第3話 赤いランドセル

  あれから1週間後。何とか奏音は母親のフィードバックに従って修正を加え、母親から合格をもらえた。合格をもらったとはいっても母からの評価は、


「1週間前よりかはマシになったけど、まだ酷いわね。まあ、この曲はもう終わりでいいわ」


という具合にとても辛口なものだった。だが、奏音にとって「この曲はもう終わりにしていい」という言葉がとてもうれしかった。母親に一応は認められたということに等しかったからである。


 奏音は数日後に小学校の入学式が控えていた。奏音が入学する小学校は音楽と無縁の地元の市立の小学校だった。どんな友達ができるのか、どんな勉強ができるのか、先生はどんな人なのかをワクワクしながらずっと考えていた。ピアノが置いてある部屋には、奏音が小学校に背負っていく赤いランドセルが置いてあった。そのランドセルを眺めながらピアノの練習をしていると、何故かやる気が湧いてくるのだった。


 晩御飯は、奏音が大好きなステーキとポトフとご飯だった。ステーキは少し赤みが残っていてナイフを入れるだけで肉汁があふれてくる。ポトフには、ウインナーやニンジン、ジャガイモがゴロゴロと入っていて食べ応えがあった。練習で頭を使ったからか、奏音は無我夢中に頬張った。その様子には6歳の女の子の面影がしっかりと残っており、愛らしい。そんな中、奏音の両親は神妙な面持ちで口を開いた。


「奏音。少しいいか?パパとママから、大事な話があるんだ」

「はい、お父様」

「奏音はこれから小学校に入学するだろう?小学校にはいろいろな行事がある。運動会や修学旅行など」

「そのようですね、お父様。私はとても楽しみです」


 両親は顔を見合わせた。次の瞬間母親が奏音を地獄に突き落とした。


「運動会とか修学旅行に奏音は参加させません」


 奏音は頭が真っ白になった。運動会や修学旅行のような行事が学校の醍醐味であるはずなのに、母親はそれを奏音から奪ったのだ。


「何故です?なぜ参加してはいけないのですか…?」

「参加する暇があるなら、ピアノを練習してほしいからよ」

「私もこれから小学校に行くんです。みんなと同じように参加していいはずです」

「ダメと言ったらダメ!何故わからないの?」

「分かるわけないだろ…」


 父親が口を開いた。


「お前は奏音のことを考えたことがあるのか?俺は反対しただろ。全部参加させないのはよくないって。奏音も近所の小学生と同じなんだよ。奏音から小学校の思い出を取るのだけはかわいそうだろ…やっぱり俺は反対だ」

「でも、この子が弾けなくなったらどうするの?そういうものに参加しているときだって指はどんどん固まっていくの」

「じゃあ、お前はどうだった?小学生の時、行事に何一つとして出てなかったか?」

「それは…出てたわよ…」

「じゃあ、参加させてあげるのが筋ってもんだろ。お前のほうが何故奏音の気持ちがわからないんだ?大体な…」

「もうやめてください!」


奏音は口を開いた。


「分かりました。参加しなければいいのですよね?そうすれば、私はお母様に認めてもらえるのですよね…?」

「奏音…」


 父親は椅子から立ち上がり、奏音のことを抱きしめた。お父様が自分のことを考えてくださっている、と思うと奏音は涙が止まらなかった。


「私は参加させませんから」


そう言って母親は席を立ち、食卓から姿を消した。

奏音は、両親が喧嘩しているのを見たくなかった。本当なら、家族でずっと笑っていたかった。そのため奏音はいつも自分の意見を押し曲げて言いなりになっているのだった。自分が両親の意見に従っていれば、喧嘩しているところも見なくて済むし平和に過ごせる、と思っていた。


「奏音、いいんだ。自分の考えを持っていいんだよ。参加したいなら参加したいって言えばいい」

「いいえ。お父様。いいのです。私はピアノが下手なのですから。練習しなければお母様に聴いてもらえません。私はそのほうが嫌です」


 本当は違った。参加したかった。友達と大玉転がしや組体操、修学旅行の時には恋愛話をしてみたかった。父親が守ってくれて嬉しかったが、母親に言われてしまっては自分が折れるしかなかった。


 晩御飯を終え、奏音はピアノの練習のために部屋に戻った。部屋にはピカピカの赤いランドセルが置いてある。気づけば奏音の頬には涙が伝っていた。自分の中でけじめをつけないといけないと思ってはいたが、ランドセルを目の当たりにすると悔しさが一気にこみあげてきた。自分はほかの小学生とは同じ時を歩めない、歩んではいけないのかと思うと涙が溢れて止まらなかった。奏音は椅子に座り、その悔しさを紛らわせるように無我夢中でピアノを弾いた。心なしか少し忘れられていた。赤いランドセルはその間も輝きを失うことなく、その部屋に置かれていた。

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