第5話 モルフィング
「やっちゃった。やっちゃった……!」
路地を走り抜けるランの心臓は、早鐘のように打っていた。
肩越しに後ろを見遣れば、ナメレスの手下が一人、追いかけてくる。さすがに大人の脚力で、互いの距離は縮まるばかりだ。
差し当たっては、あれから逃げ切らないと何にもならない。
「えっと……あそこだ!」
ランはすばやく周囲を見渡した後、唐突にブレーキをかけると、右手の廃ビルに飛び付いて窓から中へと滑り込んだ。ガラスどころか窓枠まで失くなった後の四角い穴である。小さい窓なので体格のいい男がくぐるのは難しく、しかも出入り口は路地の反対側にしか設けられていない。
案の定、手下ら窓を通ることができず、引っかかってもがいているのを尻目に、ランはさっさと崩れたドア板をまたいで正規の出口から出ていって……三歩ほどで足を止めると耳をすました。
手下が毒づくのが聞こえる。
窓を諦め、ビルの外側から回り込もうとする足音。
「したら、中に戻るっと」
密やかに屋内へと戻ってから、十と数秒。
回り込んできた手下は、入り口の前を素通りして、ランが逃げたように見せかけた方角へと走っていった。もしかしたら少しくらい中に目をやったかもしれないが、照明もない内部は暗く、死角で縮まっていたランに気付くはずもない。
「どこ行きやがった、クソガキ! テメーのツラは覚えてんだ。逃げたってムダだぞ!」
怒鳴り声はみるみるうちに遠ざかっていった。
「……ふう」
どうにか撒いたようだ。
しかし、手下の言ったことは間違っていない。
とっさにレコーダーだけを落として囮にすることでその場をしのいだものの、得体の知れないところがあるナメレスを本当にごまかすことができたのかは自信がない。そうでなくても、今回の一件で目を付けられてしまったのは確実。行動を起こすのであればなるべく急いだ方がよさそうだ。
「デバイスを使って、モルファイトの大会に出る。……そのためには、どうしたらいい……?」
努めて冷静に、考えを巡らせる。
まずやるべきことは、戦利品の確認だ。
ズボンの中に隠しておいたモルフィングデバイスとカードを取り出してみる。実際に触れるのは初めてなので使い方も何もわからないが、物は試しだ。動画でウリエルやラファエルがやっていたことの見よう見まねで、チョーカー型装置を首に着けからカードを溝にセット。
ィ――…………。
何も起こらない。
だが、かすかな駆動音が聞こえたから、壊れているわけではなさそうだ。
改めてデバイスをよくよく観察し、ランは気付いた。カードを入れる溝のそばに、赤く点滅しているマークがある。
「……充電切れ?」
普段からレコーダーを使っていたので、バッテリーが不足している状態にあることはすぐ理解することができた。そして、問題を解消するための手段もわかっている。
首だけ外に出して安全を確かめてから、ランは動き出した。
移動には恐怖がともなう。道端でタバコをくわえた男も、二階の屋上で洗濯物を干している老婆も、じゃれ合う子どもらも、皆がみんなナメレスの手下に見えてくる。ひょっとしたら、次の角を曲がったところにナメレス本人が立っているような気すらする。だけどビクビクしていたらそれこそ怪しまれてしまうので、平静を装いながら入り組んだ路地を進んでいく。
そうしてたどり着いたのは、さびれた充電スタンドだった。
フェンスに囲まれた小さな駐車場の真ん中に、ゴツい機械が鎮座している。ゴミ山広場の処理炉にも似ているが、あちらが電力を生成して送り出すためのものであるのに対して、こっちのは逆に送られてきた電力を受け取るための設備だ。
「……だれも、いないよね?」
他に利用客がいたり意味もなくたむろっている者がいたりするのではないか、という不安があったが、幸運にも今は無人のようだ。
ランは急いで充電機に駆け寄ると、台の上にモルフィングデバイスを置いた。
『ぴ……ガガ……うぇるカム』
自動で起動された充電機がノイズ混じりの電子音声でしゃべり出した。同時に台が点灯して、置かれたデバイスをチェックする。
『ばってりーをカクニン。充電は可能デス。リョウキンは四二六オネイロニシア・エンです』
……高い。
レコーダーとはケタの違う充電料金に面食らうが、躊躇している時間はない。なぜなら、覚えのある痩せぎすと小太りの人影が、遠くに見えたからだ。
「あ、兄貴! マジで充電しに来てるッスよ!」
「見りゃわかるっての、ノロマ!」
「……くそっ」
早すぎる敵の出現に舌打ちしながら、ランは小銭を投げ入れた。今日の食事を買うはずだった全額を飲み込んだ充電機は、無機質に告げる。
『一三四オネイロニシア・エン不足していマス。満タンまで充電デキませんガ、よろしいデスカ?』
「いいから早くして」
『リョウカイしました。充電カンリョウまで、オヨソ十二秒です』
表示されるカウントダウンと、走ってくるデコボコギャング。
9、8、7と数字が減っていく間にも、二人組はどんどん近付いてくる。路地を抜け、充電スタンドの駐車場に到達した時点で、残りは5秒。4に下がるのに合わせてフェンスの内側に踏み込んで、3秒2秒と待っていられない。
完了の1秒前に、ランは充電台からデバイスを取った。
『エラー! えらー!』
警告音を発する機械によじ登る。紙一重の差で空振りした二人組はいきり立って拳を振り回した。
「こんガキァ、下りてきやがれ!」
「デバイスを返すッス!」
「……いやだ」
ランは追われた猫のようになるべく高いところに登って男たちを睨み下ろし、デバイスを大切に首へと着け直す。
「捨てたんだから、べつにいらないでしょ」
「そういう問題じゃねぇ! このままじゃオレらの方が処分されちまうんだよ!」
「……?」
何だか知らないが、心底から焦っているらしい。痩せぎすはまるで自分たちの方が追い詰められているかのように目を血走らせている。
「い、いいのか、クソガキ。稼ぎは仲間と平等に横並び、ってのがナメレスさんのルールだ。モルフィングデバイスなんて高級品を独り占めしようってんなら、テメェの居場所はなくなるんだぞ」
「べつに、どうでもいい……こんなとこ、出てくから」
「ハッ! バカ言え、出ていってどうするってんだ。モルファイトで一発狙おうってか? 裏切り者のイドみたいに」
痩せぎすが嘲るように放った、その一言はランの逆鱗であった。スッ、と瞳から光が消えて、冷たい殺気が煮えたぎる。
「…………違う」
「あ?」
食いしばった歯の隙間から、漏らすように怒りを吐いて。
「イド姉は、裏切者なんかじゃない」
瞳を閉じて、深呼吸をひとつ。
右手に手挟んだカードを、デバイスにセットする。
「絶対に行くんだ。イド姉のいる……あのキラキラしたところに!」
【起動確認】【本体正常】【モルフィングカード正常】【電脳環境検出】【オールクリア】【バックアップリセット】【装着者の生体情報を走査】【保存】【仮装ボディを設定】【脳波リンク完了】【ロック解除】【シグナルON】
――【モルフィング・イン】
デバイスとカードの接続によって電気信号が発生し、受信したオネイロンの結晶が作り出した力場が次元を歪曲させる。特殊な波動が首輪からランの全身へと伝わって、肉体の構成を原子レベルで変換していく。そこには、処理炉に腕を突っ込んだ時のような痛みや不快感は存在せず、むしろ窮屈な容器を脱ぎ捨てるような解放感すら覚える。
変化に要した時間は体感にしてゼロ。
ランの肉体は、煙のごとく物質世界から消滅した。
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