第3話 そうだ京都、行こう

 それからの飛龍は、宣言通り、せせらぎのそばを片時も離れなかった。


 ♢


「そんなに近づかれたら危ないんだけど」

「危険はありません。俺がいる」

「私、包丁持ってるから! 危ないから!」


 せせらぎは万能包丁の切っ先を飛龍に向けた。この前、研ぎに出したばかりで、切れ味はバツグン。目の前のまな板には、捌かれ待ちの特売コダイが大人しく横たわっている。せせらぎは飛龍を下から睨みつけた。


「それと、勝手にコンロ消さないでくれる?」

「こんろ…? あぁ、これか。押すだけで火が熾こる危険物。火事になったら大変だ」

「ならないから! 永遠にダシがとれないから!」


 昆布の沈んだ片手鍋。せせらぎが火をつければ、飛龍がいつの間にか消している。さっきから、ずっとその繰り返し。おかげで、いつまで経っても夕飯が出来上がらない。苦情を言っても、暖簾に腕押し。この男、全く聞く耳を持とうとしない。


「もうっ!」


 せせらぎは、勢いよくコダイの頭を切り落とした。


 ◇


「ねぇ、いつまでうちにいるつもり?」

「せせらぎ様が天寿を全うするまで」


 飛龍の答えに、せせらぎは炊きたてほかほかの白米を吹き出しかけた。ようやくありつけた夕飯の食卓で、せせらぎの箸を持つ手が思わず震えた。


「本気で言ってる?」


 人生100年時代と言われる昨今。16歳のせせらぎならば、あと80年近くある。もちろん、何事も無ければの話であるが。


 テーブルの向かいには、怪訝そうな顔をした飛龍がいた。


「冗談を言ってどうする」


 普通は、本気でも冗談でも、初対面の人間にそんなこと言わないんだわ、と内心ツッコミつつ、せせらぎは鯛の塩焼きに手を付ける。皮はパリパリ、身はふっくら。安かったコダイにしては上出来上出来。自画自賛が許されるほどに、それはそれは美味しかった。


 そうして舌鼓を打っていると、何やら鋭い視線を感じた。顔を上げると飛龍がじっとこちらを見ているではないか。せせらぎは、やれやれと肩をすくめてみせた。


「飛龍も食べたら? 食べられないわけじゃないんでしょ」


 テーブルには飛龍の分も用意してある。料理中にべったりくっつかれていたものだから、夕飯時まで家にいるのかと思って、ちゃんと二人分作っていたのだ。食べる必要はないだけで、物理的に食べられないわけじゃない。どうやらそういう設定らしい。


 しかし、飛龍はやっぱり無表情だった。


「さっきも言いましたが、何も食べる必要はありません」


 じゃあ、その熱い視線は何なのだ。箸先からせせらぎの口元を追いかけるようについてくる視線に問いたい。せせらぎは味噌汁を啜りながら、飛龍を睨めつけた。


「物欲しそうに見られてると食べづらいんだけど」


 そう反論すると、飛龍は一瞬きょとんとしたが、すぐにやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。


「別に、腹など減っていません。せせらぎ様が骨を喉に詰まらせないか見張っているだけだ」

「ママか! もしくはパパか!」


 骨を詰まらせたら、すかさず背中でもさすってくれるのだろうか。ちょっと、いや、かなり過保護である。


「あぁそうですか! 明日の朝、私が責任持って食べますよぅ!」


 せせらぎはふくれっ面で、飛龍の分の夕飯にせっせとラップを被せた。


 ♢


 時刻は夜の8時過ぎ。陽はとっくに沈んでいる。


「ぎゃっ!」


 せせらぎは、脱衣場の引き戸を開けた瞬間、軽く飛び上がり、持っていたパジャマと下着を取り落とした。狩衣姿のままの飛龍が背を向けて、風呂場に仁王立ちしていたからだ。


「せせらぎ様? そこから動かないでください」


 飛龍は口元に人差し指を立て、声を潜ませた。背中越しに見える飛龍の横顔に緊張の色がうかがえる。何事だろう。今までにない張り詰めた空気に、せせらぎの鼓動が速くなった。


