第6話 逃亡開始
たとえるなら、海中に近かった。
「……これが、電脳世界?」
モルフィングした後、ものの見え方は一変していた。まるで水没させたかのように街を満たす、それこそが世界重複式ネットワークシステム『モルフェウス』だ。空を見上げれば、海を泳ぐ魚群のように大量のデータが四方八方を飛び交っている。
異世界のごとき幻想的な世界に入り込んでしまったランだが、彼自身にも大きな変化が起こっていた。
充電スタンドに登った体勢のまま、手足の形も着ている服も変わっていない。だが、よくよく自分の体を凝視するとデジタル映像のように電子的な質感がして、うっすらと背景が透けて見えた。体重がなくなったみたいにフワフワとした浮遊感があって、幽霊にでもなった気分だ。
「あ、兄貴! ガキが消えちまったッス!」
「モルフィングしただけだ、バカ! ゴーグルを使えば見えるだろうが」
狼狽する小太りを、痩せぎすが叱り飛ばした。
ドタバタと電脳ゴーグルを起動させようとしているが、待っていてやる道理はない。ランは騒いでいる二人組に背を向けて、充電機から跳――――――――……って、
「長っ!?」
フェンスまでジャンプするつもりだったのに、ランの体は風船みたいに軽々と飛んでいってしまった。目標をはるかに超えて、硬いコンクリート壁に激突する。
「……ッ! …………?」
衝撃が、来ない。
つむっていた目を恐るおそる開けてみたら、ランは見知らぬ部屋の中に浮かんでいた。
喫煙室、といったところか。
ずらりと並んだソファに顔色の悪い大人たちが身を沈めており、ランが現れたことには気付いた様子もなく電子タバコをふかしている。
室内にはドアも窓もなく、出入り口は隅っこの下り階段が一つきり。背後には壁しかないが……試しに触れてみると、押し当てた手が音もなく飲み込まれた。
「……すり抜けた?」
幽霊にでもなった、というのは気分だけではなかったらしい。
モルフィングによってエネルギー化した肉体は、電脳世界の存在だ。実体がないから宙に浮いていられるし、見るからに健康に悪そうな紫煙を吸わずに済んでいるし、壁だって透過できるというわけである。
「ちょっとずつ、わかってきたかも……む」
「おい、オレだ! あのガキ、モルフィングして逃げやがった。南の方だ。早く回れ!」
外で痩せぎすが仲間に連絡しているのが聞こえた。
考えるのもいいが、今は逃げなくては。
地に足着いていないので、歩くのは難しい気がする。なので、最初に抱いた感想である海の中にいるイメージで泳ぐようにしてみたら、上手い具合に移動できた。
反対側の壁をすり抜けると、喫煙室はワンフロアだったらしく、そこはもう屋外で――――……
ッヂン!
辺りを警戒していた鼻先を、ビームのようなものが掠めた。目には見えないが、エネルギーを持った何かが一直線に通り過ぎた後には、電脳を乱された形跡がノイズとして残っている。
「チッ、ハズしたか」
「やいクソガキ! どうせ逃げられねえんだ、観念しやがれ!」
声がした方を見れば、屋根の上や路地の角から次々とギャングが集まってきていた。
怒りを表している、のかは知らないが電脳ゴーグルを赤く明滅させてランを睨みつけて、拳銃型のパルスガンを突き付ける
一斉発射。
当たっていいものでないのは明確で、ランはたまらず建物の中へと逃げ戻る。だが、無形の電磁波による銃撃はラン自身と同様に壁を透過して、うっかり射線上にあった電子タバコに命中した。
ボンッ!
バッテリーが爆発して、喫煙者がひっくり返った。
悲鳴を上げて飛び退く者、すばやく荷物を掴んで階段を駆け下りていく者、我関せずと夢中でタバコを吸い続ける者と、様々に喫煙室がパニックに陥るのを横目に、ランは床に潜って階下へと移動する。
一階は香水店になっていた。
上の騒ぎはすでに伝わっていて、ガラの悪そうな店員の怒鳴り声や香水のビンが割れる音で混然としている。
ボンッ!
