8.子守りの役目

 いつもいたずらや人をからかってばかりの私が神経質になって部屋に閉じこもっているという状況は、さすがの五月や吹雪も動揺させた。

 代わる代わる私の部屋の前にやってきて、ああだこうだ声をかけたり、おやつを置いていったり騒がしかった。居間ではわらしくんを除いた三人で一体何があったんだと喧々諤々しているらしい。

 わらしくんは会話には特に参加せず、ただ見守っているそうだ。何か知らないかと問いただされたときも、ごまかしてくれたらしい。ありがたいことだ。私が、この私がみんなと離れたくないと泣いたなどと知れたらなんとしよう。一生の不覚だ。

 私はただひたすら部屋の中で静かに気持ちの整理をしていた。人生の形を、その理不尽さを、なんとか消化しようと必死になっていたのだ。

 閉じられたカーテンの隙間から指す光がうっとうしい。私がこんなに苦しんでいるのに何のつもりだろう。布団を頭まですっぽりかぶる。

 自分でもどんな八つ当たりだと思うけれど、本当にうっとうしかった。息苦しいほどの人生の形に負けそうになっている私には、一筋の光すらなにかの嫌味に思えて仕方なかった。

 わらしくんは、私がトイレなどに出ていくときを根気強く待って声をかけてくれた。あんな醜態を見せてしまった相手だから、もうなんでも話せた。当然私が今、人生と戦っていることも彼は知っている。それなのに、誰にも言わないでくれるのだ。

 こんな優しい人といつか会えなくなるなんて。いちばん古い記憶にもいるわらしくんが。

 何もかも失って全て思い出という形のないものに変わっていくこの人生というものを、私は憎んだ。けれど憎んだとて、私は人生から逃れられないのだ。だから消化して受け入れるしかない。でも、それがこんなに難しい。

 枕がまたぬるい液体に濡れた。

 

 いつの間にか眠っていたようで部屋は真っ暗だった。のっそりと布団を出て電気をつける。眩しい。眩しいことすらうっとうしかったので、豆電球に変えた。そうしたらたまらなくさみしくなって、私はもう私がうっとうしいと思う。

 喉の乾きを覚えて台所へ向かう。するとまだ居間には電気がついていて、時雨とわらしくんと父がテレビをつけたまま、宿題をしたりビールを飲んだりしていた。私の部屋は真っ暗だったけれど、そんなに遅い時間ではなかったようだ。

「おお、小夜。具合大丈夫なのか」

 風呂上がりのタオルを肩にかけたまま、父はビールをあおる。

「うん、たいしたことないから大丈夫」

「大丈夫じゃないじゃん!」突然、時雨が大きな声をあげた。「全然大丈夫じゃない! 部屋から出てこないし、俺たちの話も聞かないし、一体どうしちゃったのさ!」

「どうした時雨、落ち着け」

 父の驚いた声も届かない時雨は、苦しくてしかたないという顔をして叫ぶ。

「小夜ちゃん全然大丈夫じゃない! ご飯もまともに食べないで、俺たちを避けて、そんなの――そんなのおかしいよ!」

「時雨……」

 私は何を答えていいものかわからなかった。

 吹雪へのひどいいたずらをきっかけに、私はみんな変わっていくのだと、バラバラになるのだと悟った。それが嫌で嫌で、折り合いがつけられなくて、苦しくて息もできないのだと、そんなことを時雨に伝えたくなかった。みんなの前では変わらない「小夜」でいたかった。

 わらしくんは心配そうにこちらを見ていたけれど、父がいるからくちを出せない。

「時雨には関係ないことだから」

 私が言うと、時雨は激高してテーブルをバンと音を立てて叩いた。

「こら、喧嘩はやめなさい」

 父の言葉を聞かない時雨。

「関係ないって何! 小夜ちゃん、大学の話した頃から明らかに変じゃん! なんで俺に関係ないと思うの? 小夜ちゃんの問題は俺の問題でもあるんだよ」

「そんなことない。時雨はちゃんと生きてる。私はうまく出来ない。だから今、飲み込めないことをなんとか消化しようとしてる。それだけだよ」

「全然何言ってるかわかんないんだけど! 俺たちがどれだけ心配してるか知ろうともしないからそんなこと言えるんだよ!」

「喧嘩はやめなさいって言ってるだろ」

 父がビールをテーブルに置いて、真剣味を帯びた声で告げる。私も時雨も黙ってしまった。

「すれ違いがあるなら、きちんと落ち着いて話しなさい。怒鳴り合ってても何も解決しないぞ」

 俯いてしまった時雨。私は「ごめん」とつぶやいて台所へ向かった。

 

