桜の季節〜とある主と眷属の物語〜
イツミキトテカ
第1話 桜の季節
桜の季節は出会いの季節
私は、そうだと願っている
◇◇◇
「あんた、誰だ」
「こっちが聞きたい!」
目の前に、どこからともなく突然現れた謎の男。年の頃はせせらぎと同じくらいだろうか。
明日から高校2年生をスタートさせるせせらぎは、短めに整えられた黒髪男の端正な顔を睨みつけ、ざっと値踏みした。
風通しのため開け放っていた縁側に、ひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。いったいどこからやってきたのだろう。桜の季節には少し遅いが、どこかでまだ、その桜色を可憐に咲かせていたらしい。遠くの方では、鶯がのんきに歌を詠んでいる。
せせらぎは思う。
桜の花びらはいつだって大歓迎だ。しかし、これは――
狩衣姿で我が家をきょろきょろ見回す男―せせらぎのことはもはや眼中にないらしい―さすがにこれは無いだろう。
せせらぎは、男に勢いよくピンクの毛はたきを突き付けのたまった。
「そもそも、どこから入ってきたんですか! 警察…呼びますっ!」
せせらぎという名は父がつけてくれたものだ。
小川のせせらぎのように、自身も、周りの人々も、心穏やかにできる、そういう娘になって欲しい、そんな願いを込めて名付けられたと聞いている。
だからなのか、生来の気性なのか、娘は父の意思を汲み取り、そう長くはないこれまでの人生を、川の流れのように何にも逆らわず、穏やかに暮らしてきた。
そういうわけで、見ず知らずの初対面、しかも狩衣姿の男に毛はたきを突きつけるなど、普段の彼女の行動パターンならとてもじゃないが考えられない。じっとして、この場から逃げ出すチャンスを密かに窺う、本来はそういうタイプである。
なのにどうして。彼女は今、男に毛はたきを突きつけている。
せせらぎと男はしばらく睨み合っていた。男は物盗りだろうか、それとも……。
そう思った瞬間、突きつけた毛はたきが視界の端で震え出す。今になって、最悪の事態を想像し、足から震えが迫り上がってきたのだ。
突然、男が動いた。ビクっと身を縮めるせせらぎを前に、男は突きつけられた毛はたきを困惑気味に一瞥すると、ふいっと軽やかに身を翻した。
「無視!?」
男の背に思わず声を掛ける。掛けてしまった。
逃げるなら今がチャンスだった。
なのに、我ながらなんてらしくない。
この隙に玄関を飛び出し、隣の山本のおじいの家に駆け込んで、警察に通報すれば、それで一件落着だったのに。
いつもの自分ならきっとそうする。
男は縁側に向かっていた。重みで縁側が軋んだ音をあげる。白い足袋が黒い床木によく映えている。どこからか、またしても流れてきた桜の花びらひとひらが、彼の爪先を彩った。
春の陽光が男を照らしていた。眩しそうに目を細めるその横顔は、妙にせせらぎの胸の奥をざわつかせた。どうしてあの隙に逃げなかったのか、せせらぎはその瞬間理解した。
自分はこの男から目が離せないのだ。
何か大事なことを忘れているような。そんな気がしてならない。それがとても大事なことだけは覚えている。だけど、その大事なものが何なのか思い出せない。もう少しで思い出せそうで、だけど、結局何も思い出せなくて、繰り返される思考停止状態。
男は縁側で、深く息を吸い込んだ。当然ながら、吸ったら吐き出す。ゆっくり開けられた物憂げな瞳が、毛はたきを構えたままのせせらぎを振り返った。男はようやく口を開いた。
「この邸には、あんたしかいないんだな」
元は母方の祖父母が住んでいた家だ。せせらぎは今ここに1人で住んでいる。和室3部屋を含めた平屋5LDK。女子高生1人が住むにはあまりにも広すぎる間取り。
男はせせらぎの返事を待たずに、再び和室に足を踏み入れた。
「ということはあんた――あなたが俺を呼んだのか?」
せせらぎの目をまっすぐ見据えながらずいずいと距離を詰めてくる男。くっきりとした黒い双眸は、どこまでも深く、その瞳で見つめられると、危うく彼方へ吸い込まれそうになる。
この男は怪しい―いや、妖しい―
せせらぎは毛はたきを突きつけたまま、ずいずい後退りを余儀なくされた。
「私が呼んだ…? いやいや、そっちが勝手に入ってきたんじゃ…」
