第4話 始業式
あれは夢だったのだろうか。夜空に舞う無色の龍。龍が消えて男が現れ、男が消えて再び龍が現れた。そして、その龍もまたどこかへ消えてしまった。
一晩経つと記憶も朧気になる。床の間に飾ったままの掛け軸も、最初から白紙だったのかもしれない。掛け軸の龍が飛び出てきて、その龍は男に変身して、そして再び龍となり月夜に飛んでった……そんな話よりも、元から白紙だった説の方がよっぽどあり得る。
「ため息なんてついて何かあった?」
心配そうに声を掛けてきたのは山吹葵。中学からの親友で、運良く今年も同じクラスになれた。どうやらHRが始まる前に雑談しにやってきたようだ。せせらぎは頬杖をついて瞳を潤ませた。
「あおちゃん…私頭がおかしくなっちゃったかも」
「えぇっ!? ど、どうしたの?」
眼鏡の奥で葵のくっきりとした二重眼が動揺している。葵はこういう子なのだ。人が傷つく可能性のある冗談は冗談と受け取れない。話してみれば普通に冗談も言うし、よく笑いもするのだが、人を傷つけることを好まない性格と分厚すぎる眼鏡のせいで、周りからは暗くて地味だと思われがちだった。
(「昨日のこと話したら、まじで心配されちゃうな」)
葵のことだから、自分のことのように、いや、自分のこと以上に心配するだろう。もしかしたら夜眠れなくなってしまうかもしれない。そういう子だ。せせらぎは苦笑しつつペロッと舌を出した。
「今日、午前終わりなのすっかり忘れてお弁当持ってきちゃった」
お弁当を間違えて持ってきたのは本当だ。昨夜のことが頭を離れず、ぼーっとしていたら、手が無意識に弁当を詰めていた。葵は見るからにホッと胸を撫で下ろした。
「なんだぁ、そんなこと。じゃあ、お昼食べて帰ろう。私も購買で買ってくる。目にクマが出来てるからもっと深刻なことかと思ったよ」
「え、私、目にクマ出来てる!?」
「あっ、いや、全然、大したことない…よ…」
手鏡を取り出すせせらぎに、葵がフォローを入れる。しかし、葵の慌てようで手鏡を見る必要もないことを悟った。
「こりゃたしかに、ひどいクマだ…」
「あはは…だから、何か悩みでもあって、昨日眠れなかったのかなと思って…。あぁ、でも、お弁当持ってきちゃったのも、やっぱり悩み事があってぼーっとしてたから、とか…?」
葵の表情が一気に曇る。晴れやかな新年度から親友に暗い顔させて我ながら情けない。せせらぎはぽりぽり頭を掻いてへらっと笑った。
「てへへ、実は、春休み中夜ふかししてて。規則正しい生活にまだ馴染みがありません」
「あー、それ分かる。つい、夜ふかししちゃうよね」
葵がホッとしたように微笑む。ちょうど、始業のチャイムが鳴り、せせらぎもホッとした。席に戻っていく葵の後ろ姿を見送り、再び手鏡に視線を戻す。ひどすぎるクマだ。昨夜はベッドに入ったもののほとんど眠れなかった。気がついたら朝で、気がついたら学校までやってきていた。頭の中はずっと飛龍のことでいっぱいだ。
急に現れ、急に消えた男。勝手に話を進めて傲岸不遜で、思い返せば思い返すほどに、段々と腹が立ってくる。せせらぎはクマを覆い隠すように両手で抑え、目を瞑り、熱を帯びた瞼を冷やした。
せせらぎ属する2年4組の担任は、数学の中林先生―通称バヤシ―だ。クラス表とともに掲示板に貼り出されていたので、バヤシが教室に入ってきた時に、特に大きな驚きはなかった。1年の時に数学を教わっていたので知らないわけでもない。40代で、体育教師みたいな見た目の数学教師である。
副担任は音楽の斎藤先生。今年から、この
そういうわけで、斎藤先生が、バヤシに続き教室に入ってくると、主に野太い声で歓声が沸き起こった。せせらぎも手の隙間から覗き見る。バヤシの挨拶の後に、ちょうどお辞儀をしているところだった。
「初めまして。今日から皆さんの副担任を務めます斎藤
そう言って、小首を傾げる姿は女のせせらぎでもぐっと来るものがあった。隣の席の山田は明らかに鼻の下を伸ばしている。腰まである栗色の髪はサラツヤで、揺れる度にいい匂いを解き放っている…気がする。せせらぎの席は後方なので、ここまで届くことはないはずなのだが。
(「なんでまたこんな田舎に、こんな美人が」)
生まれてこの方田舎暮らしの知った風な年寄りみたいなことを思いながら、せせらぎは再び瞳を閉じた。今になって強烈な眠気が襲ってくる。そりゃそうだ。昨夜は全然寝られていないのだから。どうせ、今日はオリエンテーションみたいなもので、授業もないし、午前中で終わり。クラスのメンバーもほとんど知っている顔ばかり。
思わず欠伸も出てしまう。何度目かの欠伸を噛み殺していると、バヤシの暑苦しい声が聞こえてきた。
「よし、じゃあ、入ってくれ」
廊下に向かって声を掛けている。どうやら、転校生がいるらしい。なんと言ったって今日は始業式。タイミングとしては何もおかしくない。
せせらぎが重たい瞼を開けるのと、今度は女子の息を呑む声が教室に響いたのが同時だった。
「小湊飛龍だ。よろしく頼む」
それは紛れもなくあの飛龍だった。狩衣ではなくブレザーの制服を着てはいるが、飄々として淡々とした憎たらしいほどに整った顔。見間違えるはずがない。
「はあっ?!」
思わず立ち上がるせせらぎに、バヤシが暑苦しい笑顔を向けてくる。
「おっ、小湊同士仲良くな! じゃ、小湊は小湊の後ろの席へ…ってこれじゃどっちの小湊か分からんな」
あっはっはっと笑っているのはバヤシだけである。飛龍は涼しい顔をして、せせらぎの横を通り過ぎていった。せせらぎの眠気は吹き飛び、数学が少し嫌いになった。
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