第2話 24時間365日

「で、私が、その『ナサチ様』の生まれ変わり…と?」

「…そうなります」


 せせらぎの問いに、男、改め、飛龍は渋々といったように頷いた。今、件の和室の間で、せせらぎと飛龍は正座で向かい合っている。


 せせらぎは、二人の間に置かれたお茶請けに手を伸ばした。先日、隣の山本のおじいが「食べきれないから」と持ってきた塩豆大福である。今日が消費期限だったのを思い出し、慌てて和室に持ってきた。3時のおやつにもちょうど良い。


 せせらぎは大福を頬張りながら、飛龍の話を頭の中で整理していた。突拍子も無い話をまとめるとこうだ。


 ◇


 今は昔、天上には神々の住まう世界があった。そこにおわすは八百万の神々。中でも、特に仲の良かった四柱――


 ニカナシ、ミツミ、ウセイ、そしてナサチ。


 これら四神は、天上という名の楽園で幾星霜も仲睦まじく暮らしていた。


 そのうち、下界には人が現れた。神の姿によく似た、しかし、愚かで、か弱く、儚い人々を、神々は天上から愛でていた。


 その頃だった。


 一柱の気まぐれで、彼らはそれぞれ眷属を従えることにした。


 これから彼らの身に起こることが分かっていたのか、はたまた、ただの気まぐれだったのか。もはや真意は分からない。


 しかし、思いがけなく産み出した、人であり獣であるその眷属を、神々はいたく可愛がった。そして、四柱と四眷属は幾星霜を平和に暮らした。


 それは、突然やってきた。


 世界が瘴気で満たされた。瘴気は人の妬み嫉み憎しみ悲しみ、そういった負の感情から産まれる。絶え間なく産まれ続ける瘴気は、あっというまに下界を覆い尽くし、そして天上までも脅かした。


 大地が腐り、空が反転し、水が澱と化す天上で、四神は人々の苦しむ様に涙を流していた。愛すべき愚かな人々の苦しむ姿を見ることは、神々にとってそれは苦しいものだった。そして、ついに、一柱が宣った。


 外界に神々の力を授けよう、と。


 神の力を下界に分け与え、自らも人として下界に転生する。

 

 それは、つまり、天上での穏やかな生活の終焉を意味していた。しかし、神々に迷いはなかった。彼らは力を外界に分け与え、自らは外界への転生を果たした。


 眷属には新たな役目が与えられた。


 主なき後も下界を守れ。

 そして、主の魂と再び相見える、その暁には――


 ◇


「生まれ変わった主をあらゆる危険から守り通せ、と」

「…そうです」


 飛龍は、一瞬、思いっきり眉間に皺を寄せて頷いた。


 なんておとぎ話。

 こんな話を聞かされて、まして自分がその生まれ変わりの一人だと聞かされて、どこの誰が「あぁ、そうですか」となるのだろう。


 そう頭では疑いつつ、心はそれほど抵抗していないから困ってしまう。飛龍の纏う狩衣や神秘的な雰囲気が、現実と空想との堺を曖昧にしている。


 せせらぎはごつごつした湯呑みを手に取ると、恐る恐る啜った。思ったとおり熱々で、まだとても飲めたものじゃない。玄米茶の薫りだけ味わって、ほっと息をつき、飛龍に上目遣いをした。


「もう一度聞くけど、私がその生まれ変わりってこと?」

「だから、何度もそう言ってる…! そう言っています」


 飛龍が咳払いして言い直す。たしかに何度もしつこく聞いてしまった。飛龍が苛立つのも無理はない。だけど、だけどさ…。

 飛龍は立ち上がり、腕を組んでそっぽを向いた。負けじとせせらぎも立ち上がる。


「さっきからその態度は何なのよ! 主に対する態度と思えない!」


 そう言って、湯呑みを持っている方と逆の手で指差すと、飛龍がキッと睨みつけてきた。その視線の鋭さに「な、何よ!」と思わず後退る。


「あんた―あなたは前世の記憶がないと言っていた。だけど、今までの主にはちゃんと記憶があった。俺のことも、全員覚えてらした」


 どうやらそうらしいのだ。歴代の『ナサチ様』の転生者はそれまでの記憶を持っていたらしい。しかし、せせらぎにはせせらぎとして生きた16年分の記憶しかありはしない。いたって普通のことである。それを責められても困るのだ。


 そしてまた、何度目かのそもそも論に至る。


「だったら、人違いなんじゃない? こっちとしては、まったく心当たりがないです!」

「まったく、そうであって欲しい」


 出た。頭を抱えたくなるようなお返事。勝手に人の家にあがりこんできて、勝手に人のことを主呼ばわりして、終いには主じゃないと抜かしだす。じゃあ、いったい何しに来たのだ。さっぱり目的が分からない。ささっと出ていけば良いものを。


 せせらぎがぎりぎり歯ぎしりしているうちに、飛龍は床の間の掛け軸に向かっていた。触れるか触れないかの絶妙な距離。伸ばしかけた手を、すぐに力なく下ろす。


「だが、俺を呼び出せるのは主だけ。他に誰かいるのかと思ったが、ここにはあなたしかいなかった。だから、あなたが主だ。残念ながら」


 だから、「残念ながら」とは何なのだ。こっちだって妙な男に絡まれて残念気分だ。せせらぎはもはや呆れながら、佇む背に問いかけた。


「そもそも、主かどうかってどうやって判断してるわけ?」

「特にない。感覚です」


 掛け軸の方を向いたまま飛龍から返事が返ってくる。何も描かれていない掛け軸を前に、いったい何を思うのか。せせらぎにはとんと想像もつかない。


 それはそうと、もしかして感覚って言った?