ランが下りてきた途端、天井に取り付けてあったラジオが爆発した。位置といいタイミングといい危ういところで、肝が冷えると同時に疑念が生じる。
「……僕が下りたのが、バレてる?」
レジスターやアロマディフューザーが立て続けに爆発する。それはつまり、ランが来る前までは撃たれることがなかったということだ。
相手は壁の外から、ランを狙うことができるらしい。肝心の射撃が下手なので、被害は近くの機械だけでラン自身はまだ無傷でいるが、隠れようとしても意味がないのだとしたら、少しばかり困った状況だ。
次にどう動こうか迷っていたら、先に店員たちが行動を起こした。
「何がどうしたってんだ!?」
「撃ってきてんの、ナメレスんとこの連中だぞ」
「チクショウめ! アイツらぶっ殺してやる!」
ゴーグルを着けていない彼らはランの姿が見えていないようだ。
ということは、理由もわからず襲撃されているわけだから、さぞかし戸惑いや怒りで心頭なことだろう。銃やらナイフやら鈍器やら物騒なものを手に手に、目を血走らせて店を飛び出していく。
「ゴラァ、ボケナスども! 誰にケンカ売っとんじゃァ!?」
「雑魚カスは引っ込んでろや! テメエらに構ってるヒマねえんだよ!」
さっそく、外で衝突したようだ。
暴言が聞こえてきて、店内に向けられていた電磁パルス攻撃が中断される。
「今だ……!」
今度は迷わなかった。
横の壁をすり抜けて外に出ると、ギャングたちがぶつかり合っている間に遠ざかろうとする。
「あっ、ガキが逃げ……いぎゃ!?」
ランに気付いたギャングが追おうとして、その後頭部に店員の一人が投げた石ころが直撃した。意識を刈り取られて倒れる仲間に、ギャングたちも殺気立つ。
「ヤロウ……!」
「先におまえらから始末してやらぁ!」
パルスガンのレバーを捻って、電磁波モードから電撃モードへと切り替える。
もはや他のことはそっちのけで、頭に血が上ったごろつきたちの抗争が始まった。
*
ダウンタウンは官庁街の、とあるレストラン。
普通のビジネスビルの最上階にある隠れ家的名店を、彼女は長らく贔屓にしていた。今日のように、お忍びで外出する際などにフラッと訪れてはランチを頂くのだ。
つば広帽子と大きな電脳サングラスを被ったまま入ってきた彼女に、店主は何を言うでもなく窓際のテーブル席を示してくれる。
注文してほどなく。
皿が運ばれてくると、礼を言ってからスプーンを取る。たっぷり具沢山なトマト色のシチューを口に運べば、丹念に煮込まれた仔ウサギのもも肉がホロホロと崩れていった。
「うん、美味しい」
頬を緩めて、セットの自家製パンをちぎって食べながら窓の外に目を向ける。
忙しそうに行き交う人々も、建ち並ぶ無機質なビルも、繁華街の洒脱に洗練され尽くした街並みに比べるといかにもお役所といった感じに飾りけがなくて、街ごと肩肘張ったような風景を眺めるのが彼女は嫌いではなかった。
「…………あら?」
ふと、首を傾げる。
電脳サングラスの縁を小突いてから、中空でハンドサインを作ったりフリックしたりして何やら操作。サングラスのレンズに表示された情報を読んで……はて? 首を反対側に傾ける。
「うーん…………よし!」
数度のまばたきを経て、彼女は決断すると厨房に向けてパチンッ! と指を鳴らした。
「マスター! 急用ができたわ。頼んでたデザートだけど、テイクアウトに変えてもらえるかしら?」
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