

 

 part14

 

 カノンちゃんの推理のその全てを聴き終えて僕は抱えきれないため息を吐く。

 全く僕ってやつは本当に愚かだな。

 カノンちゃんは僕が騙されたことを、喜代ちゃんが悪いようにいうけれど、実際はそうではない。騙される僕の方が圧倒的に悪い。

 だから僕はこれ以上このことに関して何も思わないし、喜代ちゃんに対して悪印象を抱くなんてことは決してしない。

 不安に瞳を揺らす喜代ちゃんに僕は笑いかける、

 それが今のところの僕の答えだ。

「これにて私の推理劇は閉幕とする」

 

 

 part15

 

 その後、カノンちゃんの計らいによって犯罪王が極牟長良さんに報復することはなくなり、僕は翌日の今日も今日とてこうして足繁く、僕のアイドルがおわす私立迷時大学図書館に通っている。

 その日、著者名が狩野喜代と刻まれた本を探し僕は図書館内をうろうろと徘徊していた。

 その途中で見慣れた後ろ姿を僕は発見するに至るのであった。

「よっ、沙羅道」

 そうボリュームを落として呼びかけると、彼女はゆっくりと振り返った。

「わっ昨日ぶりね、秋春くん」

 相も変わらぬ彼女の微笑みに僕は微笑み返し、相も変わらず難しい本を片手に携える彼女に苦笑を返した。

 僕は昨日のうちに学校に行ってその後の話を沙羅道に言って聞かせた。

 知らぬうちに事件の加害者にされていたことを伝えておきたかったのだ。それを聞いて幾分か気を落とすのではないかと思われたが、知らないよりは知っている方がマシだろうとそう僕は自分に言い訳した。

 だがそれも結局は取り越し苦労というものだったらしい。

 放課後の教室で沙羅道から返ってきた反応はひどく落ち着いたもので、取り乱す様子は一切なくむしろ僕がそれに取り乱したくらいだ。

 僕の話を聞いて彼女はなんと言っていたか……僕は夕焼けに焦がされる空き教室での一コマを思い出す。

『うん。なんとなく犯人はあのメガネの人なんじゃないかなって私は思ってたんだ。根拠? 根拠か……そう聞かれるとそれらしいそれは見当たらないのだけど。強いていうなら経験者は語るってやつかな』

『知らぬうちに自分が加害者になってたんだぞ、もっと怒ったり落ち込んだりしてもいいんじゃないのか?』

『怒る? 落ち込む? そんなのないない。むしろ喜ばしいことじゃない!』

『……?』

『だってそうでしょ。もっと最悪な事件に利用されるより先に、それでそうなる可能性を示してくれたのだから。あとは同じことが起こらないよう私が気をつければいいだけ。感謝こそすれ憎みなんかできないよ。それもまあ結局は自己責任の領域だしさ』

 どんなに理不尽と思えることでもそれを受け止め、周囲よりもまず先に自分を変えようとする彼女の姿に僕は感銘を受けざるを得なかった。あともう少し僕に勇気があればこう伝えていたことだろう。

「沙羅道と知り合えて僕は幸運だった」

 と。

 沙羅道は難解な物理の問題集を、僕は狩野喜代先生の処女作を手に図書館の長机に腰をかける。

 ペラペラと沙羅道は問題集を僕は小説のページを捲っていく。ふたとも同じテンポでペラペラと。

 いやいや、物理の問題集ってそんなペラペラめくるようなものなのか?

 その状態を僕は目を皿にしながら盗み見る。

 沙羅道の横顔を眺めていると、問題集に目を落としたまま、ふと彼女が「ねぇ」と囁いた。

「秋春くんは実際のところ、極牟さんの犯行動機が偶像崇拝していたからだけだと思うの?」

 興味とは到底かけ離れたもの、そうすることがさも当然かのようにポツポツと口に出して尋ねた。

「いや、まあカノンちゃんが言っていたことだし、それに関しては僕自身未だ納得していないところがあるのだけど……」

「……安心した」

 沙羅道は僕の様子を一瞥すると、安堵に口許を歪ませた、

 そんな彼女の不可解な行動を訝しんでいると、疑心暗鬼の僕を傍目に捉えながら、彼女はその理由を語った。

「何が?」

「ん? 動機に対して納得していないことをだよ。だってさ、彼女、極牟さんって確か図書館司書の側、狩野喜代先生の担当編集さんでもあるでしょ?」

「何それ! 初耳だぞ僕!」

「そうなの? てっきり名探偵さんから教えてもらっているのだとばかり」

「それってどういう?」

「私自身、その話を聞いたのが名探偵さんの口からだったから」

 おい、あの名探偵、一番伝えるべき人間に情報を開示しないのはどういうことだ!

