2.古い家

「あ、忘れてた」

 後藤、と表札のついた門扉に手をかけ、今まさに別れの挨拶をしようとしていた五月がぽつりと言った。私と時雨は足を止める。

「どうしたの」

「これからそっちに吹雪をやってもいいか」

「うん、もちろん。おじさん出張中なんだっけ」

「それもあるけど、俺明日テストだから。あいついたらうるせえし、いないうちに勉強する」

 最近急激に生意気になった妹・吹雪を思い浮かべているのか、五月は顔を歪めて少し乱暴に後頭部をかく。

「三年生はテストなの?」

「まあ、小テストだけどな。中間試験近いから真面目にやっとかないと」

 試験が近くなくても五月は真面目だ、と思ったけれど、口に出すのはやめておいた。性格が真面目なのと、試験前に真面目に勉強することは違うんだとくどくど語ってきそうだからだ。

「ふうん、中間近いのかあ……」

 他人ごとのように時雨が呟いた。

 五月は受験生なので、これからさらに真面目に勉強に励んでいくのだろう。

 以前ならば、普段からきちんと勉強しているから、小テストくらいで吹雪を追い出してまで集中しようとすることなんてなかった。

 たしかに吹雪はうるさいし、何と言っても受験生なのだから勉強するのは当たり前とは言え、少しだけ嫌な気分になってしまう。胸の中に小さな塊とも言えない何かががもやもやとよぎった。何なのだろう、これは。喉元に何か引っかかっているような。

 じゃあよろしく、と五月は今度こそ門扉を押し開け、家へ入って行った。その後姿を見送って、私たちもそのすぐ隣の家へ帰る。

 私たちと五月の家、どちらも昔から両親が留守がちだった。

 うちの母はもう十年前に他界しているから、必然的に家に親の居ない時間が長いし、五月のところは長めの出張が多い。出張するのはおじさんだけれど、それに大抵おばさんもついていくのだ。ちょうど今もふたり揃ってどこかへ出張している。

 だから私たちは家が隣同士なこともあって、小さな頃から家族ぐるみで仲が良かった。いわゆる幼馴染だ。

 まだ五月も吹雪も幼い頃は、おばさんが長期出張についていくなんてことはさすがになかったけれど、ちょっと家を空けるようなときは必ずうちへふたりを預けて行った。うちの母も生前はずっと働いていたので、その逆もたまにあった。

 でも私たちがあまり手のかからない年齢になってからは、五月のおばさんは長期出張についていくようになり、元々子供だけの時間が長い私たちと五月たちはまとめてどちらかの家で過ごすことが多かった。

 両親が留守がちで、全く寂しくなかったかと言えばそれは嘘になるかもしれない。でも、とても寂しかったという悲しみみたいなものが後を引くほどではなかった。だって私にはいつでも時雨がいたし、五月と吹雪も、それからもうひとり大事な友人がいた。みんなでいれば、私は寂しいと思う暇もなかった気がする。そしてそれは、あの頃から今も変わっていない。

 五月と別れてから数歩だけ歩いて、自宅へと到着する。

 うちは古い。本当に古い。この家は、元は父方のおじいちゃんのものなんだそうだ。

 私と時雨は生まれてすぐにこの家へ越してきた。

 そのとき既に父方のおじいちゃんとおばあちゃんは、父のお兄さん一家と同居していて、そちらのほうでこの古い家を取り壊すべきかどうかで揉めていたのだそうだ。そこへ父が「俺たちが住むわ」と割って入り、家賃ゼロの一軒家をちゃっかり手に入れた。父と母の通勤時間が少々長くなったけれど、一度にふたり生まれた子供を抱えての家賃ゼロはとても魅力的だったらしい。

 ともかくそのときに既に取り壊し案が出ていたほど古い家だ。二階建てで、敷地はやけに広い。部屋は全て畳張りだ。フローリングに憧れもあるにはあるけれど、私は案外畳が好きだった。寝そべってうとうとしている人などの腕や頬に畳の跡がつくのがなんとも良いのだ。

