永遠を手放す
朔こまこ
1.下校
ぼんやりとした薄曇りの夕方だった。雲越しのとろとろとした鈍い陽射しが降り注いでいる。
開け放たれたガラス戸を通り抜けると、途端にすっとしたやわらかいにおいが鼻をくすぐった。緩みきった空気はほんのりと青い甘さがする。なんといっても、春なのだ。
時雨に切ってもらったばかりの髪と、制服のスカートがゆるやかに吹いた風に揺れる。
六時間授業とその他もろもろをこなした体には軽い疲労感が積もっているけれど、それら全て終わったと思えば足取りも軽くなった。何かを蹴り飛ばすように、昇降口前の短い階段を降りて行く。
昇降口からまっすぐ前に校門があって、今はそこを出入りする生徒の姿もまばらだ。帰宅部の生徒が帰る時間帯、掃除当番の生徒が帰る時間帯、部活動のある生徒が帰る時間帯、それら全てからずれた中途半端な時刻。
「小夜ちゃん、お待たせ! コンビニ寄って帰ろうぜい」
背中の向こうからご機嫌そうな時雨の声がした。
地毛と言い張れば通るような、ほんのりと茶色く染めた髪。癖毛のせいで毛先が跳ねるように上を向いている。穏やかそうにとろんとした目と、よく動く口。声同様にご機嫌そうな顔で彼は私に駆け寄る。その足取りは軽い。
「いいけど、何か買うものでもあるの?」
漫画雑誌の発売日だったろうか、と首をひねるが、時雨の答えは全く違った。
「今急にものすごくゼリーかヨーグルトが食べたい」
至極真面目な顔をしている。
特に反対する理由もなく、揃って歩き出すと、時雨の肩にかかるかばんにぶら下がるキーホルダーやぬいぐるみがかしゃかしゃと賑やかに鳴った。
校舎の上階のほうからは、吹奏楽部の練習するさまざまな楽器の音が風に乗って流れてくる。私には楽器の種類というものがあまりわからないけれど、これがひとつの曲を鳴らしているわけではないことはわかる。校庭からは運動部の掛け声が響いた。
私たちはふたりとも帰宅部だけれど、とても気楽で不満はない。放課後はすぐに帰れるし、休日は好きなことをして過ごせるし。けれど、何かに心底一生懸命取り込む高校生活というのも、憧れないわけではない。生まれ変わってまた人間になれればそんな人生も歩んでみたいかもしれない、そう思う。ただ今は帰宅部が身の丈によくよく合っている。
校門を出てすぐ右に折れ、バス停を通り過ぎる。学校前の通りはあまり交通量も多くないので静かなものだ。学校の敷地を囲む塀の向こうから大きな木の枝がはみ出してきている。まるで歩道を覆わんとするアーチのような枝ぶりで、気に入っている。それをくぐり、私たちは帰路につく。
やがて校舎からのどんな楽器音も掛け声も届かなくなって、時雨が熱心にゼリーにすべきかヨーグルトにすべきかを語っているとき、またしても背中の向こうから声がかかった。
「おーい」
当然のことながら今度は時雨の声ではない。けれどその声の持ち主は同じようによく見知っている。見知りすぎているとも言えるほどだ。
時雨がうれしそうに振り返る。
「お、五月くん」
「よう。今帰りか。珍しいな、お前らにしては遅い」
五月は片手をあげ、走るでもなく悠々とこちらへ近づいてくる。背筋のぴんと伸びた立ち姿。私たちの、どちらかと言えば猫背気味のもったりとした雰囲気とは全然違う。
五月は、私と時雨の幼馴染だ。同じ高校に通う三年生で、つまり私たちの一年先輩にあたる。
「そんなに遅いかな?」
「遅い。もう四時過ぎてるぞ。いつもなら速攻で帰るだろ」
「まあ、いろいろあってさ。五月くんは何やってたの?」
「俺は進路相談。それよりお前らこそ何やってたんだよ。また何かやらかしたんじゃないだろうな」
合流して早々、五月は眉をひそめて私たちをじろじろと眺める。失礼な。
けれど時雨はそんなことにも全くお構いなしで、相変わらずご機嫌そうな足取りと声で話し続ける。
「掃除当番だったんだよ。その後、先生に呼び出されてさ」
「はあ? 呼び出し? 何やったんだよ」