 何が無駄を愛し無駄に愛される、だ。そんな無駄は必要ないんだよ!

「昨日、秋春くん私にその子が犯人だって伝えに来てくれたでしょ? あの時、私はなんとなくそう思っていたって答えて、その理由も曖昧にしていたけど、実のところ、君に対する彼女の態度がどこか不倶戴天を孕んでいるような気がして」

 不倶戴天⁉︎ よくそんな難しい言葉を知っているな。

 感心感心。カノンちゃんを半ば不倶戴天に思っていたことなんてどうでもよくなるほどだ。

 思わず沙羅道のボキャブラリーに舌を巻いているその横で、沙羅道はポツリと確信めいて呟いた。

「……嫉妬していたんじゃないかな」

 沙羅道のその言葉がすっと耳に馴染む。

 嫉妬……。

 妬みに嫉み。

 不倶戴天とはまた別の悪感情だ。

 今の僕の心境と似たり寄ったりかもしれない。

「秋春くんは知らないと思うけど……。あなたがこの街に訪れるより前、天才小説家の彼女は今よりもっと物静かで滅多に他人と話している所なんて見たことがなかった。極牟さんくらいなものだったよ、彼女が話していたとしても……」

 それは僕には想像もつかない喜代ちゃんだ。

 僕の中の喜代ちゃんと言ったら、それはもう元気はつらつで、少しおっちょこちょいの、人を揶揄うのが好きで、楽しい遊びには目がない——普通の、女の子だ。

 儚さなんてもちろんない。繊細さなんてかけらもない。

 楽しいことには笑顔を見せるし、悲しいことには涙を流す。そんな普通の子だ。

「まるで、互いが互いに依存しているようなそんな不完全で曖昧な関係のように、当時の私には見えていたな」

「今はどうだ?」

「ん〜。私自身日々変化してるから、なんとも形容し難くはあるけど、小説家ちゃんの方は寄り添える大切なものが増えたって感じかな。対して極牟さんはそれを失ったように錯覚している感じ」

 寄り添えるものが増えた。それは同時に支えが一本から二本になることを意味する。だから、一つで支えていたその分相手の重みが分散され、そうして相対的に、自分との繋がりが薄いものになってしまったと感じた。

 つまり、沙羅道は言外に、僕が喜代ちゃんと出会ってしまったことが、今回の事件の一根幹をなす極牟長良の嫉妬心を増長させたと言いたいのだ。

 ならば、

「僕ときょ……喜代ちゃんとの物語は無駄だったのかな……?」

 以前、犯罪王がネットで呟いていたことを想起する。

 物語は無駄である。

 その一言が娯楽小説なんかを指しているばかり僕は思っていたけれど、案外その真意は相違を成していたのかもしれない。

 彼自身、自分とカノンちゃんが紡ぎ紡いでいく物語に疑いを持っていたのかもしれない。

 ともすれば、今の僕と同じように、一人の少女とと出会ったあの日のことを後悔しかけているのかやもしれなかった。

「逆に訊くけど、本当に、秋春くんは小説家ちゃんと出会わない方がいいと思うの?」

「そんなこと……」

 あるわけがない。

 彼女との出会いは少なくとも僕の人生に希望の光を与えた。

 何もかもを忘れ、自分が何者かさえも知らなかったあの頃の僕の生きる支えだった彼女との出会いを、僕は無駄と断定することはできない。そんな立場にはない・

 喜代ちゃんはカノンちゃんに次いで僕を救ってくれた人なのだ。

 そんなこと冗談でも言えるはずがなかった。

「それなら、物語が無駄とかそんなこと口にしちゃダメでしょ? それが君にとって大切な物語だったなら、そうすることは悪手とも言える」

「……その通りだよ沙羅道。どうしていたよ僕……きっとまだ昨日の混乱が残ってるのかもしれないな」

「名探偵助手のくせに情けな〜い」

 嗜虐心が横からこんにちはしている瞳で、沙羅道は僕を罵倒する。

 お前ってやつはそんなキャラじゃないだろ!