 これにはかなりの拍子抜け。


 それなら間違いだって起こるだろう。せせらぎが飛龍の主である確固たる証など何もないのだ。その程度で、自分は主だの、主じゃないだの、散々詰られていたということか。


 まったく、たまったものじゃない。そして、今更ながら、自分はなぜ湯呑みを持ったまま立っているのか。とりあえず、お茶でも飲もうと口に近づけつつ、何の気なしに呟いた。


「それならやっぱり勘違「それはない」


 力強い否定の言葉に一瞬ビクッとなる。こちらを振り向いた飛龍の目はあまりにもまっすぐで、せせらぎの手から湯呑みが落ちそうになる。「あっ」と思った次の瞬間、飛龍の両手がせせらぎの手ごと湯呑みを包み込み、玄米茶は溢れることなく凪いで終わった。


「危ない」

「すみません…」


 思わず謝るが返事はない。飛龍はそっと手を離し、せせらぎから離れていった。手の甲に飛龍の温もりがまだほんのり残っている。せせらぎはなんだか気まずくなって、玄米茶を一気に飲み干した。


 畳の上には塩豆大福と湯呑みがもう一つずつ置いてあった。飛龍の分だ。せせらぎは自分の湯呑みを置きがてら、膝をつき、手を伸ばした。


「そうだ。これ、あなたの分。お茶も」

「俺たちに、食べたり飲んだりは必要ありません」


 おとぎ話が本当なら、どうやら彼は人ではないらしい。人と獣からなる神の眷属。たしか、そう言っていた。だけど、狩衣さえ着ていなければ、飛龍は自分と同じ年頃のただの人間にしか見えない。


 本当に食べたり飲んだりしないのだろうか。人ではないから。


 (「悲しいなぁ」)


 激しい寂寥感がせせらぎの心を覆う。痛いくらい胸が締め付けられた。どうして急にこんな気持ちになったのか自分でもよく分からない。不思議な感覚に戸惑いながら顔を上げれば、柱に体を預け、腕を組み、淡々とこちらを見下ろす飛龍と目が合った。


「さっき」

「え?」

「さっき、主を間違うはずが無いと言ったが」

「あー…はぁ…」


 正直もうどっちでも良くなってきた。主だったら何なのだ。主じゃなかったら何なのだ。言い争いのし過ぎでなんだか疲れた。


「名前を呼ばれたとき、俺は確かに主を感じた。だから、出てきた」


 そう言って、飛龍は掛け軸に視線を送った。そこに描かれていたはずの飛龍はもういない。つまり、飛龍の代わりに人間の飛龍が掛け軸から出てきたということだろうか。……そんなの一休さんも困るだろう。


 飛龍は続ける。


「だが、あなたを一目見たとき、何も感じなかった。いつもならすぐに分かる。この人が今回の『ナサチ様』だと。それに、『ナサチ様』だって俺のことが分かる」

「そんなこと言われましても…」


 だから、飛龍の勘違いなのでは、と何度もそう言っているのだ。また言うと、話が進まなくなるので、もう言わないが。


 飛龍が小さくため息をついた。


「正直、あなたが『ナサチ様』の生まれ変わりであるという確証はない。だが、少しでも可能性がある以上、俺はあなたを守らなければならない」

「はぁ……え、つまり、どういう意味?」


「守る」とは、はたしてどういう意味だろうか。この平和な日本において、身の危険を感じる機会はありがたいことにそれほど多くない。


 飛龍の眉間に一瞬皺が寄ったのをせせらぎは見逃さなかった。本日まさかの2回目である。この男はちっとも笑わない。表情筋がカタブツ君なのだ。


「どういう意味も何も…そこから説明か……まぁいい。あなたの身に迫る危機を俺が全て排除する。追い剥ぎとか野犬とか、全て」


 例えがあんまりだが、それはつまり、痴漢とかも退治してくれるということだろうか。それはちょっとありがたい。せせらぎは少し前向きな気持ちになってきた。


「それってつまり、私が『助けてー』って叫んだら助けに来てくれるってこと?」

「叫ぶ必要はありません」

「…念じるだけで伝わるってこと?」


 なにそれ怖い。自分の気持ちが飛龍に筒抜けということだろうか。


「…念じる必要もない。分かるから。そばにいれば」

「そばにいる…あっ、掛け軸を常に持ち歩けってっこと?」


 そうして、せせらぎの身に危険が迫ったときには、掛け軸から飛龍が飛び出してきて、助けてくれるのだ。掛け軸を常時持ち歩く女子高生…嫌すぎる。どうせ夢物語なら、いっそランプにしてほしい。


 飛龍の大きなため息が和室に響いた。ご機嫌斜めなのがあからさまに伝わってくる。それでいて端正な顔立ちだから悔しいけれど様になる。


 飛龍はゆっくり身を起こした。


「いちいち出入りしていたら間に合わない――ずっとあなたのそばにいればいい。俺はあなたから離れない」

「なんで!?」


 開いた口が塞がらないとはこのことだ。


 せせらぎは飛龍の体温を思い出した。せせらぎの肩を抱き、手の甲を包んだ大きな手。その骨ばった長い指先の感触が一瞬にして蘇り、電気のように体を駆け巡る。


 それにしても、せせらぎのそばからずっと離れないって?!


「え…毎日?」

「毎日」

「朝も…?」

「朝も」

「…昼も?」

「昼も夜も」

「24時間365日っ?!」

「24時間365日」


 淡々と言ってのける飛龍の表情からは、何の感情も読み取れない。せせらぎは無表情の飛龍を見上げながら、とりあえず飛龍分の塩豆大福を頬張った。口の周りに粉が付くのも気にせずもぐもぐ食べた。


 結局、せせらぎが最後の一口をゴクリと飲み込むまで、飛龍の表情筋は微動だにしなかった。

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