「今日提出の宿題忘れただけ。なんで忘れたのか正直に言えっていうから正直に答えたら、放課後来いって言われてさあ」
不満気に口を尖らせる時雨と、冷ややかな目で私たちを見る五月。
「どうせ馬鹿な理由なんだろ」
「昨日ケーキ作ったんだよ! 雑誌見てたらおいしそうなレシピ載ってて、どうしても食べたくなったから、材料買いに行って作って、食べてさ。そしたら宿題やる時間なくなっちゃったんだなあ」
時雨はあっはっはとおおらかに笑う。
もちろん私も一緒になってケーキを作って食べたから時雨と共に放課後説教コースだったけれど、そんなに楽しいものではなかったはずだが。
「呼び出されて当然だ!」
先生に心底同情する、と五月は眼鏡を光らせてぷりぷり怒った。眼鏡が光ったのはもちろん五月の意志ではなく、光の角度のせいだけれど。
突然だが、彼は結構もてる。頭が良く、背もそこそこあって、なにより容姿が優れているらしい。
らしい、という曖昧な物言いになってしまうのは、私自身が五月の見た目がどうであるかいまいち判断できないからだ。それは別に私の美的感覚がおかしいとかいう話ではない。断じて。
ほんの赤ん坊の頃からずっと一緒にいるので、見慣れすぎているのだと思う。五月の顔がどうだとかこうだとか、そういうことを意識できないのだ。背が高いとか、成績が良いとか、眼鏡だとか、そんな誰が見ても確かな事実しか理解できない。
でもたしかにもてる。
同じクラスの子はもちろん、よく知らない他クラスの子にまで「仲が良いなんてうらやましい、紹介してほしい」と声をかけられたことがあるくらいだ。
まあ、悪くないとは思う。眼鏡が賢さをさらに演出しているし、欲望などという言葉とは無縁そうな涼しげな顔の造りだ。
改めてまじまじと彼の顔を見、なるほど、一部の女子たちが「あの目で冷たく一瞥されたい」と静かに興奮する気持ちがわからないでもない、と思った。ただこの“わからないでもない”というのは、私が最近、周りの反応のおかげで五月の顔の良さをなんとなく把握し始めたという意味であって、決して私自身がこの人に冷たく一瞥されてみたいと思うわけではないことをご理解いただきたいのである。
「ほんと参っちゃったよね、小夜ちゃん。結構長かったよね」
お説教に関して、時雨が苦笑してそう言うので、私はそうだねと深く頷いた。
「まったく、お前らは二年になっても大馬鹿のままかあ」
そんな私たちを見て、五月は呆れたように諦めたように大きなため息をついた。きっと去年のことを思い出していたのだろう。時雨がなぜかうれしそうに笑った。
去年、私と時雨が一年生だったときのことだ。
家から近いという理由だけで受験を決めたこの学校は、幸いにも私たちの偏差値でもなんとか合格できるところだった。だから五月の一年後輩として入学して、また三年間同じ制服を着て、同じ学校で過ごすことが保証されたわけだ。
されたはいいけれど、ただ、なんと私たちのクラスは別々になった。なんと、どころか当然のことだろうか。
が、それに時雨は多大なる不満を持って猛反発した。信じられないかもしれないし、高校生にもなって何を、と思うかもしれない。けれど時雨にとって、私とクラスが違うというのはなにかものすごい欠損であるか、もしくは欠陥であったらしい。
時雨いわく「そんなのは汚い色のゼリーみたいだ」。よくわからない。
でも汚い色のゼリーは、たしかにゼリーである資格を失っていると私も思う。だから彼にとって、私たちのクラスが別れることは、そこが学校である資格を失っているようなものだった、のかもしれない。
私はクラスが別々でも、それは仕方のないことだと思っていた。
中学生のときは偶然なのか何か理由があったのかはわからないが、三年間同じクラスだった。でも小学生のときは何度かばらばらになったこともある。だから高校にあがってクラスが別れることに、特別な不満があったわけじゃない。もちろん、同じであれば言うことはなかったけれど。
