10.回想
夏も真っ盛りで、火に燻られているかのような直射日光を浴びながら私たちは歩いている。
セミの声が頭上から降り注ぎ、汗が滴り落ちる。
「あっ、ねえ、みてみて」
「なんだよ時雨! おいていくぞ!」
しゃがみこんだ時雨の小さな手が、足元のある一点を指差す。が、お構いなしにそれを引いたのは五月だ。
「ちょっとまってよお、五月くん。だってみて、これ。アリがすごい行列」
「いいから!」
「うわ……やだあ、まだみたいー!」
じたばたする時雨を無理やり立たせて、引っ張っていく五月。ああ、と名残惜しそうな視線と悲鳴を残しつつ、時雨はそこから連れ去られていく。
私は小さな小さな吹雪の手をつかんで歩いていた。わらしくんは暑いのが苦手らしく、日陰ばかりを選んで歩いているため、ずっと一人少し離れたところにいる。今も塀と塀の隙間にぼうっと立っているだけだ。
「ねえ、五月くん、もう帰るの? まだあかるいのに」
「はやめに帰らないととちゅうで暗くなっちゃうだろ。歩くのおっそいヤツがいるんだから。あーあ、自転車で来てればもっと遊べたのになあ」
そう言って五月はちらりと吹雪を睨みつける。
今日は海沿いの草原でバッタと蝶々をつかまえるのが目的だった。
当初は五月と時雨、私、わらしくんの四人で出かける予定だったのだが、直前になって吹雪が自分も行きたいと駄々をこねた。当然のごとく五月は拒否をしたが、連れて行ってやりなさいと母親にたしなめられてはさすがにそれ以上突っぱねることは出来ず、まだ自転車に乗れない吹雪を連れて徒歩で出かけてきたのだった。
夏休みが始まったばかりの町は、日暮れ前にもかかわらず、やけに楽しげにざわめいていたのをよく覚えている。
「さよちゃん」ふと吹雪が立ち止まり呟いた。「ふぶき、つかれたあ」
吹雪は産まれたときから五月、時雨、私、わらしくんと年上に囲まれて育ってきたせいか、少し甘えんぼうだ。
「ほらあ、だから吹雪なんてつれてくるのいやだったんだよ!」
五月が肩を怒らせてぷりぷりと文句を言う。それにならって吹雪がきいきいと叫び始めて、私の手を振り払った。
吹雪は兄の五月が大好きだし、五月は妹の吹雪が大好きなくせに、ふたりとも気の強い性格のせいかやけにケンカが多い。そしてこんなとき仲介役になるのは大抵時雨だ。私はただ自然に終わるのを見ているだけである。
「じゃあ吹雪ちゃん、ぼくがおんぶしてあげよっか?」
「うん!」
時雨の言葉に嬉しそうに吹雪が飛びつく。五月はまだぶつぶつ文句を言っていた。
年上とは言え、吹雪とふたつしか年齢の違わない時雨は、引きずるようにして彼女をおぶっている。というより、体に乗せている。吹雪は不安定さにむずがりながらも嬉しそうだ。
「吹雪……。にいちゃんのぶんのアイス食べていいから自分で歩け」
見かねた五月が助け舟を出す。
「いいの?」
「いいから。まだ歩けるんだろ?」
「うん!」
またしても吹雪は嬉しそうに今度は時雨から飛び降りる。元気そうだ。吹雪はきゃっきゃと、チョコのやつだよ、ほんとに食べちゃうよ、と五月に絡み始めた。
私はぜいぜいと汗をかきまくっている時雨に近づいた。
「だいじょうぶ?」
「うん、でもちょっとつかれた……」
そりゃそうだろうと思い、私は彼の手を引いて歩き出す。夏の陽気や運動のおかげで汗ばんだ手。
「おーい、わらし行くぞお」
「はい……」
ぐったりとした声とともに、わらしくんもわずかな日陰から日陰へと移動していく。
裏庭には大きな木が二本あって、夏には青々と茂った葉が本当に気持ちのいい日陰を作る。落ちてくる木漏れ日が眩しく、きれいだった。
その木漏れ日の下に、幼い頃の私たちがいる。
乾いた土と雑草の上に敷かれたござとピクニックシート。放り出されたうざぎのぬいぐるみ、ヒーローの人形。それにサッカーボール。