すでに襖の前まで追い詰められている。後ろ手で引き手を探すが、こういうときに限ってなかなか見つからない。そうやってまごついている間にも、男は無遠慮に距離を詰めてくる。せせらぎはゴクリと唾を飲み込んだ。
どうしてこんなことになったのやら。全くもって意味が分からない。
記憶は早朝に巻き戻る。今日の始まりは最高に良かった。心地よい気温、心地よい陽光。せせらぎの目覚めは完璧だった。
だから、一念発起して大掃除をすることにしたのだ。
雑巾掛けし、ほこりをはたき、掃除機を掛け、家中きれいさっぱりにした。床の間に久しぶりに花を活け、納戸で見つけた掛け軸を飾った。飾るまで気が付かなかったが、そこには天翔ける1頭の龍が雄々しく描かれていた。
作者は分からない。そもそも我が家にどうしてこんな掛け軸があったのかも分からない。大掃除中にふいに見つけた。せせらぎはこの掛け軸を思いの外気に入った。大掃除した彼女へのご褒美みたいな気がしたのかもしれない。
せせらぎは腰に手をあて、掛け軸をしばらく満足気に眺めていた。景色などは一切描かれていない。一頭の龍が力強く天を翔けているだけだ。そして、何故だろう、自然と口から言葉が零れた。
「…
その瞬間、突風が部屋の中を吹き抜けた。乾いた土埃のような、枯れた香りが、一瞬にしてせせらぎの肺を満たした。乱れる髪を撫でつけながら、何事かと振り返れば、そこにはもう男がいた。畳の上に狩衣姿の無愛想な美しい男がいたのだ。
たしか、そうだった。
せせらぎは我に返った。毛はたき越しに男の硬い胸板の感触が伝わってくる。男はもう、すぐ目の前まで来ていた。毛はたきを払い除けもせず、なんだか不機嫌そうにせせらぎを見下ろしている。
この男は、なぜにさっきから不機嫌なのか。勝手に家に入ってきて、本来であればこっちが不機嫌になりたいくらいである。
男の冷たい視線に耐えられなくて、だけど怯んでみせるのは癪にさわって、精一杯ツンと目をそらす。見やった床の間の掛け軸は白紙だった。
白紙? せせらぎは大きく瞬いた。
「飛龍が消えてる…?」
そこには天翔ける龍が描かれているはずだった。ついさっきまで惚れ惚れと眺めていたのだから間違いない。それが一体どうして白紙になっている…?
せせらぎの視線に釣られるように、男も掛け軸の方に視線を向けた。そして、露骨にがくりと肩を落とした。なにやらがっかりしたらしい。男は短く息を吐いたあと、ゆっくりとせせらぎの前に跪いた。
「え、な、なに?」
男の顔がせせらぎの爪先のすぐそばまで来ていた。せせらぎは、思わず襖に背を預け、爪先立ちした。昨夜塗ったばかりの桜色のペディキュアを、男の吐息が今にも吹き飛ばしてしまいそうなくらいの至近距離。
「どうやら、あなたのようだ…」
男はじっと俯いたまま。その声は何の感情も感じさせない。
今思えば不思議なことだった。掛け軸に描かれていたのは1頭の龍。それを見て、零れる言葉は、普通「龍」であって「飛龍」ではないはずだ。
外では風が吹雪いているらしい。桜の花びらが和室にまでも舞い込み始めた。静寂を縫うようにひらり舞うその様は、それは可憐で、あまりにも儚い。
せせらぎの爪先はぷるぷるの限界を迎えた。
襖に背を押され、そのまま男の前につんのめる。
「あっ!!」
ぶつかる…!
思わず目を閉じ、覚悟する。ゴチンと鈍い音が響く…はずが、しかし、予想に反してせせらぎの体は柔らかな感触に包まれていた。恐る恐る目を開けると、男の腕の中にふうわりと抱きとめられている。
顔を上げれば、綺麗な男の顔がすぐ目の前にあった。薄い唇から溢れる男の吐息に、襟から覗く喉仏に、せせらぎの首筋が一瞬にして熱くなる。
(「近っ…!」)
せせらぎを見下ろすその顔は、しかし、相変わらず無愛想で、驚くほど淡々としていた。
「我が名は飛龍。ナサチ様とその魂を守る者――あなたはナサチ様の生まれ変わりだ」
◇♢
これが、せせらぎと飛龍の出会いだった。それはつまり、何度目かのナサチ様と飛龍の出会い。
このあたりは桜の開花が早い。
開花が早いということは、それはつまり、散るのも早いということ。
彼女たちの桜の季節。
それは、どんな季節になるのだろう。
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