9.生きる

 次の日、登校中の五月を捕まえて、わらしくんのことを話した。

「まじか……」

「パパにも確かめたから間違いないと思う」

「いや、うん……ちょっとこれはゆっくり話そう。学校終わったらお前らん家行くから、今日はおとなしくしてろよ。先生に呼び出しとかくらうなよ」

「俺たちはいつもおとなしいよ」

「馬鹿言うな」

 いつものような会話の応酬が始まって、なんだか心がほっとする。すごく久しぶりな気がするからだ。日常がここにあるということ。それはとてつもなく貴重なことなのだと私は噛み締めた。

 

 放課後、五月が出てくるのを昇降口で待って一緒に帰った。帰りながら話そうと思ったけれど、五月は頑なに吹雪とわらしくんも揃ったところで話したいと言うから、私の悩みを話しながら帰路についた。馬鹿にされるだろうと思っていたけれど、意外なくらい五月は普段と変わらず「ふうん」と相づちを打っていた。

 先に家に帰っていた吹雪をつれて、うちに入る。いつもと同じようにわらしくんが迎えに出てきて、キナコも挨拶をしてくれる。

 お菓子と飲み物を用意して、私たちの話し合いがいざ始まるのだった。

 まず口火を切ったのは五月だった。

「成長するとお前が見えなくなるっていうのは本当なんだな」

「はい、みなさんは遅いですがいずれ必ず」

 五月が真剣な眼差しでわらしくんを見て、それから俯いて深い溜め息をついた。

「実は俺、ときどきわらしが見えないことがある」

「え!?」

 ガタン、とテーブルを鳴らして中腰になったのは時雨だ。

「もう見えないの!?」

「ときどきな」

 ショックを受けた時雨はそのまま動かない。わらしくんは表情を変えず、ただ穏やかな顔をしていた。

「え、ちょっと待って、全然ついていけないんだけど?」

 そう戸惑いながら言ったのは吹雪だ。そういえば吹雪には説明するのを忘れていた。

 わらしくんのことから、私の悩み、時雨の悩みまで話したところで吹雪は信じられないという顔をしていた。けれど最後までくちを挟まずに聞いていたことから、疑っているとか信じていないということはないと思う。

「……結構深刻な事態じゃない?」

 どうやら信じられない顔じゃなくて、深刻だと思っている顔だったらしい。吹雪は「わらしくんがいなくなるなんてやだ」と言って、わらしくんにいなくなるわけではないと訂正されていた。

「で、話を戻すけど」

 五月が注目させるように話し出すと、吹雪が高い声をあげた。

「そうだ、やだー! お兄ちゃん、わらしくんのこと見えなかったりするの!?」

「まあときどきだけどな。お前らがわらしと話してるのに、俺には見えなかったりすることがあったから不思議に思ってた」

「……五月くんが俺たちの中でいちばん成長してるんだ」

 時雨の呆然とした声。私もとても冷静ではいられなかった。わらしくんの話を信じていなかったわけではないけれど、本当に見えなくなってしまうんだという事実が私をぞっとさせる。

 ふいに母が死んだときのことを思い出した。あの世界に穴が開いてそこへとんと突き落とされるような喪失感。けれどあれは交通事故で私たちが母のもとへたどり着いたときにはすでに亡くなっていたから、すとんと綺麗に落ちることができたわけで、こんなふうにじわじわと失っていくのは真っ暗な穴のふちが少しずつ崩れてきているのと同じだった。私たちはゆっくりと失おうとしている。落ちようとしている。

 吹雪が半泣きで叫んだ。

「わらしくんが見えなくなるなんて嫌だ! 見えないし話せないのはいないのと同じじゃん!」

「僕には見えてますから、ずっと見守ってますよ。僕たちはずっと友達です」

「当たり前だよ! 吹雪がいつかオリンピックで金メダル取ったときも、結婚式で綺麗なウェディングドレス着てるときも、ずっと見ててよ!」

「そうですね。吹雪がオリンピックに出るならテレビで必ず見ますし、綺麗な花嫁姿も見ますし、引き出物は僕のぶんもください。おいしいものがいいですね」

 私は黙ってその会話を聞きながら、吹雪はオリンピックに出たいんだ、と驚愕していた。そんな夢を持っていたんだ。陸上にあまりに真剣だから、照れくさくて私たちにはあまり話せなかったのかもしれない。強がりの吹雪だから。負けず嫌いの吹雪だから。

「お前らはみんなわらしがずっと見えてるのか?」

「僕は見えてると思う」

 五月の言葉に時雨が答える。

 意外にも気丈な態度な時雨はまっすぐにわらしくんを見つめた。

「僕たちはわらしくんが見えなくなるのが遅いの?」

 わらしくんはなんだか愛おしそうに小さく笑った。涙が溢れるのではないかと思った目からは何も落ちなくて、泣きたいのは私だと気がついた。

「とても遅いです。大抵の子はまわりに同じ年頃の子が増えると僕が見えなくなっていきましたから。それに比べてあなたたちときたら」

「吹雪も見えてる。ちゃんと見えてるよ。ずっと見えてる!」

 吹雪が涙をぼたぼた落としながら言う。やっぱりわらしくんは愛おしそうに笑うのだった。

 その顔を見ていると、胸が苦しくなる。確実にお別れの日は来ると言うのに、彼は悲しさのかけらも見せず、ただ私たちが愛おしいと微笑む。その表情がもう歪んで見えない。

「私も見えてる。ずっと一緒にいる。私は五人でいればそれでいい」

「本当にあなたがたは甘えんぼうですね。こんなに長く子供たちと過ごしたのは初めてです。それもあなたがたはほんの小さな子の頃から同じ年頃の相手がこんなにいたのに、僕から離れなかったのですから、本当におかしな子たちです。僕はそんなふうに愛してもらったことがこれ以上ないほどの幸せで、大満足ですよ。だからそんなに泣かなくてもいいんです、小夜、吹雪」