 僕を詰って楽しむのはカノンちゃんだけで十分だ!

 手一杯だ!

 そうこうしていると、ピロロロンと軽快なメロディーを奏で携帯が僕にメールを受信したことを伝える。

 右ポケットから取り出し画面を点灯させる。

「……やれやれ」

 噂をすればなんとやら、だ。

「名探偵さんから?」

 たちまち、察しの良い沙羅道が画面を見ずとも、メールの差出人を言い当てた。

「ああ、何やらまた面倒ごとに首を突っ込むらしい」

 メールの内容を口にしながら自身の境遇に対する嘆きを軽口に混える。

「それは私とは無関係だからね?」

「……さてどうかな」

 僕は席を立ち、本を片手に抱えながら沙羅道を一瞥する。

「この街で起こる事件の八割はお前に関連しているからなぁ」

 一度、僕は沙羅道飛鳥がなぜこんなにも事件を引き寄せるかについて考えたことがあった。

 僕は前に彼女を絶対的に正しい少女と紹介したことがあったけど、それがその原因なんじゃないかと僕自身推理していた。

「沙羅道は道端で困っていそうな人を見かけたらどうする?」

「私なら迷わず声をかけるかな。May I help you って」

「お前は正しいやつだよ」

 その正しさは他人にとっての優しさであり、それは彼女の魅力とも置き換えることができるだろう。その魅力が人を引き寄せるがゆえに、事件さえも引き寄せる。

 この街で沙羅道飛鳥という女子高生の存在をしらないものはいないのではないだろうか。そうなれば、この街の九割ほどの人間が彼女と知り合いであるのだと言える。

 成績優秀、眉目秀麗、礼儀正しく、自分に正しく、他人に正しい。

 しかし、沙羅道はそんな自分は過大評価だと、それを否定する。

「私は正しくなんてないよ。ただ、正しくあろうとしているだけ」

「そうか……」

 そう僕は曖昧に返事して沙羅道に背を向けた。

 その心がけこそが何よりも正義に満ち満ちている。きっとそれを指摘すれば彼女はさらに自分を否定しかねない。

 沙羅道飛鳥が己が正義を否定し、また己が正義を追い求める、その矛盾はいつになったら解消されるのだろう。

 きっとそれはまた、別の物語で語れるのだとそう僕は思う。

「それじゃ」

 最後に小さく別れを告げて、僕は玄関正面に構えるカウンターに向かった。

 一歩一歩近づくごとにカウンターの向こう側に座る影がより鮮明に瞳に映る。

 そうして、僕はカウンターを挟んで一人の少女と相対した。

「この本を借りたいんですが……」

 そう言って僕は一冊の本を彼女に差し出しす。

 少女は僕の手から両手で受け取ると、その表紙を見て微笑した。

「私、この本が好きなんです」

 鼻筋を跨ぐブリッジの部分を押し上げて、眼鏡の少女は僕に告白した。

 もちろんそれは知っている。

 同志と同志は、スタンド使いでなくとも惹かれ合う。

 でもここは一つ嘘をつくことにしよう。

「そうなんだ……奇遇だね、僕もその本が好きなんだよ。何度も幾度となくその本に人生を支えられた」

 ここから始まる物語はあくまで僕と彼女だけのものだ。そこに一人の天才小説家の仲立ちは必要ない。

「私もです!」

 強い同意と共に本が僕の手元に戻ってくる。

 受け取るついでに僕は訊いてみることにした。

「あの……僕は冬夏秋春。君の名前を聞いても良いかな?」

「ええ、喜んで」

 すると、眼鏡の少女は快く承諾してくれた。

 

「私は極牟長良。私立迷時大学附属真理学園の一年生です。私の親友は天才小説家なんかをしてたりするんですよ?」

 

 

 無駄に賢い名探偵【無駄な物語の無駄】—————————Fin.

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無駄に賢い名探偵 @Yamane-ko55

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