 ベッドに寝そべっていると、ふすまの向こうからわらしくんの声がした。

「小夜、少しいいですか」

「うん」

 ふすまを開けると、私とほとんど身長の変わらないわらしくんがひとり立っていた。どうぞと部屋へ招く。

「寝るところだったんですか」

 灯る豆電球に照らされる部屋を見てわらしくんが言う。

「ううん。寝てたけど、寝るつもりはなかった」

「寝るのは良いことですよ。寝不足だと思考も鈍りますから」

「わらしくんも寝不足になったりするの?」

「僕はならないですけど」

 なんだ、とつぶやけば、わらしくんは小さく笑った。

 私がベッドに座ると、わらしくんは机の前の椅子に腰掛けた。わらしくんがいると呼吸が楽になるのと同時に、胸が痛む。なんでも話せると思うから。そして、いつか会えなくなってしまうから。思い出にすがって生きるしかないと思わせるから。

「時雨たちはすごく心配してますよ」

「うん……でも話したくない」

「小夜の苦しみは本当は僕でなく、みんなに話すべきものだと思うんです。僕はしょせん子守りですけど、時雨も五月も吹雪もあなたの兄妹のようなものでしょう。繋がりは一生ですよ」

「どうしてそんな悲しいこと言うの……」

「本当のことですよ。僕はいなくなるわけじゃない。見えないだけでずっとこの家にいます。でも他のみんなはずっと見えるでしょう、常にそばにいるわけじゃなくても今ならどんなふうにだって連絡は取れる」

「わらしくんはさみしくないの」

「僕は子供がこの家で成長していくことがうれしいです。それが例え見えなくなって話せなくなるとしても。それにしてもあなたがたは僕の見えている時間が本当に長くて、それだけで満足ですよ」

 薄暗い豆電球のもとで、わらしくんは本当に満足そうに笑っていた。長い前髪に隠れがちな瞳が、満ち足りたように潤んでいた。

「お父さんに聞いてみてはどうですか。もしかしたら僕のことを覚えているかもしれませんよ」

「えっ! パパの子供の頃? わらしくん、パパと一緒にいたの?」

「この家の子供の子守りをするのが僕の役目ですから。お父さんはこの家で育ったでしょう」

 たしかにそうだ。この古い家はもともと父方のおじいちゃんとおばあちゃんが暮らしていたものだ。だったら父がここで育ったことも当たり前のことなのに、今まで全然そのことに気がつかなかった。

「聞いてみよう、かな……」

「それがいいですよ。きっと小夜の助けになる話が聞けます」

 そうだろうか、と思ったけれど、わらしくんがあんまり確信を持って微笑むものだから私は居間に戻る決意をしたのだった。

 

 居間に戻るとまだ父も時雨もいた。戻ってきた私に時雨は驚いている。

 私は父の向かい側に腰を下ろした。

「ねえパパ。小さい頃、茶色みたいなグレーみたいな色した着物着た男の子、友達にいなかった?」

「んん? なんだ急に」

「いいから思い出して」

 そうだなあ、と父は首をひねる。時雨が訝しそうにこちらを見つめている。テレビの音がうるさかった。どうか思い出して、と私は強く願っていた。

「ああ、そういえばいたなあ。名前も覚えてないけど、いつも一緒に遊んでた気がするな。そのうちいなくなっちまったけど、懐かしいなあ」

 わらしくんだ。間違いない。父はもしかしたらずいぶん早くにわらしくんが見えなくなったのかもしれなかった。

「なんで知ってるんだ?」

 不思議そうな父の質問は無視して私は続けた。

「いなくなったとき、悲しくなかった? ずっと一緒にいたんでしょ」

「うーん、どうだったかなあ。悲しかった気がするなあ。でもたしかパパは小学校に上がった頃で、学校がそりゃ楽しかったから、そっちに気を取られてたんだろうな。しばらくして、そういやあいつ見かけなくなったな、引っ越したのかなと思って悲しかったよ、今思い出した」

 やっぱり悲しかったんだ。当たり前だ。ずっと一緒にいた友達がいなくなれば悲しいに決まっている。落ち込みかけた私に、けれど父は続けた。

「でも後で思うと、そいつがいたからうまく学校に溶け込めた気がするんだよな。なんつーか、人と仲良くする方法をそいつに教えてもらったというかさ。パパは伯父さんと少し年が離れてるから、年齢の近いやつがまわりにそいつくらいしかいなくてな」