 玄関の扉は引っ越してきた直後に少し頑丈なものに取り替えたそうだ。それまでは木の引き戸だったそうだけれど、今は立派なアルミサッシの引き戸である。その戸は、カラカラと控えめな音を立てて動く。

「ただいまー」

 時雨は家の奥まで届くような挨拶をする。

 もちろん父はまだ仕事中で家にはいないが、実はうちにはもう一人、家族と呼んでも差し支えないような人――人と呼ぶのは差し支えるような――がいるのだ。

 時雨の後から私も声をかけると、廊下の奥からひたひたと裸足の足音がする。それが私たちの友人、または家族の、通称わらしくんだ。

「おかえりなさい」

 上がり框のうえで、わらしくんはにこりと私たちを出迎えてくれる。

 薄い茶色と薄いグレーの中間くらいの曖昧な色をした着物を少しだらしなくてれんと着ていて、長い前髪が目の上あたりで揺れた。見た目は私たちと同じか少し年下くらいだけれど、実年齢は全然違うらしい。本人談。

「今日は何かおもしろい事ありましたか」

 靴を脱ぎ、どかどかと家へあがる私たちに、わらしくんは穏やかな家政婦さんみたいな口調で話しかける。

「宿題、やっていかなかったやつ、怒られちゃったよ。放課後呼び出しで」

「やっぱり。だから言ったのに」

「いいのいいの、もう済んだことだから」

 反省しないところが時雨の良いところだと思う。

 人のよく歩く真ん中辺りだけ、つや消しがかかったように曇っている深い色の廊下。そこを私たち三人はばたばたと足音も高く進んでいく。途中、飼い猫のキナコとすれ違った。雑種のちょっと太り気味の茶白猫だ。キナコも挨拶に来てくれたのだろうか、ただいまと声をかけると短くにゃあと鳴いた。

 自室に入って、服を着替えているときだった。

「ねえ、あれ観ましょうよ、映画」

 襖の向こうからわらしくんのウキウキとした声がする。

「お、そうだね!」

 次いで隣の部屋からは時雨の声。

 先日レンタル店で借りてきたDVDのことを言っているのだろう。

 私はタンスから適当に部屋着を引っ張りだし、手早く着ていく。前に五月のおじさんがお土産に買ってきてくれたタイのTシャツに、そのそばにしまってあった黒いショートパンツ。それに紺色のハイソックスは履いたまま、椅子に引っ掛けてある薄手のパーカーを手に、部屋を出た。

 私と時雨の部屋は一階だけれど、以前は二階にあった。あった、というかいまだに二階にあると言えばある。

 この家は部屋数が多く、もともと一階の裏庭側にある部屋はみんな空いていて、ほとんど通路のようにして使われていただけだった。母は掃除が大変だからとあまりたくさんの部屋を使うのを嫌がっていた。必要最低限の部屋数だけを生活に使えば良いのだと言って、私と時雨の部屋を二階に、居間と両親の部屋を一階の表庭に面した縁側沿いに置き、それ以外はせいぜい私たちが走り回って遊ぶくらいにしか使ってはいなかったのだ。

 ところが母が死んで、私たちが家のことをよくやるようになったせいか、この家は自分たちのコントロール下にあるというような意識がいつの間にか芽生えてきて、あらゆる場所へじわじわと侵食を始めていくようになった。私たちが楽しいように、使いやすいように、居心地の良いように、望むまま。