まぶたが軽く痛んで、目を開けた。でもその途端すぐにまたぎゅっと閉じる。眩しかった。眠っている間に太陽が移動し、鋭い木漏れ日が私の顔に直接降りていていたのだ。
その日差しから逃げようと寝そべったままずりずりと頭上へと背中で這った。するとごつんと頭が硬いものにぶつかる。
「いて」
首をそらして見上げると、その硬いものの正体は時雨の頭だった。真っ黒い髪。くちをぽかんと開けて寝息を立てている。
そしてその隣には小さな吹雪が丸まるようにして眠っていた。垂れたよだれが時雨の服に染みている。
まわりはずいぶんと静かで、わずかな風に揺れる木の葉のざわめきや、家の中からする話し声、それから数少ないセミと鳥の鳴き声くらいしか聞こえない。
私はもそりと体を起こした。まだ頭がぼんやりとしていて、まぶたも重い。
少し離れたところに五月も眠っていた。手には怪獣の人形をつかんだまま、うつぶせになって寝ている。まだ眼鏡はしていないので、うつ伏せて眠っていても問題はない。
そのまま上へと視線を巡らせば、わらしくんの姿も見つけることができた。彼は大きな木の比較的低いところにある太い枝に座っていた。着物から覗く両足がぶらぶら揺れている。
「わらしくん」
「あ、起きましたか」
声をかけるとわらしくんはふっとこちらを見下ろした。私は眠い目をこすりこすり、彼の元へ行こうと木へしがみつくが、それより先にわらしくんが飛び降りてきた。全く体重や重力というものを感じさせない軽い動きで、彼自身もまるでふわりと浮いた着物の裾や袖のように、ほとんど音もなく着地する。
「小夜も上にのぼりたかったのに」
「まだ早いです。もっと大きくなってからじゃないと」
「でもわらしくんはのぼってるよ。ずるい」
「僕は小夜たちよりずっとずっと年上ですから」
「嘘だあ」
「ほんとですよ」
そう言うわらしくんはにこにこと笑っていたけれど、特に冗談を言っている様子もなく、それでもこのとき私はわらしくん年上説に全く納得できなかったし理解もできなかった。どう見てもわらしくんは、私たちと同じくらいの小さな子どもだった。
ピンポン。玄関から軽い音がし、続いてごめんくださーいという溌剌とした声が聞こえた。
私と時雨はぬり絵をしていた手を止め、色鉛筆を放り出して走り出す。
母が拭き掃除したばかりの廊下で靴下が滑る。かろうじて転ばずに前へと進めば、玄関にはすでに母が出ていて、その後姿が見えた。そして三和土には五月と吹雪、そしておばさんが立っている。
「じゃあ、申し訳ないけどよろしくね」
「はいはい、たいしたお構いもできないけど。みんな一緒にいてくれたほうが、勝手に遊んでいてくれるからこっちとしては楽よ」
「そうよねえ。ばらばらに遊びに出ちゃうよりよっぽど安心」
お母さんとおばさんが和やかに談笑しているわきで、五月と吹雪が退屈そうに立ち尽くしている。
「五月くん、吹雪ちゃん!」
時雨が呼べば、玄関に立っていた四人が一斉に顔を向けた。
「あら、時雨くん小夜ちゃん。こんにちは」
「こんにちは!」
「こんにちは。おばさん、おでかけ?」
笑顔で挨拶するおばさんは、いつもより少し綺麗な格好をしている。それでこうやって五月と吹雪を連れてくるときは、大抵おでかけをするときなのだ。
詳しいことはよくわからなかったけれど、おじさんと一緒に何日か遠くへ行ってしまうらしい。その間は五月と吹雪がうちに泊まるので、それが私と時雨はとても嬉しかった。
「そうよ。お土産買ってくるからね」
「うん! 五月くん、吹雪ちゃん早く!」
待ちきれない時雨が、返事もそこそこに二人を呼ぶ。小さなリュックを背負った二人も待ちきれなかったようで、はじかれたように靴を脱いで廊下へ上がった。そこへおばさんの声が飛ぶ。
「五月、時雨! 良い子にするんだよ! おばさんとおじさんの言うことをちゃんと聞いてね!」
「はーい!」
