第11話 お風呂

 メグリに連れられて、やって来たのは大浴場の脱衣室だった。

 十人以上でも使えるくらいに、大型の木棚がいくつも列を作っており、それぞれに雲を織ったように白いタオルや植物のツタで編んだカゴが積んである。壁には曇り一つない巨大な姿見。陶器の洗面台も鏡に負けないくらいピカピカに磨き上げられていた。


「ランくんのサイズだと、湯着はこれかしら。脱いだ服は、そこのカゴに入れてね」


 なんて言いながら、メグリが胸のボタンを外し始めたので、ランはひどく狼狽した。


「なな、なんでメグリさんも……!?」

「わたしも汗かいちゃったしね。それにランくん、ひとりだとお風呂の使い方わからないでしょう」


 さすがに風呂くらいは知っているし、蛇口や石鹸だって使えるのだが、そう言ったら「つまり、それくらいしか知らないってことね」と返されてしまった。

 そうしている間にもメグリは脱ぎ進めていくので、ランも折れるしかない。

 棚の反対側に回ってからシャツに手をかけて、気恥ずかしさを我慢して裸になると、渡された湯着に袖を通す。

 湯着は白い木綿一枚の浴衣みたいな服である。入浴専用の着物だそうで、とても軽くて肌触りがいい。前で帯を結べばそれだけで一応の格好はついたが、ズボンではないので股の下がスースーするのが落ち着かない。

 それに何より……


「ランくん、湯着の着方はわかる?」

「うっ……だ、大丈夫、ですから……!」


 事前にひと声こそあれ、遠慮なく棚の陰から顔を出すメグリ。

 これと同じものを彼女が着ているのだと思うと、胸がざわついて仕方がなかった。

 とてつもなく無防備な、見てはいけない姿を見ている気がする。

 何がこんなにもドキドキさせるのだろうか。

 無防備というだけなら、もっと際どい格好をした女がスラムにはいくらでもいたはすだ。メグリ自身だって、どこかの広告ではもっと露出の多いドレスを着ていたことだってある。

 しかし、湯着だけを着たメグリは、そういうのとは別格の、こう……不可侵の聖域じみた近寄りがたさを感じさせられた。

 困ったことに、その「越えてはならない一線」は相手の方からせまってくるのだ。


「うん、ちゃんと着替えられたわね。それじゃあ入りましょうか」

「ち、ちょっと……近い……」

「ふふ、顔赤くしちゃって。さっき抱っこした時は平気だったのに、急に恥ずかしくなっちゃった?」

「あ、あの時は、ぼうっとしてたから……」


 まだ記憶に新しい触感を思い出して、さらにいたたまれなくなるので、からかわないでほしい。

 半ば追い込まれるような形で浴場に入る。

 むせ返るほどに立ち込める湯気の中、広大な湯船は大理石で、ライオンの彫像の口から惜しげなくあふれる透明なお湯を並々と満たしていた。

 向かって右手の壁にはシャワーが五台も取り付けてあって、ランはまずこちらの方へと連れていかれた。

 置かれた椅子にチョコンと座ると、メグリはすぐ背後に膝立ちになり、ランの肩を越すようにしてシャワーに手を伸ばす。畢竟、密着度は高くなって、彼女の息遣いや髪の音が耳朶を打った。


「最初は、お姉さんが洗ってあげるわね」

「えっ……あの、自分で…………」

「ちゃんとやり方を覚えられたら、ね」

「うぅ……」


 意思を尊重するスタンスはどこへやら。

 メグリは抗議をはね除けて、意気揚々とシャワーの非接触パネルを操作。直接触れることなしに水の出方や温度を調整できることなど実演して見せてから、ランの頭にお湯をかけていく。

 髪に付いた砂やらホコリやら大まかな汚れを流水で落としてから、シャンプーを泡立てる。花の香りがするきめ細かい泡が髪に馴染んで、頭皮を揉みほぐす繊細な指先が気持ち良い……って、