 今は、裏庭側の居間にほど近い部屋を自室として使っている。もちろん時雨とは隣同士だ。

「わらしくん、牛乳プリン好きだったよね」

「好きです」

 コンビニの袋を掲げて見せると、わらしくんは嬉しそうに頷く。私や時雨同様、甘いものはわりと好きなようだった。

 すぐに時雨も部屋から出てきて、私たちは揃ってDVDを見ながらそれぞれプリンやらチーズケーキやらを食べた。

 畳の上に敷かれた毛足の長い絨毯、座椅子のような低さのソファ。夕暮れの陽射しがガラス越しに縁側の廊下を照らす。

 映画はこれといった盛り上がりもなく、事あるごとに三人で言葉を交わしながら観た。

 観始めて一時間ほど経った頃、五月の妹、吹雪がやって来た。

「遅かったね」

「吹雪にだって宿題あるのに、アイツ早く隣行けってうるっさいの。これでも急いで終わらせてきたんだから」

 そう言って頬を膨らませ、時雨の隣に座る吹雪。

 去年辺りから急に生意気になった吹雪は、主に実の兄である五月に牙を剥く。反抗期というやつなのだろうか。でも親に対してはさほど棘々している様子はなく、やっぱり五月に対する態度が誰よりも尖っている。そして五月の性格からして、それをはいはいと聞き流したり、ましてや宥めたりすかしたりなんてことが出来るはずもなく、ますます吹雪がヒステリックになったりするのだ。兄妹げんかである。

「あ、これ前にテレビでもやってたよね。吹雪見たことないんだ、おもしろい?」

 テレビに目をやり、吹雪はころりとご機嫌になる。時雨の腕を取り、最初から観たいと駄々をこねた。

 そうしてみんなで画面を眺めつつ、夕飯の相談をする。肉じゃがだとかラーメンだとか、オムライスに焼きそば、親子丼といろいろな案が出たけれど、協議の結果グラタンに決定した。グラタンは父も好きなので用意しておくと喜ばれる。

「五月も食べに来るんでしょ?」

「さあ、知らない。でも来るんじゃない? どうせアイツ一人じゃ何も作れないし、今頃きっとさみしがってるよ」

 ひひひ、と意地悪そうな笑い方をして台所に立つ吹雪。一人じゃ何も作れないのは吹雪だって同じだとのつっこみが込み上げてきたが、でもそれを言うとまたうるさいのでおとなしく飲み込むことにする。大物を飲み下すのは苦しい。

 マカロニを茹でる時雨の横で、吹雪は楽しそうに何事かをしゃべりながら突っ立っている。グラタン皿を手にしたまま。わらしくんは、だらだらしゃべりながら料理をする私たちを、椅子に座ってにこにこ眺めていた。

 やがて、夜空に星の輝く頃、やはり五月はやって来た。

「そろそろ飯の時間かと思って」

 けれどまだ未完成だと知ると、早まったなとぼやきつつわらしくんの隣に座り、つけっぱなしのテレビを見始める。手伝うという気持ちはないらしい。

 それから少しして、五月の「まだー?」という間の抜けた声をほぼ同時に、オーブンレンジのかわいらしいメロディが鳴った。

 

「小夜の番ですよ」

 色鮮やかなテレビ画面を眺めていると、わらしくんに声をかけられてはっとする。

「あ、ごめん」

 私はわらしくんの手に複雑な線で絡みついている赤い毛糸を指先でつかむ。ソファに並んで腰掛けて、二人あやとりをしているのだった。

 食後の満腹感で、五月までもがテーブルにだらしなく頬杖をつき背中を丸めて座っている。

 テレビの前には時雨と吹雪が陣取り、ゲームに興じていた。画面には小さくて丸っこいキャラクターと二頭身ほどのキャラクターが、ステージ上を素早く暴れまわっている。戦っているのだ。五月はスマホで攻略サイトを見ているらしく、時折ふたりに頼まれては技の使い方のコツみたいなものを読み上げていた。

 テーブルの上には五つのマグカップが置いてあって、もうすっかりぬるくなった麦茶が入っている。これは五人それぞれ専用のマグカップだった。私が赤、時雨が水色、わらしくんが黄色、五月が青で吹雪がピンク。そこに白い水玉模様が入っているものだ。もう何年も前に閉店セール中の雑貨屋で見つけて買った。

「ああ、また負けた!」

 吹雪が悔しそうに叫んだ。

「吹雪ちゃんは本当弱いなあ。次は俺、シールド使わないでやろうか」

「ほんと? いいの?」

「いいよ。ねえ五月くん、初心者でも使いやすいキャラって何かわかる?」

 すると五月がちら、と吹雪に意味ありげな視線を寄越してから、時雨を見る。

「何でもいいけどさ、どうせまた時雨の勝ちな気がするけどな」

 五月がぼそりと言うと、「なんで?」という時雨の声と、「ばかっ」という吹雪の声が重なった。

 吹雪は、時雨が好きだ。でもそれが本気の恋愛感情かと言えばちょっと違うような微妙なところだけど、何がしかの執着心は持っている。だから私に対しても、時折嫉妬、というかヤキモチを焼いたりする。最近は特に顕著になった。生意気になったのとなにか関係があるのかもしれない。年頃というやつなのだろうか。まあ、私よりふたつ年下でしかないけれども。

