ドン ~あるマンションの浴室での出来事~

貴音真

20230613都内某所の女性専用マンション

「ねえ、今日も帰らんの?いい加減家賃勿体ないし自分ん家に帰った方がいーんでない?」

「えー、別にどーでもいーじゃん家賃とか。それに宿泊費としてご飯作ってくれればあんたに彼氏が出来るまではずっと居て良いって言ったじゃん?」

 この春に引っ越したばかりのSさんは六月の半ば頃から既に二ヶ月近くの間ずっと自宅へと帰らずに友人宅へと泊まり続けていた。いや、正確には自宅へ帰っていないというよりは『自宅で生活をしていない』というのが正しい。

 Sさんの友人はフリーランスでアパレル関係の仕事をしているために室内には仕事用具が溢れており、荷物置きとして使用していた二段ベッドの二階に寝かせてもらっているものの、室内に二人分の生活用品を置くスペースが確保できない事からSさんは週に一度か二度、休みの日の日中或いは仕事に行く前の早朝と言った明るい時間に自宅を『訪れて』は数日分の着替えを取りつつ、洗濯などを行うために帰宅していた。

「うん、確かに言ったし上げ膳据え膳なのはサイコーなんだけども……」

「だしょ?私は安眠出来るし、あんたはご飯作る時間を仕事時間に出来るし、これってウィンウィンじゃん?」

「……でもさあ、アンタん家はうちより広いんだから帰った方がここより絶対快適じゃんか。つか仕事道具運び込めるんならアタシがアンタん家に住みたいし」

「絶対ダメ!!」

「えっ、ちょ……どしたん??」

 突然大声を上げたSさんに対して友人が心配そうに問い掛けた。

 Sさんは大人しいというタイプではないが決して大声で話すタイプでもなく、『冷静で落ち着きがある人』というタイプだった。

 そんなSさんが友人の「アタシがアンタん家に~~」という言葉を聞いて大声を上げたのだから友人が驚いて心配するのも無理はない。

「あ……ご、ごめんね、急に大声出して」

「いやアタシは別に気にしとらんし、まだそんな遅い時間でもないし少しくらい大声出してもヘーキだと思うけど、どしたん?やっぱなんかあったんしょ?隣の人が嫌がらせしてくるとかそんなんか?」

 気遣いを込めた友人のその言葉にSさんはじっと黙って何かを考え、暫くするとそっと口を開いた。

「実は───」



 約二ヶ月前……


 カタカタカタカタ、タン。

 カタカタカタカタカタカタ、タン。

「ふぅー、取り敢えずこれでいっか。さっ、お風呂お風呂」

 翌日使うプレゼン用の資料を作り終えたSさんは独り言を呟くと一日の疲れを癒すべく浴室へと向かった。

 ガチャ、カチン。

 Sさんは浴室に入ると後ろ手に鍵を閉め、シャワーヘッドを手にするとゆっくりと蛇口を捻った。

 キイ、キイ、キイ、キイ。

 水漏れ防止のパッキンが擦れる音に続いてけたたましい程の水音が鳴ると同時にシャワーヘッドからお湯が流れ出した。

 浴槽には休みの前日にしか入ることのないSさんはいつもの様に洗顔から始まり、続けて髪と体を洗い終えると浴槽に入らない平日の入浴を終えるべくシャワーを止めようと先程とは反対方向へと蛇口を捻った。

 キイ、キイ、キイ、キイ。

「あー、気持ちかったー」

 Sさんは思わず呟きながらシャワーヘッドを元の位置へと戻し、振り替えって浴室のドアを開けようとした。

 ガタン!

「あっ!やばっ、またやっちった……」

 Sさんの言う『また』とは、Sさんがこの部屋へと引っ越す以前に染み付いた習慣による失策だった。

 現在Sさんが暮らしている家は浴室が完全に独立し、その手前に脱衣室兼洗面所となる部屋がある一点式ユニットバスと呼ばれる構造だが、以前の部屋は浴室と洗面所とトイレが同室に存在する三点式ユニットバスと呼ばれる構造だった。その為、以前の家では他に人がいるいないに拘わらず浴室のある部屋に入った際には必ずドアの鍵を掛けるのが習慣となっていた。

 これは一人が入浴している際に他の誰かがトイレを利用しようとして浴室に繋がるドアを開けてしまうなどの事態を避ける為だが、トイレと浴室が完全に分かれている一点式であれば他に人がいるいないを問わずその心配はなく、玄関を確りと施錠している場合には浴室のドアを施錠する必要性はない。

 Sさんはこの事を頭では理解しつつも染み付いた習慣によって入室時に鍵を掛けてしまい、出る際に鍵の掛かったドアを開けようとして『ガタン!』という音を鳴らしてしまう事が続いており、それをひどく気にしていた。この習慣事態はその内に馴れるものなので特に気にする事でもないのだが、五階建のマンションの二階に位置するこの部屋に住み始めてからそう時間が経過していないSさんは開かないドアを押し開けようとした際の音と振動が上下或いは左右の住人に伝わり、トラブルになるのが心配だった。

「あー、ホント気をつけないと」

 Sさんは呟き、サムターンを摘まんでゆっくりと回した。

 カチン。

 ドアと枠との間に差し込まれていた閂を模した留め具がドアの中へと引っ込む音が浴室にこだまし、Sさん再びドアを開けようとしたその時だった。

 ガタン!