でもとにかく時雨には我慢ならないことだったようで、なんと入学式当日から職員室へ抗議へ出かけたのだった。当然私を引き連れて、だ。
そんなとんでもないことを続けて数ヶ月、ようやく気の収まったのが夏休みの始まる頃だった。
時雨の抗議活動は、色んな意味で校内の話題のひとつとなった。きっと先生方も頭が痛かったことと思う。
けれど、引きずり回されるばかりで積極的な姿勢を見せなかったとはいえ、時雨を一度たりとも止めなかった私も完全なる共犯で、先生にとっては私も時雨と何ら変わりない問題児であっただろう。申し訳なく、はあまり思っていなかったかもしれない。
とにもかくにも、その成果が出たのかどうなのか(きっと先生たちも嫌気が差していたのだ)、二年進級時にはきっちり同じクラスに配置されていて、私はもちろん五月までもが胸を撫で下ろしていた。これで今年はもう馬鹿なことはしないと安心したのだろう。
まあ、その期待ははずれたようだけれども。
「ほんとさあ、いい加減にしろよ。何がケーキだ。馬鹿が」
「なんだよ。五月くんこそ、相変わらずつまんない男だね」
「うるせえ、お前の言うつまる男になんてなりたかない。ていうか、なんでさっきから小夜は自分は関係ありませんみたいな顔してんだ?」
とうとう五月が私にまで絡みだした。
クールだ涼しげだと言われはしているが、実態はそうではない。アルコールなど取らなくたって絡み上戸みたいなところがあるし怒りっぽくて、一旦説教モードに入ってしまうととても面倒なのだ。
「だって五月面倒くさいし……」
顔をそらしぽつりと呟くと、五月が一瞬ぐっと何かを飲み込むような変な息遣いをして黙り込んだ。が、耐え切れなかったのか次の瞬間にはもう爆発していた。
「……こっの馬鹿ツインズが! いっぺん死ね!」
これはまたとんでもない暴言が飛び出してきたものだ。
けれどそんな五月の言葉に、私たちは顔を見合わせて笑った。
私と時雨は、この世に一緒に生まれてきた双生児なのだ。
自動ドアが開くと、店員さんの条件反射的な挨拶が店内に響いた。
「いらっしゃいませー」
「おじゃましまーす」
時雨が口の中で小さく呟く。こちらは反射ではなく、最近気に入ってるらしい返答だ。
コンビニの中には作り物めいたすっきりとした空気と、キャンペーン中らしい商品の宣伝放送が大きな音で漂っている。
このコンビニは住宅街の只中にあるせいか、店舗の広さのわりにはいつ来てもさほど客が多くなく、私たちはとても気に入っていた。特にスイーツ類の品揃えが良くて時雨は大絶賛だ。
白々とした明かり、つるつるの床、低い商品棚に幅広の通路。なんだか気持ちがいい。
「あ、なんか新しいのがある。これにしようかな」
時雨が真っ先にスイーツの棚へ向かい、嬉しそうに言った。少しだけ遅れて私と五月がその背中に追いつき、彼の手にするものを見る。
「『サクサクチーズケーキ』? 時雨、ゼリーかヨーグルトが食べたかったんじゃないの」
「しかも昨日ケーキ食ったんだろ。なんでわざわざまた買うんだよ」
「だって新しいものは食べてみたいじゃん、新製品は一度は買って食べてみるってのが真のコンビニスイーツ通でしょ?」
「いや、知らねえけど」
熱っぽく訴える時雨を、五月はばっさりとかわした。さらにムキになる時雨。
「あのねえ、五月くん。コンビニってのはね、商品の回転が早いんだよ。だから新商品を見つけたらすぐに買わないと、次に来たときにはもうないかもしれないの、もう二度と入荷されないかもしれないの。わかる?」
「ああもう、うるさいな。お前はコンビニの何なんだよ。正社員?」
「違う、俺はコンビニスイーツ王を目指してんの」
「ああ、そう。どうでもいいよ、もう」
面倒になったのか、五月はため息をついて陳列棚から少し身を離した。
店内を流れる宣伝がコンビニのテーマソングに変わる。
「どうしよう」