「まったく、返事だけはいいんだから」
そう苦笑したようなおばさんの声を後に、私たちはどたばたと廊下を駆け抜けていった。
先ほどまでぬり絵をしていた部屋に戻ると、わらしくんが色鉛筆を日にかざして見比べていたが、おおはしゃぎでやってきた私たちを見てにっこりと笑う。
「いらっしゃい」
「おじゃまします!」
五月と吹雪が声をそろえた。
「あの、時雨くん」
眼下に広がる雄大な景色なんかそっちのけで、荒い呼吸を整えることだけに意識を集中させていたら、背後から控えめな声がかかった。
それは時雨を名指しだったので、別にわたしや吹雪、それに五月が振り返る必要はなかったのだけど、なんとなくみんなでそちらを向いてしまった。一斉に振り返る四人にぎょっとした様子の女の子たちが立っている。三人いた。
今日は朝から学校行事の山登りに来ていて、たった今ようやく山頂へと辿り着いたところだった。一年生から六年生まで全校でやってきた山には、子供の歓声が響いている。
最初は学年ごとに一年生から順番に登り始めるのだが、そのうち体力のある人たちはがんがん先へと進み、体力のないいわゆる脱落組がどんどんとみんなに抜かれていき、次第に全体が学年関係なしにばらばらになる。わたしと時雨は早々に脱落して五月に追いつかれ、やがて脱落というよりはわたしたちを待っていた吹雪が合流し、中盤以降は四人でだらだらと坂道を登っていった。
わたしと五月は特にこういうきつい運動行事が嫌いで、時折時雨や吹雪に背を押されながらもなんとか進んだ。
そうしてやっと辿り着いた山頂で、待ち伏せていたのか、休む間もなく三人の女の子に声をかけられたというわけだ。
「どうしたの?」
時雨が額の汗を拭いながら答える。
その女の子たちはたしか時雨のクラスメイトで、今年時雨とクラスが離れてしまったわたしにはほとんど面識がなかった。時雨とどの程度の仲なのかはわからないが、きっとさして仲良くもないのだろう、と思う。だって時雨がわたしたち以外と仲良くするだなんて、ちょっと想像がつかない。
「えっと……もしよかったら、一緒にお弁当食べないかなって思って」
双子であるわたしや、上級生の五月がいることを気にしてか、やたらともじもじしながら真ん中に立った女の子が言う。他の二人も恥ずかしさと気まずさが入り混じった顔で俯いたり、微笑んだりしている。
時雨がなんと答えるのかは火を見るより明らかだった。わたしはその子たちに興味がなくなって、だいぶ落ち着いてきた呼吸にほっとしながら、辺りを見回した。五月もどうでもよくなったのか、それとも元々どうでもよかったのか、さっさと荷物を降ろし冷たいお茶を飲んでいる。吹雪だけがまっすぐに女の子達を見据えていた。
「ああ、そっか。でもごめんね。俺、こっちで食べるから」
「あ……うん、そうだよね、ごめん。ごめんね、じゃあ」
にっこり無邪気に微笑む時雨に、女の子たちは居たたまれなそうに逃げるようにして去って行った。その背中を見送る。あの子たちは、時雨が好きなのだろうか。
「ねえ、時雨ちゃん。今の誰?」
「同じクラスの人たちだよ。悪いことしちゃったな」
「なんで? 全然悪くないよ。時雨ちゃんは吹雪たちと食べるって決まってるのに」
「別に決まってはないだろ」
五月の笑いを含んだ声に、吹雪はくちを尖らせる。
「決まってるの! ね、小夜ちゃん」
「うーん、どうだろう」
「もう! いいから食べよう、時雨ちゃん」
「そうだね、腹減ったよ」
そうして当たり前のようにわたしの隣に腰を下ろす時雨。
やっぱり、こういうのは決まっていることなのかもしれない。一緒にご飯を食べるとか、一緒に山を登るとか。わたしと時雨が一緒に生まれてきたその瞬間に、決まったことなのかもしれない。
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