 こんなに優しい声がこの世にあるだろうか。私の苦しい心臓を慈しみ撫でる声。そんな声で泣くなと言われても、泣き止むことなんてできるはずもない。

 五月がくちを開いた。

「……俺は、大学に行く。児童心理学をやりたいと思ってる。俺たちみたいに親があまり家にいなかったり、片親になってしまったり、そういう子供の心理とケアを学びたい。俺たちはたまたま互いがいたからここまで健全に成長してこられたけど、仲間もいない、わらしもいないやつはどうすんだって思ったとき、勉強したいと思った。だから俺は大学に行く。成長して大人になって、わらしが見えなくなって、それでも俺はそうするしかできないから」

 初めて聞くことだらけで、苦しかった。

 ここに留まりたいと思うのは私だけなのだ。私だけがこの場から動けないでいるのだ。だけど動けない私をそれでも時間はそのまま押し流していく。結局いつか、わらしくんは見えなくなる。五月は大学生になって、吹雪はオリンピックに出て、時雨は私と反対の進路を選ぼうとする。結局みんな別々の道をゆく。

 涙が止まらなかった。それはこの世の仕組みを恨む、全然美しくない涙なのにとても熱くて、まるで私を慰めるようだった。木の上で、わらしくんが肩を抱いてくれたときのような熱だった。

「小夜」

 これ以上ない優しいわらしくんの声がする。

「何も怖いことはないですよ。小夜は変化を恐れるようですが、昨日の小夜と今日の小夜は違いますし、今の小夜と数時間後の小夜も違うでしょう。小さな変化かもしれませんが確実に違います。そうやって人間は一秒ごとに変化していく生き物なのですよ。小夜を怖がらせるものはありません。人間でない僕をこんなに愛するのですから、きっとどこへ行っても怖いものなしでしょう。小夜が意外と愛情深い子であることはみんな知っています」

「それでも私ここにいたい……」

「小夜。そう出来たら本当にいいでしょうね。でもあなたがたの成長を止めることができる者はどこにもいません。神でさえそれはできない。どんなに苦しくてもあなたは歩いていかなきゃならないのです」

 そこでわらしくんは、ああ、とつぶやいた。それは自分に話しかけているみたいに、内側に向かうような声だった。

 テーブルに置かれた麦茶が静かにぬるくなっていく。

「もしかしたら、そのためにあなたがたには今までずっと僕が見えていたのかもしれませんね」

「どういうこと?」

「あなたがたは甘えんぼうで、ひとりで歩いていくには他の人よりたくさんの思い出が必要だったのかもしれません。ここで遊んだこと、けんかしたこと。時間は平気であなたがたを置き去りにします。そうされないために、置いていかれないよう歩いていけるように、思い出があなたがたの支えになるために、僕はこんなに長い間、あなたがたと一緒にいられたのかもしれない」

 ああ、と思った。進まなければならないのだ、と。私は甘ったれで弱いから、負けないように大事な思い出をたくさんたくさん胸に刻んでおかなければならないんだ。

 けれど時雨が声をあげた。気が付かなかったけれど、その声は涙に濡れていた。

「でも俺は自分の支えにするためにわらしくんといたわけじゃないよ。ただわらしくんが好きだから一緒にいたんだよ。ただみんなが好きだからずっとずっと一緒にいたんだよ」

「吹雪もだよ。わらしくん、これだけはわかって。吹雪は進む。前に前に進む。でもそのためにわらしくんのそばにいたわけじゃないって、それは信じてよ」

 五月は何も言わなかったけれど、ただまっすぐ、少し苦しそうにわらしくんを見つめていた。

 わらしくんは口元をほころばせて俯いた。

「……今まで、そしてこれから先、あなたがた以上に印象に――いえ、思い出に残る子たちはいないでしょう。どうか強く生きてください。何も怖いことはありません。あなたがたにはいつもお互いがいる。僕がいた思い出もある。強く生きてください」

 私はもう耐えきれなくて、テーブルに突っ伏して泣いていた。五月の言葉が、吹雪の言葉が、時雨の言葉が、そしてわらしくんの言葉が私の胸を痛いほど抱きしめるのだ。

 強く生きなければならない。他の誰でもない、いつか会えなくなってしまうわらしくんが言うのだから。

「生きる……生きるよ、わらしくん……」

 くぐもった私の言葉が届いたかはわからない。でもきっと、届いただろう。

 いつも優しく私の話を聞いてくれたわらしくん。彼を心配させないためにも、私も時間に置いていかれないようにしよう。強く、強く生きよう。甘えんぼうはもう、卒業だ。


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