第6話 あれ
飛龍との生活もこなれてきた。二人が初めて出会ってから早くも1ヶ月が経とうとしていた。
問答無用のルームシェアを始めるにあたり、せせらぎはいくつかルールを作ることにした。その1つが、せせらぎと一緒のときはご飯を食べること、である。いくら食べる必要がないとはいえ、食事時に自分だけ食べているのは気が引けるのだ。飛龍はしぶしぶ了承した。
料理はせせらぎの担当だが、それ以外の家事は二人で分担している。飛龍は案外なんでも器用にこなす質で、だいたいのことは一度教えれば覚えた。ナサチ様の転生はいろいろな時代に及んでおり、飛龍にとって、新しい時代や環境に順応することはどうやらお手の物らしい。
飛龍は現代のこともおおよそ把握していた。あの夜、京都で情報を仕入れてきたからだ。飛龍の話によると、京都にはナサチ様と飛龍を始め、その他の神々と眷属の伝承を人知れず管理している組織があるらしい。神々の力を分け与えられた人間の子孫が、今もなおその秘密組織を運営しているというから驚きだ。しかし、戸籍もないはずの飛龍が、突然、夏成高校の制服を纏い、せせらぎと同じクラスに編入してきたこともその組織のおかげだと言われれば、もう何も言えないのである。
飛龍の使命は、徹頭徹尾、せせらぎを危険から守ることにある。なので、せせらぎの叫び声が聞こえれば、飛龍は文字通り飛んでくる。
「今度は何ですか…」
台所で固まるせせらぎの背中に飛龍の冷めた声が浴びせられる。せせらぎは涙目で振り返った。
「飛龍は私を守るためにここにいるのよね」
「そうですよ」
人の姿に戻った飛龍は腕を組んで柱に寄りかかっていた。眉間に皺こそ寄っていないが、あからさまに面倒そうだ。
「危険を予知できるって言ってたよね」
「せせらぎ様との距離や危険度によって時間差はありますが」
具体的に何が起こるかは分からないものの、飛龍は危険の予兆を感じとることができるらしい。それは数秒前のときもあれば、数時間前のこともあるようだ。せせらぎは台所の天井を指差した。
「じゃあ何であれが分からないのよー!!」
天井に貼り付き、ピコピコと長い触角を揺らすあれ。1匹見つけたが最後、その家に100匹はいると思えと先祖代々口伝されてきた黒光りのあれ。我が家は今世紀最大の危機に見舞われている。
飛龍は無表情で天井のあれを見ていた。
「あぁ、ゴキ―」
「言わないでー! 名前も聞きたくない!!」
せせらぎはもう半泣きである。飛龍のため息が台所に響いた。
「せせらぎ様、クモやゴキブリは基本的には人に危害を加えません。これは危険の内に入りません」
「わ、わ、分かったから。早く外に出してもらえませんか! あーっ! うご、動いたっ!!」
鳴りを潜めていたあれがせせらぎの頭上を動き出す。聞こえるはずのないカサコソ音さえ聞こえてきた。たしか、殺虫スプレーが洗面台の棚にあったはず。自分があれを見張っているから、飛龍はスプレーを取ってきて。そう頼もう。そう思った瞬間、突然室温がぐっと下がり、せせらぎはゾクッと震え上がった。
背筋を這うのは、自分の力では到底太刀打ち出来ないような絶大な脅威。心臓に冷たい鉛玉が捻じりこまれていくような絶望。刃先を喉元に突きつけられているような死への接近。つまりは恐怖。
それらは全て天井を見つめる飛龍から発されたものだ。胸が潰されそうな圧迫感に、せせらぎは一瞬呼吸の仕方を忘れた。飛龍は人であり獣であるという。獣と言っても龍は神獣の類だろう。彼にかかれば全ての命はあまりにも儚い。
飛龍の長い睫毛がゆっくりと上下した。その瞬間、世界はようやく元に戻った。安堵の息を漏らすせせらぎに、飛龍はいつもどおりの淡々とした無表情を向けた。
「とりあえず気絶させました。今のうちに外に出しておきます」
飛龍の視線の先、せせらぎの足元には腹側を見せたあれが転がっている。小湊家に今世紀最大の悲鳴がこだました。
◇
せせらぎを危険から守る。そうは言っても、この平和な日本において、危険と呼べるような危険はそうない。現に16歳まで、せせらぎ自身は大病を患うことも、事故に合うことも、事件に巻き込まれることもなく、平々凡々に過ごしてこられた。
だからといって、これからもそういう日々が当たり前に続いていく、なんて暢気な考えは持ち合わせていない。平凡な日常がいかに有り難いものか、せせらぎはよく知っている。
「何者かがこちらを見ています」
学校からのいつもの帰り道。飛龍が前を向いたまま、ぽつりとそう言った。せせらぎはカバンを背負い直し、周りを見渡す。少なくともせせらぎには誰も見えない。軽くスキップしてみる。
「飛龍のファンじゃない? 今日も3年生に呼び出されてたし」
飛龍は、はちゃめちゃにモテる。整った顔に、年の割に落ち着いた雰囲気。たまに出る変な言葉遣いも古風だわぁ、なんてよく意味の分からないポジティブ要素になっている。
ちなみに、男からもモテている。体育の授業で見せる抜群の運動神経は、ひっきりなしに部活のスカウトを呼び寄せていた。
しかし、飛龍はどれもこれも断っている。
彼の最優先事項は何はなくともせせらぎの安全。せせらぎは、「せっかくの高校生活、飛龍ももっと楽しめば良いのに」となんだか寂しく思っている。
ちらりと見上げると、飛龍はやっぱり無表情を貫いていた。
「せせらぎ様」
「何?」
返事をすると、飛龍がこちらに顔を向けた。西陽が眩しかったのか、少し目を細める。たまに、こういう人間らしいところも垣間見せる。そういうのは嫌いじゃない。
「現代に、忍者はいないんですよね」
「は?」
飛龍は真面目な顔で話を続けた。
「さっきの視線、俺が気づくとすぐに気配を消しました。かなりの腕前だ。忍者としか思えない。しかし、この時代に忍者はいないと、京都で聞いていたのだが」
「…よく分かんないけど、もしかしたらいるんじゃない?」
以前、忍者として働く人をテレビで見た気がする。
飛龍が言っているのは、おそらくそう言うことでは無いのだろうが、なんだか真面目に取り合うのも面倒くさかった。
ふと見た生け垣にシャクナゲが咲いていた。西陽を浴びた満開のそれは、どこか後ろ暗さを感じさせる。季節はもう初夏に向かっている。
桜の季節〜とある主と眷属の物語〜 イツミキトテカ @itsumiki
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