「どうしたの?」


 潜めた声が思わず震える。飛龍の視線は浴槽に落ちていた。蓋は閉まっていて、耳をすませば湯を貯める音が、かすかに反響音を奏でている。飛龍は浴槽から目を離すことなく、すっと後退ってきて、せせらぎの耳元へ口を寄せた。


「何者かがこの家に侵入しています。さっき、声が聞こえました」

「…!」


 せせらぎは、危うく声を出しかけ、慌てて口を抑えた。そのまま視線だけで周りを見渡すと浴室の窓が開いている。どうやら鍵を締め忘れたらしい。今日は色々なことがあったから、ついうっかりしていた。


 不審者は、浴槽に隠れ、せせらぎが入ってきた瞬間に襲うつもりだったのか、それとも、飛龍に気づかれ、やむなく浴槽に隠れたのか。


 どちらにしても、1日で二人もの不審者に出くわすなんて、誰かの恨みでも買ったのかというくらい、とんでもなく運がない。


(「おじい、まだ起きてるかな?」)


 おじいとは隣に住む山本繁治郎(84)のことである。何かあったら山本家に駆け込むように、物心ついたときから、せせらぎはそう言われて育ってきた。


 小学生の頃、いじめっ子に追いかけ回されたことがあった。悪口を言いながら追いかけてくるいじめっ子。「みなしご」とか、今思えばそんなくだらない悪口だったと思う。でも、子どものせせらぎにはとてもつらい言葉だった。だからおじいの家に駆け込んだ。泣きじゃくるせせらぎを見たおじいは鬼の形相で玄関を飛び出し、いじめっ子の首根っこをつかまえた。いじめっ子はそのままおじいの家に連れ込まれ、しこたま叱られていた。


 自分以上に泣きながら謝るいじめっ子を、若干引きながら許したことを覚えている。それからせせらぎへのいじめはなくなった。


 そういうわけで、山本のおじいは怖くて優しい。

 不安なせせらぎの脳裏に、おじいの柔和な笑顔が浮かんだ。色黒の肌にくっきり浮かぶ無数の目尻の皺。


 せせらぎが小さい頃にはすでに、おじいもおじいだったので、今ではもう、かなりのおじいである。


 あまり危ない目には合わせたくない。剣道七段、84歳。不審者相手になんとも言えない。そうなると、目の前の狩衣姿の後ろ姿が、やけに頼りに見えてきた。


(「…飛龍がいてくれて良かったかも」)


 正直、さっきのとんでも話を信じているわけではない。自分が何とかいう神の生まれ変わりで、飛龍はそんな自分を守るために現れた、だなんて、急にそんなことを言われても、少しも実感なんか湧いてこない。


 しかし、初めて飛龍と出会ったときから、不思議と妙な安心感があった。もちろん、未知への恐怖も感じていた。知らない男が、いつの間にか家に上がり込んでいたのだ。怖くて当然。足もすくんだ。


 その一方で、恐怖の奥の方にほのかに見え隠れする妙な安心感があったのも、これまた事実。


 そして、浴室で飛龍から不審者の存在を聞かされた瞬間、それはせせらぎの中で確信に変わった。


 自分は、なぜかこの男のことを信頼している。


 せせらぎは飛龍の袖を軽く引っ張った。


「気をつけて。何か武器…フライパンとか持ってこようか?」

「いざとなれば喉元に噛みつきます」

「噛みつく…?! ならフライパンの方が良いって」


 二人はヒソヒソ作戦を立てていた。不審者の声が聞こえたのはその時だ。


『お風呂が沸きました』

「さっきの声…やはりそこか! 曲者め!」

「…馬鹿者めっ!!」


 せせらぎは、自動お湯はり機能について、飛龍にこんこんと説明する羽目になった。


 ◇


「まだいる…」


 風呂から上がったせせらぎは、縁側で胡座をかき、夜空を見上げる飛龍を見つけ、がくりと項垂れた。

 浴室侵入者事件(未遂)の後、せせらぎが風呂に入るというのに、飛龍が浴室から動こうとしないので、「和室から動くな!」と言ったのはたしかに自分だが、本当はこの隙に家から出ていってくれていたらと思っていた。


