7.胸の嵐
あれからしばらく、根付いてしまった不安にふらふらと落ち込んでいたけれど、差し迫った危機があるわけでもなし、時雨やわらしくんが甘やかしてくれることもあって、やがてそれも薄れていき私はすぐにいつも通りの調子に戻った。結局何もなかったも同然で、つまり何も変わりなかったからだ。
そんなある日、五月が予備校に行くと言い出した。
「予備校?」
ポテトチップスの乗った皿に手を伸ばしながら時雨が首を傾げる。
「なんで? どこ?」
「なんでって、受験だからに決まってるだろ。駅前のところだよ」
「予備校って塾でしょ? 五月くん行く必要あるの?」
「あるから行くんだけど」
なんでなんでと子供のように絡む時雨に、面倒くさそうなため息をついた五月は雑にポテトチップスを手に取りばりばりと食べた。
縁側の向こうで庭が薄暮に沈んでいる。枝を広げた木の葉が揺れ、芝生に落ちたかすかな影もまた揺れる。
一日の終わっていく感じがとても好きだったのに、近頃はなんだか憂鬱な気がした。終わってしまうことが、災害にも似た理不尽さを感じさせるのだ。一方的に、有無すら言わさぬ圧倒的な力と早さで、躊躇う様子もなく冷徹に幕切れを連れてくる。そんなこと望んでもいないのに、勝手にそうされてしまう。また胸の内側がもやもやと言い知れぬ不快感に満ちていく。
そんなに勉強が好きかね、とつまらなさそうに時雨があごをテーブルに乗せた。
「いつから行くの?」
「七月から。まだ少し先だな」
七月。私はそれをひとつの区切り、章の終わりのように感じた。
五月は前々から大学に進学すると言っていたのだから、受験勉強をして、受験をして、どこかしらの大学に行くのは普通のことだ。五月が受験校全てに落ちるとはちょっと考えにくいので、ほぼ確実と言っていいだろう。そんなことはわかっていたことだ。
なのに私は、七月なんて来なければいいと思った。このままでいい。何も変わらなければいいのだ。
「お前らだって来年受験だろ。他人事みたいに言ってるけど」
片膝をたてただらしのない格好で、五月は胡乱げに言う。私と時雨は顔を合わせた。
「小夜ちゃん大学行くの?」
「さあ、知らない。時雨は行くの?」
「わかんないなあ」
「どうやら考えるってことを知らないみたいだな」
首を傾げあっている私たちと、至極冷静な五月のツッコミ。
来年のことなど考えられない。今と同じようであればいいとだけ、それだけを思う。
「でも」と急に時雨が考えるように視線を上向けた。「俺たちふたり大学に行けるお金、うちにあるのかな」
ドキリとした。お金というあまりにも現実的な言葉が時雨のくちから飛び出してきたからだ。
うちは父子家庭で、年齢の同じ子供がふたりいて、決して経済的に余裕のある家庭ではない。奨学金をもらうにしても、同時にふたりを大学に行かせられるのだろうか。私はどうしても学びたいことなど思いつかないし、そうしたら就職ということになるのだろうか。
将来のことを考えるともやもやする。胸が苦しい気がする。
どうして人は成長するのだろう。変わっていけなければならないのだろう。
私はずっと、五人で遊んでいられればそれだけでいいのに。
「小夜ちゃーん、具合どう?」
ふすまをノックして時雨が声をかけてくる。
何の予定もない日曜日のお昼。私は具合が悪いと言って金曜帰宅してからほとんど部屋を出ていない。
その間、五月も吹雪も来たけれど顔も合わせなかった。顔を合わせたらつらくなることがわかっているからだった。
私は一体どうしてしまったんだろう。大好きな時雨とも楽しく話せなくなっている。だって時雨が私と大学に行くという選択肢を取り出してみせたから。現実的な、どこまでも現実的な選択肢を。
五月は「考えるってことを知らないみたいだな」と言ったけど、時雨はそうじゃない。ごく自然に考えている。考えることを拒絶しているのは私だけだ。
「ごめん、頭痛くて」
時雨にそう嘘をついて、部屋に閉じこもる。これだって苦しいことだ。顔を合わせようとも、避けようとも苦しいことに変わりはない。一体この苦しみをどうしたらいいのだろう。神様。神様、もしいるのなら時間を止めて。私を、私たちをこれ以上大人にしないで。
誰とも話したくない。けれどこの胸のつかえを吐き出させてほしい。
こんな気持ちになるのは初めてだった。いつも心は晴れているか、心地よい曇り空で、こんなふうに嵐が吹き荒れたことはない。どうしていいかわからない。
私はベッドに突っ伏して体を丸めた。嵐を抑え込むように。
どうか、どうか。誰に何を願っているのかもよくわからなくなってきた頃、ふいに頭に浮かんだ人がいた。