 ともかくそれを見て私はにやにやとし、わらしくんは目を細めて微笑んだ。彼はあまり声を上げて笑ったりしないけれど、充分に楽しんでいるときはこうして微笑んでいる。なんだか小さな子供か動物を見守っているような感じがしなくもないけど、それは彼の愛情ゆえだと私は思っている。

 私たちはこうやって、多くの時間を一緒に過ごしている。それはもう物心つく前からのことだ。

 五月に指摘されたからか、それとも元より負ける気などなかったのか、次の戦いは吹雪の勝利に終わった。五月はもう、ふたりの戦いを見ていることにうんざりしているようだった。

「負けた負けたー」

 一段落といった感じに伸びをして、時雨はぬるい麦茶を飲む。私とわらしくんは相変わらずあやとりを続けているけれど、すでにお互い作業のようになってはいた。惰性で続いているだけで。

「やっと吹雪も勝ったことだし、俺帰るわ。勉強しねえと」

 違うゲームしようよ、と吹雪が甘えているところで、五月が立ち上がった。スマホの画面を消し、ポケットにねじ込む。

「えー、もう帰るの? まだ八時前だよ」

 甘える吹雪をするりとかわし、今度は時雨が拗ねた顔で五月にまとわりつく。吹雪が時雨に特別懐いているように、昔から時雨は五月に妙に懐いている。

「だから明日テストなんだって。帰って勉強すんの」

「五月くん頭いいんだから、小テストくらい別に大丈夫でしょ。いつもはそんなに勉強したりしないじゃん」

「大丈夫って何がだよ」苦笑する五月。「しょうがねえだろ、受験生なんだから」

「時雨ちゃん、いいじゃん、お兄ちゃんなんてさ。ほら、早く帰りなよ。ガリ勉はガリガリ勉強だけしてれば?」

 吹雪が挑発するような表情をして、時雨の腕を取る。

「お前はほんっとにむかつくな。オイ時雨、あと小夜もわらしも、こんなクソ生意気なガキ、邪魔なだけだしさっさと追い出していいからな。じゃあ俺まじ帰るから」

 吹雪を追い出したところで、彼女の帰る場所は五月の家なわけだけれども。しかし、きーっと叫ぶ吹雪を見向きもせず、五月は自分の分のマグカップを台所に置いて帰っていった。

 あーあ、とつまらなさそうに口を尖らせる時雨。きっと五月のことを自分の兄のようにどこかで思っているのだ。私にも少しそういう節があるからなんとなくわかる。

「吹雪はまだ帰らないの?」

「なにそれ、まだ帰らないよ。悪い?」

 特に他意なく聞いたけれど、吹雪は食って掛かってくる。こういう反応を予想できてはいたものの、やっぱり少しおもしろい。ちょっと突けば大騒ぎで、まるで蜂の巣みたいだ。

「悪くはないけど?」

 言ってにやりと笑って見せれば、吹雪は両腕をばたばたさせながら悔しそうに騒いでいる。からかい甲斐があるのだ。

 けれどこれは時雨とわらしくんにあまり評判がよろしくなかった。あまりいじめるなよ、と時雨は弱った顔をする。でも反対に、五月はもっとやれ、どんどんやれと煽ってくる。私はどちらのご期待に応えてよいものか時々迷う。

 おとなげないのは百も承知。けれど実際まだ大人ではないし、実のところぎゃあぎゃあ言い合っているのをお互い楽しんでもいるのだ。それはくだらないことで不毛な言い争いを繰り返す時雨と五月のように。

 再びテレビの中でキャラクターが戦い始めた頃、作業となったあやとりも私とわらしくんの間で再開された。今度はキャラクターの扱い方の解説を読み上げる役割も同時に担わなくてはならない。

 穏やかで、けれど賑やかないつもの夜だ。


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