 春の夜風が火照った体を撫でていく。心地よさに思わず吐息が漏れる。しかし、だ。せせらぎは黙って夜空を見つめる飛龍を見下ろした。


 戸締まりしたはずの雨戸を開け、余計な仕事を増やしてからに。そんなに外が恋しいなら、さっさと出ていけばいいものを。


(「もしかして、泊まるつもりじゃ…?」)


 その考えが過ぎった瞬間、せせらぎの心臓がトクンと跳ねた。それはさすがにまずいだろう。


 おそらくだが、飛龍はせせらぎにまずいことは何もしない。これは、さっきからの根拠のない自信である。


 だけど、そういう問題ではない。初対面の男と、出会ったその日に、一つ屋根の下で、寝食をともにする……嫁入り前の娘がなんて破廉恥な!


 めくるめく妄想が頭を駆け巡る。せせらぎの顔が一瞬にして熱を帯びた。飛龍がふと顔を上げる。


「のぼせたんですか。自分の加減も分からないなんて、やっぱり見張っておくべきだった」

「くうぅ!」


 飛龍は相変わらず淡々としている。悪気も悪意も感じられないだけに、もはや腹を立てる気にもならない。せせらぎは月明かりを浴びた柱に、がっくりと肩をもたせ掛けた。


「あのさ、飛龍が悪い人じゃないってのは分かってるんだけど、さすがにそろそろ出てってくれないかなぁ」

「出ていく? なぜ?」


 そう言って見上げてくる顔は、まるでせせらぎがおかしなことを言ったかのように、不思議そうに首を傾げている。


「なんでって…明日学校だし、もう私寝るし…」

「だから?」


 こんなに話が噛み合わないことがあるだろうか。どうやら本気でこの家に居座るつもりだったよう。これは長丁場になる、そう覚悟しかけたその時、柱の影で飛龍の黒髪が揺れたのが見えた。


「ん? 今、学校と言ったか?」

「そう。明日始業式だから。もしかして…飛龍も明日始業式?!」


 狩衣姿とはいえ、見た目はせせらぎと同じくらいに見える。学校という言葉に反応したのなら、やはり彼もどこかの高校生なのでは――


「いや」

「何なのよもう。本当どこから来たの? てか、他に行くところないわけ?」


 そうは言ってみたものの、返事は期待していない。期待していなかったのだが。


 飛龍はすっくと立ち上がり、両手を広げ大きく伸びをした。急に動かれるとびっくりする。


「せせらぎ様はもう寝るんだな?」

「そ、そうだけど」

「ここは思いの外、危険が少ないようだ」

「そ、そう? ありがとう…?」


 なぜか感謝の意を述べてしまった。飛龍はせせらぎに頷いた。


「では、京都に行ってくる」


 今から? どうやって? その格好で街を出歩くつもり?


 いろんな疑問が口をついて出そうになったが、そんな余裕もなくせせらぎは、はっと息を呑んだ。突風が舞い、目の前の男が一瞬にして飲み込まれたからだ。


 正確には、变化したという方が正しいだろう。


 竜巻に見えたそれは、紛れもなく掛け軸の龍、そう、飛龍。風の形をした無色の龍はびゅうと太い音を立て、月夜の空を悠然と翔けていく。


 風の終わりが桜の花びらを月に散らした。夢か幻か、夜空にもう飛龍の姿はない。


「今日って満月だったんだ…」


 せせらぎの双眸に大きな満月が落ちていた。

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