わらしくん。わらしくんなら私の気持ちをわかってくれるんじゃないだろうか。彼は一応見た目は成長してきたけれど、私たちより長い長い時をそのままの状態で過ごしてきているのだから。変化を恐れる私の気持ちをわかってくれるんじゃないか。
私は時雨に見つからないようそっと部屋を出た。
私の心とは反して穏やかに雲が浮かぶ空。それを見上げるようにわらしくんは縁側にキナコと一緒に座っていた。
「おや、小夜。具合はもういいんですか」
「しっ。誰にも見つかりたくないの。外で話せない?」
「そうですか。じゃあ庭にでも出ますかね」
よいしょ、とわらしくんは立ち上がる。そしてそのまま庭へ出ていってしまった。私は急いでサンダルを履き、そのあとをついていく。
「木陰が気持ちのいい季節になってきましたね」
たしかに、空気がだいぶぬるくなった。私はこのくらいのぬるさがいちばん好きだ。暑くもなく寒くもなく。庭の大きな木からこぼれ落ちる木漏れ日がきらきら光っている。
「わらしくん、聞いてほしいことがあるんだけど、他の人には聞かれたくないから、木に登らない?」
「え? 木に?」
「わらしくんなら軽々登れるでしょ」
「そりゃ登れますが、小夜はどうなんですか」
「昔取った杵柄!」
小さい頃はずいぶんここで木登りしたものだ。その感覚をまだ手足は覚えていると思う。ここ数年まともに登っていなかったとしても。
苦労しながら、枝を掴み、幹を踏み、体を持ち上げていく。昔の感覚からすれば体がずいぶんと重くて、やっとの思いで昔よく登った場所までたどり着く。木の肌はざらざらしていて、ところどころ鋭いところもあり、体重を支えてきた手のひらが痛い。この時点で胸の嵐はだいぶ収まってきていたけれど、それは木登りによって気が紛れたのに過ぎないと自分でもわかっていた。
「小夜もまだまだいけますね」
悠々とここまで登ってきたわらしくんにそう言われるとなんだか少しムッとする。けれど彼は人間ではないのだから比べてはいけない。太い幹に並んで腰掛けた。
「ここなら落ち着いて話せるかな」
家に背を向けて座っているのでわからないが、時雨か誰かに見つかればすぐに騒がれるのでわかるだろう。
「こんなところに登ってまで何のお話ですか」
「あのね、わらしくん……成長することってどう思う?」
「成長、ですか?」きょとんとした顔のわらしくん。「僕自身には成長という概念がほぼないのでよくわかりませんが、あなたがたの成長はしっかり見てきましたよ」
「わらしくんは大人にならない?」
「ならないとも言えますし、もう大人とも言えます。二百年は生きてますから」
「参考にならない数字」
「僕は人ではないですからね。大人がどうかしたんですか?」
「私たぶん、大人になるのが怖い……大人になって、みんなバラバラになって今みたいに一緒に遊べないのが苦しい。それなのにみんな変わっていっちゃう。五月は大学に行く準備を始めるし、吹雪は誰かと付き合うところだった。勘違いだったけど。おまけに私と同じだと思ってた時雨だって、大学のこととか考えてる。みんな先に進もうとしてる、私は行きたくないっていってるのに」
吐き出すようにした言葉の意味がわらしくんに伝わっているのか、よくわからなかった。伝わっていないかもしれない。それでも胸につかえているものを吐き出したくて仕方がなかったのだ。
「小夜にしては珍しく感情的ですね」
「自分でもそう思う。だから苦しくて」
「そうですか……」
ぽつりとわらしくんはつぶやいて、そのまま黙ってしまった。風が吹いて、周りの葉がさわさわと音を立てて揺れる。なんだか急に泣きたくなる。
しばらく黙っていると、わらしくんがくちを開いた。ぽつりぽつりと言葉を落とすように。
「僕は、あなたがたの成長をずっと見守ってきました。こんなこと、小夜には何の気休めにもならないのかもしれませんが、あなたがたはたしかに成長しました。でも関係は何も変わっていませんよ」
わらしくんが微笑む。
「だけど……」
「そうですね。大人になって居る場所が別々になることはあるでしょう。そういう変化はあるでしょう。けれどバラバラにはならないと僕は思いますよ。きっと事あるごとにあなたがたは集まって、すぐに子供のように遊んで言い合いを始めるんだと、僕は思います」
そうなんだろうか。私はわらしくんの言い分にうんと頷けないでいた。けれど少しだけ気が軽くなったのはたしかで、嵐も落ち着いていく。
妥協なんだな、と思ってしまった。
私は、本当は居場所も別々になりたくない。私と時雨はここにいて、五月と吹雪は隣にいて、そのままがいい。けれどわらしくんはそれは否定してくれなかった。つまり私たちはきっと確実に別々の場所へといずれ行くことになるのだ。そのとき、私とわらしくんだけがこの家に残るのかもしれない。