時雨はまだ悩んでいた。
「どうしたの。買えばいいじゃない」
「これを買うことは決めたんだけど、所持金の残りからして、あとひとつしか買えないからどれにしようかと思って」
そう言って大事そうにサクサクチーズケーキを手にしたまま、キラキラとしたスイーツたちをじっくり真剣に確かめていく。
「今月そんなにお金ないの? 何に使ったの?」
「なんだろう、俺何に使ったっけ?」
時雨が私を振り返る。
今月のお小遣いを使い切るようなものを買っていただろうか。記憶をめぐらせる。
「……あ、思い出した。そういえば時雨、板を買ったじゃない。今月の初め頃」
「そうだ! 板を買ったんだった。すっかり忘れてたなあ」
「板? なにそれ? なんで板?」
五月が訝しげに顔をしかめる。
「本棚を自作しようと思って。でも結局、まだ手をつけてないよ。ベッドの下にしまったままだ」
「なんだそれ。お前、DIYなんて興味あったか?」
「特にないけど。でも作れると思ってさ」
「馬鹿だなあ」
それなら最初から出来合いの本棚を買ったほうがいいよな、と五月は言う。時雨にではなく、私に向かってだ。
「そうかもね。でもあの時は、私も出来そうな気がしてた」
「でも出来てないんだろ。素人には出来ないの、そういうのは」
「違う、まだやってないだけだよ」
「出来ないからやらないんだろ?」
「違う、やらないから出来てないんだ」
違う、いや違う、としばらくふたりは言い合っていた。
時雨の顔は見るからに楽しそうだけれど、眉を歪めたままの五月だってなんだかんだと言いながら、結局こういうやりとりを楽しんでいるのは間違いがない。そうでなければ、こんなに長年時雨と付き合ってはいられないだろう。ほんの小さな赤ん坊の頃から一緒なのだから。つまりこんなやりとりは幾度となく繰り返されてきたのだ。
「でもなんで本棚なんだ?」
「こないだ漫画を大人買いしたんだよね。未成年だけど大人買い。そしたら本棚に全部入りきらなくて」
「ああ、前に言ってたやつか。吹雪が読みたいとか言ってたぞ」
「じゃあ取りにおいでよ。俺が持って行ってもいいけど」
「伝えておくよ。で、決まったのか」
あ、と今思出したように時雨は陳列棚に視線を戻す。まだ決まっていなかったようだ。
たぶん時雨には集中力というものが足りない。そういえば小学生のとき、通信簿に落ち着きがないと書かれたことがあった。私はむしろ、とても落ち着いていると書かれていたので、私たちはあまり似ていないのだ。双子といえど二卵性ならこんなものなのだろう。昔からずっとそうだ。落ち着きのない時雨と、落ち着きすぎているらしい私。だからこれからだってずっとこのまま変わらないのかもしれない。
「小夜ちゃんと五月くんは買わないの」
「私はもう決まってるよ」
「俺はいらない」
「あ、そう……」
どうやら仲間が欲しかったらしい時雨は、しょぼくれて再び棚に目を戻す。
「ねえ、どっちかこれ食べない?」
そして振り向きもせず、棚の中のライチヨーグルトを指さした。
私は黙ってその背中を見つめている。また何かよくわからんことを言い出したな、と思いつつ。五月がなにかを強く訴えたそうにこちらに視線を送っているのがわかったけれど、あえて無視した。
「私はいらないな」
「五月くんは……?」
「なんで俺がお前の食いたいもんを食わなきゃなんないんだよ」
このままたかられては困ると思ったのか、五月は雑誌コーナーのほうへさっさと足早に行ってしまった。取り残される私たち。
「もう諦めなよ、時雨。早く帰って食べよう」
「……うん、わかった。諦める、諦めた……」
後ろ髪引かれている仕草で、振り返り振り返りしながら彼はその場を後にする。全然、全く諦めた顔はしていないが。
私は牛乳プリンふたつを手に、レジへ向かう時雨の後を追った。
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