「えっ!?」

 それは聞き覚えのある音と、そして手応えだった。

 ガタン!

 ガタン!ガタン!

「えっ!?なんで!?なんで開かないの!!?」

 Sさんは二度三度とドアを開けようとして取っ手を回しながら押し込んだが、浴室と脱衣室を繋ぐドアは『ガタン!』という音と確かな反発力を以て応えるだけで決して開かなかった。

 ガタン!ガタン!

 カチン、カチン。

 ガタン!ガタン!

 カチン、カチン。

 ガタンガタン!ドンドン!

「ちょっと!なんでよ!なんで開かないの!?」

 Sさんは何度もサムターンの向きを確認しながらドアを開けようと試みたがやはりドアは開かず、ドアを叩いてもやはり開く気配はなかった。

 数分、いや或いは分にも満たない時間だったかも知れない……

 しかし、その僅かな時間であっても『浴室に閉じ込められた』という事実にSさんは焦燥し、半ばパニックになりながら叫んだ。

「すみません!誰か!誰か聞こえてませんか!?助けてください!ドアが!ドアが開かないんです!助けてください!」


 ダレカタスケテクダサイ……


 突然の事態に陥った場合、人はとにかく身近な『ダレカ』に助けを求める。藁にも縋る思いで見知らぬ『ダレカ』に助けてもらおうとする。

 そして、Sさんも『ダレカ』に助けを求めた。

 Sさんの言葉に応えたのはその『ダレカ』だった。

 ドンドンドンドンドンドン!

「ひいっ!?」

 突如浴室内にけたたましい音が響いた。

 ドンドンドンドンドンドン!

 ドンドンドンドンドンドン!

 壁、天井、床、そしてSさんの目の前にはだかるドア……

 上下左右、四方八方よりそれは響いていた。

 ドンドンドンドンドンドン!

 ドンドンドンドンドンドン!

 ドンドンドンドンドンドン!

「ひいいいいいっ!!?」

 ドンドンドンドンドンドン!

 ドンドンドンドンドンドン!

 ドンドンドンドンドンドン!

 ドンドンドンドンドンドン!

 その音はSさんの上げる悲鳴の大きさに比例して大きくなっていった。

 そして……

「いやあ!!もうやめて!!!」

 ドンドンド……

 隣近所、そして時間帯など一切の気遣いを捨て去って叫んだSさんの声が浴室内に谺するのとほぼ同時にその音は止んだ。

「……終わった、の?」

 Sさんは思わず『ダレカ』に問い掛けていた。


 ハジマリダヨ……


 その声はSさんの真後ろから響いていた。



「───それから先はあんま覚えてない。気付いたらタオル巻いたままベッドで寝てた……」

「マジか……そんなん怖すぎんしょ……ヤバくない?つかヤバイよ……あ、そうだ。近所の人に話とかしたん?上とか下とか横とか誰かおかしな音とかそんなん聞いて無かったん?大声出したんしょ?」

 友人の問い掛けにSさんは自らの体験談を語り始める前と同様に押し黙り、そして決意したようにゆっくりと口を開いた。

「……いないの」

「は?」

「誰もいないの……」

 その「誰もいないの」という言葉の意味を友人は理解することが出来なかったが、その意味を訊く前にSさんが再び口を開いた。

「あのマンション、誰も住んでないの……」

「はあっ!?嘘っしょ!?だってアンタ引っ越した時にアタシと一緒に挨拶しに行ったじゃん!上下左右、みんな居たじゃん!」

 Sさんの家は入室者が女性のみに限られる所謂女性専用のマンションであり、防犯上の理由から女性の独り暮らしの際は殆ど引っ越しの挨拶をしなくなっている昨今にも拘わらず、Sさんは友人と共に上下左右の四部屋に粗品を持って引っ越しの挨拶を行っていた。

「うん、そうなんだけど。みんな今の私と同じみたいなんだよね……ここに泊まるようになってから気付いたんだけど、あの部屋で暮らしてる間、夜帰った時にマンションの部屋の明かりが点いてるの一度も見たことないんだ。全部の部屋が真っ暗だった」

「真っ暗って、なにそ……!?」

 途中まで言い掛けて友人は気がついた。


 全部の部屋が真っ暗……

 今の私と同じ……


 これらは即ち、Sさんの部屋があるマンションの住人全てが『何らかの事情』により自宅での寝泊まりをしていない、少なくとも夜間に帰宅することをしていないのだと。

「ついでだからもう一つ気付いた事を言うけど……あの時に鳴ってたドンドンって音、あれ外からじゃなくて内側から、浴室から外に向けて叩く音だと思うんだよね……」

「……なんで?」

「だって、私がドアを叩いたのと同じ音の響き方してたもん……あれは絶対に内側から外側に向けて叩いた時の音だよ」

 友人はもはや返す言葉がなかった。

 突如として浴室に閉じ込められ、得体の知れない音と『ダレカ』の発した言葉によって与えられる恐怖、それは体感してみなければ解るものではないが想像は出来る。

「あ、そうだ。あんたお風呂まだでしょ?私が外からドア叩くから浴室から叩いた音と比べてみれば?」

 恐怖体験を聞いてもらってスッキリしたのか、あっけらかんとしてそう言い放ったSさんのこの提案を友人が実行に移すことはなかった。


 ドンドンドンドンドンドン!


 ハジマリダヨ……

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