返事をしない私にわらしくんは優しく微笑みかけた。
「閉じこもったりして、小夜にしてはずいぶん落ち着かないようでしたね。つらかったのでしょう」
「……つらかった。こんなに苦しいの、初めてだった。先の話なんてひとつもしたくない」
「小夜は愛情深いけれど、少し依存心が強いですね。大丈夫です、僕は時間を止めることは出来ませんが小夜が望むかぎりそばにいることは出来ます。いつまでもです。小夜が必要とする限り、ずっと」
「ずっと必要だよ、当たり前じゃん、そんなこと言わないでよ。まるで必要なくなったらいなくなるみたい」
「いなくなるんですよ」
「え……」
「いなくなるんです。正確に言えば見えなくなるんですかね。僕はこの家の子供の遊び相手をしますが、その子に僕のような遊び相手が必要なくなればだんだん見えなくなってしまうようです」
わらしくんが何を言っているのかわからなかった。頭の中がしびれるみたいに言葉を拒否しようとする。けれど、じわりじわりと滲むように理解が追いついてくる。
こんな重大な話初めて聞いた。
「は、初めて聞いたけど……なんで今まで教えてくれなかったの? 私たちもいつかわらしくんのこと見えなくなっちゃうの?」
わらしくんは着物の帯をゆったりと撫でながら風に目を細めた。ざわざわ、葉擦れの音がする。木漏れ日が降る。なのにどうして?
「たぶんですが、五月がいちばん最初に見えなくなるのでしょうね。それでも遅いほうだと思いますよ。今までの子は遅くても中学生くらいの年齢になると少しずつ見えなくなっていったようですから」
「どうして、どうして見えなくなるの?」
詰め寄る私にもわらしくんは動じない。
「どうしてでしょうねえ。僕は子守りの役目があるみたいなので、その子に子守りが必要なくなったら見えなくなるということなんじゃないでしょうか。それにしてもあなたがたはいつまでも僕が見えていますね」
くすくすと笑うわらしくん。
私は絶望していた。絶望の泥沼に落ちて溺れていた。
私は五月と吹雪を失い、時雨を失い、わらしくんまで失うのか。大人になるというのは、そういうことなのか。
めまいがした。太い木の枝に座っているはずなのに、どこまでもどこまでも落ちていくような気がする。真っ暗な場所へゆっくりと。そこは泥沼だ。足がはまったらもう抜け出せない、絶望と言う名の泥沼。
「じゃあ、わらしくん、私どうしたらいいの」
どうしたらいいの。嫌だ嫌だとごねても時間は止まらないことはわかっている、わかっているのに嫌なのだ。誰も私のそばからいなくならないでほしい。一緒にいてほしいのだ。
「小夜は本当に甘えんぼうですねえ。手のかかる子ほどかわいいと言いますけど、そのとおりだと思います」
「手をかけ続ければわらしくんはずっと一緒にいてくれるの」
「小夜に見えなくなるだけで、僕はずっとそばにいますよ」
「一緒にいてよ。誰もいなくならないでよ」
「……よしよし、泣かなくても大丈夫ですよ」
とびきり優しいわらしくんの声。肩を撫でる手が温かい。何も大丈夫ではなかった。けれど大丈夫であることをどうにかして信じたかった。わらしくんはそんな声と手をしていた。
「私はみんなとずっと一緒にいたい。五人でいて、パパがいて、キナコがいれば他には誰もいらない。どうしたらいいの。胸が痛くて死んじゃう。わらしくん、私どうしたらいいの」
痛む胸をかばうように背を丸めた。
わらしくんは私の肩を撫でながら柔らかく抱き寄せてくれた。
「こんなに僕と別れるのを惜しんでくれた子は小夜が初めてです。僕はそれだけで充分だ。小夜も思い出を支えに生きていけばいいんです。人は大抵皆そうします。小さな頃に満たされたことがあれば、それがちからに変わります。小夜は高校生になってもまだ好きな人たちに囲まれて生きているから、きっと大きなちからが出るでしょう。ちょっと長い間囲まれすぎて飛び立ちがたくなっているんですよ」
思い出。そうか。これらの日々はいつか思い出になるんだ。例えばもっと小さかった頃のことが懐かしく思い出されるように、今のこの日々もいつか懐かしくなるんだ。私は否応なく大人になってしまうんだ。きっと私は五月を、吹雪を、そして時雨を、わらしくんを手放さなければならない。それは良いとか悪いとかではなくて、人生というものがそういう形をしている、というだけのことなのだ。きっとそれだけのことで――
神様はいじわるだ。
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