「め、メグリさん。もう、わかったから」

「動かないの。力を抜いて、じっとしてないと……」

「……あ痛ッ!?」

「言わんこっちゃない。シャンプーが目に入ったんでしょ。……あ、触っちゃダメ!」

「う……イギャアアアアア!!?」

「手で触ったら余計に痛いわよ。洗ってあげるから、ほら、こっち向いて」


   *


 10分ほど後。

 目の粘膜を真っ赤に腫らして涙ぐむランは、ボディソープですみからすみまで丁寧に洗い尽くされて、ツヤツヤのふやふやになっていた。

 垢やら脂やらをゴッソリ落としてもらい、脱皮したてのトカゲみたいに爽快だったが、湯着の上からとはいえ体中を擦られるのは非常に精神への負担が大きかった。

 形容しづらい疲労感を覚えながら、次は自身を洗うというメグリを残して、先に一人で湯船に入る。


「ぉぉ……」


 肩まで浸かると、思わず声が漏れた、

 じんわりとした熱と水圧が全身の筋肉をほぐして、弛んだところから芯まで染み渡っていく。圧倒的なリラックス効果は、スラムでの暮らしでは決して経験し得ない……などと、いちいち比べるのも馬鹿らしくなってきた。


「今日は、そんなことばっかだな……」


 物心ついてからの数年間をひっくるめても敵わないくらいの初体験に見舞われたものだ。わずか半日そこらの短い時間で、ランの人生は何重に塗り替えられたか、もはや数えることもできない。

 それでも、この変化が想像できる限りで最高のものだというのは、自信を持って断言できた。大変な目に遭ったし、先の不安もあるにはあるが、これ以上ないくらい今のランは幸せだ。


「ランくん、お風呂は気に入った?」


 うっとりとしていたら、メグリが湯船に入ってきた。


 爪のキレイな足が水面を割って、裾が乱れないように手で押さえながら、ランの隣に腰を下ろす。

 洗い髪はまとめてタオルに包んでおり、普段は隠れているうなじがよく見えた。

 濡れた湯着はピッタリ張り付き、体の曲線があらわになっているせいで、胸の膨らみが沈みきらず水面に浮いてたゆたうのを目撃してしまったランは、安定していた心臓がまたぞろ乱れ出す。


 居心地悪く、しかし離れる気にもなれないランの心境を知ってか知らずか、メグリは遠くを見遣るように目を細めた。


「なんだか、懐かしい。……友達にスラムを出てきた子がいるんだけどね。その子もお風呂のことよく知らなくて、わたしが一緒に入って教えてあげたのよ」

「え……それって……」


 楽しげに思い出を語るメグリ。

 彼女は上流階級の住民であり、それがスラム出身者と友達だなんて意外だったが、例外となり得る人間に一人だけ、ランには心当たりがあった。


「もしかして、イド姉?」

「イドちゃんのこと? そうよ、“ラファエル”のね。……ひょっとしたら、とは思ってたけど、ランくんの知り合いだったんだ」

「う、うん……」


 “飛天のラファエル”の異名を持つイドは、盗みに失敗して逮捕されたものの、モルファイトの大会で優勝した恩赦によって罪から免れた、という特殊な経歴で上級市民に仲間入りした。

 それ以前はスラムで暮らしていて、当時のランにとっては唯一の、心から信じて頼ることのできる存在だった。


「もう、ずっと会ってない、けど……」

「そうなんだ。でも、これからは簡単に会えるようになるわよ。わたしとイドちゃんは友達だもの。連絡だって取れるんだから」

「……。…………あっ」


 しんみりとしていたランは、メグリの励ましを受けてハッとした。

 これまで手が届かなかったとしても、今は違うのだ、と。


「……ねえ、ランくん。ファイターになるつもりなら、ひとつアドバイスしておくわね」


 言葉を失ったランを見て、メグリはふと声を落として語りかける。


「欲張りになりなさい。無理だと思っても、考えることはやめないで。そうでないと、掴めるはずのチャンスまで逃がすことになるわ」

「……欲張り、に」


 ランは深く考え込む。

 諦めたり見て見ぬふりをしたりするのは慣れっこだった。変わらないといけないのか、言われてみれば、ラン自身も変わりたかったのかもしれない。もう持ちきれないほどの恵みをもらった気でいたけれど、だからといって願望に制限を設ける必要はないというのだ。

 欲を張らずに皆と分け合え、がモットーの狭い世界で生きてきたランにとっては、いささかスケールが大きすぎる。途方もない大きさに目が回りそうで……気付いたら本当に視界がグルグルしてきた。

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