 ほら、ここは小学校から少し遠いだろ? と父は言い足した。

「懐かしいなあ。あいつ今頃何してるんだろうな」

 ここではない遠くを見るような父。思い出を振り返っているのかもしれない。

 わらしくんは父に人との付き合い方を教えた。ずいぶん早くに見えなくなって忘れていたけど、言われて思い出す程度には記憶に残っている。

 わらしくんは、そういう存在なんだ。

「ありがと、パパ」

「いや、いいけど、なんでそいつのこと知ってるんだ?」

「内緒」

 納得いかない様子の父を置いて私はまたわらしくんと自分の部屋へ戻った。

 わらしくんは自分を子守りと言う。父の話を聞くと、本当にわらしくんはそういう役割で、こんな年齢まで一緒にいる私たちが特別なのではという気がしてくる。

「……パパ、覚えてたね」

「そうですね。嬉しいものですよ」

 すると、ふすまをノックする音がした。

「時雨だけど」

「……どうぞ」

 迷ったけれど、入ってもらうことにした。時雨もさっきの父の話には驚いているだろうから。

 ふすまを開けて入ってきた時雨はどこか気まずそうな、けれど興味が隠せない瞳をしている。

「……なんでこんな薄暗くしてるの?」

 そういえば豆電球なのを忘れていた。ちょっとね、と答えながら蛍光灯に切り替える。眩しい。でもさっきみたいな嫌な感じはもうしなかった。わらしくんと時雨がそばにいるからかもしれない、と思った。

 時雨は床のクッションにいつものように座る。

「なんでパパにあんなこと聞いたの?」

「……わらしくんが、いつか私たち、わらしくんのこと見えなくなるって言うから。パパの小さい頃も知ってるんだって」

「えっ!?」

 時雨も初耳だったようで、目を丸くしている。

「どういうこと? なんで見えなくなるの?」

 わらしくんは私にしてみせたような説明を時雨にも丁寧にする。

「そんな……」

 時雨はそれらを聞き終え、悲しげな犬のような表情をしている。耳もしっぽも垂れてしまったような。

「小夜ちゃんが塞ぎ込んでるのも、このせい?」

「それもあるけど……」

 言い淀んでいると、わらしくんが柔らかく私の背を押した。

「小夜、言ってしまいなさい。何も恥ずかしいことはないじゃないですか」

「私らしくなさすぎて恥ずかしい」

「そうですか? 小夜らしいと思いますけどね。みんなのことが大好きな小夜らしい」

 そこで時雨がくちを挟んだ。今しかない、という決意の目。

「小夜ちゃん、何に悩んでるの?」

 私はゆっくり深く息をついた。木の上で泣いたときも、そんなキャラじゃないのにと思った。けれどそれすら私の知らない私らしさだとするなら、話すことにもうためらいはなかった。

「……あのね、私は嫌なの。みんながバラバラになってしまうのが。みんながずっと一緒にいてくれないのが。成長して大人になって、五月も吹雪も時雨もそれぞれの道に行ってしまう。そのうえ、わらしくんのことまで見えなくなるって言う。つらくてつらくて、どうしていいかわからない」

「小夜ちゃん」

「五月は大学に行く準備を始めた。きっと家を出る。吹雪は勘違いだったけど、彼氏ができたかもしれなかった。時雨も大学のことを考えてた。私はただただ一緒にいたいと思うだけで、他には何も考えたくなかった。何もいらなかった。でも人生はそうはいかないでしょ。それを受け入れて飲み込むのに、すごく苦労してるの。苦しくて息もできないくらいに」

 時雨は私の気持ちを聞いてどう思ったのだろう。少し困ったような、驚いたような複雑な表情で私を見ている。

 やっぱりキャラじゃない、恥ずかしい、と話を切り上げようとしたところで、時雨がくちを開いた。

「……小夜ちゃんがそんなこと思ってたなんて全然知らなかった。知ろうともしなかった。だって小夜ちゃん、いつも楽しそうだったから……」

「だってキャラじゃないでしょ、こんなの」

「キャラとかじゃないよ、誰だって悩むことはあるよ。話してほしかった」

「……時雨も何か悩んでるの?」

 時雨は問われて、一拍置いてからすっと息を吸った。

「小夜ちゃんが大学に行きたいなら、俺は就職しようかなって思ってた。本当は一緒の大学に行きたいけど、ふたり同時に大学入学なんてきっとうちでは無理だよ」

 時雨のまっすぐな瞳に私は思わず涙が落ちそうになった。時雨も私とこれからも一緒にいたいと思っていたんだ。

「……ごめん、大学のことはあまり考えたことない。時雨が行くなら行きたい。できれば五月の行くところに行きたい」

 私の言葉に時雨は短く笑った。

「俺と同じだ」

 その目に薄く涙が滲んでいたように見えたのは気のせいだっただろうか。

 

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