第2話 Paper
「悲愴、終わった…」
奏音は、つぶやいた。これでやっとお母様に認めてもらえるという安心感と、完成させることができたという達成感で胸がいっぱいだった。
奏音と母親との間には、曲を完成させたら、お母様に見せるという約束があった。奏音は走って、ピアノがある部屋から母親がいるリビングに行った。母親のいるリビングは、家族3人で過ごすには広すぎるぐらいだった。大きな机に、ふわふわな椅子。そのどれもが金色で、見るだけでもお金持ちであるということが分かる。リビングにある家具にも金が使われていたり、高級なガラス細工が置かれている。
奏音の母親は、1人優雅にお茶を飲んでいた。母親の格好は赤色のロングワンピースで、小さいダイヤモンドが無数にちりばめられた指輪をつけていた。
「お母様!悲愴終わりました」
「そう。遅いわね」
「申し訳ありません。なので、聴いていただけませんか?」
「わかったわ。今行く」
そう言って母親は立ち上がった。
奏音はピアノがある部屋へと通じる廊下がいつもよりも長いような気がした。母親に聞いてもらう、このことが奏音にとって相当なプレッシャーとなっていたのだ。もし上手に演奏することができたら、お母様に褒めてもらえるけれどもし演奏できなかったら怒られてしまう、そんなことをずっと考えていた。
奏音がピアノを触り始めたのは0歳のころ。その頃は、トイピアノの鍵盤を押しただけで褒めてもらえていた。だが、3歳になったときに一気に態度が変わった。楽譜を大量に持ってきて、これを1年で終わらせろ、と言ったのだった。ピアノを始めたての子が演奏する『バイエル』や『ツェルニー』、『ブルグミュラー』ではない。3歳の子にやらせるには早すぎる『ソナチネ』だった。普通は小学校中学年から始める。小学校に入った頃から始める子もいるがこの母親は早くピアニストになってほしい、という思いからこのような教育をしていたのである。よく言えば英才教育、悪く言えば虐待の一歩手前である。
ピアノの部屋につくなり、奏音の母親は紙とペンを持ち、奏音の後ろに座った。その紙を使って奏音にフィードバックするのだ。そのフィードバックをした紙が渡されたら、1週間以内に指摘箇所を直し母親に演奏を再度聴いてもらわなければならないのだ。
「悲愴 第2楽章。弾きます」
そう奏音は言って弾き始めた。6歳とは思えないほどの素晴らしい表現力である。奏音は自信満々に演奏した。「これならお母様に認めてもらえる」、「そこまで酷いフィードバックは返ってこないよね」と思いながら弾いていた。
演奏が終わり、奏音はピアノの椅子から降り母親に向かってお辞儀をした。これが母親の前でのオーディションの一連の流れだった。
「お母様、いかがでしたか?」
まあまあいいんじゃない、と言われるのを期待していたが母親が発した言葉は冷たすぎるものだった。
「酷すぎる」
奏音は一瞬で頭が真っ白になり、膝から崩れ落ちた。何故。何故なのか。こんなにもうまくいった演奏ができたのに、それがずっと頭の中をよぎっていた。堰を切ったように奏音の目から涙がこぼれた。涙が止まらない。なぜこのように言われたのか意味が分からなかった。
「どうして…どうしてですか!? こんなにも練習したのに!」
奏音は無我夢中に叫んだ。母親の前で初めて感情的になった。
「どうして? そんなのも自分でわからないの?」
母親は、奏音に冷たく当たる。でも本当は奏音が感情的になったことに驚いていた。この子が私にこんなに感情的になるなんて、と思っていた。だが、奏音の前ではこの感情を出してはいけないと思い、さらに冷たくあしらった。
「わかりません。私にはわかりません。教えてください。お母様」
「この紙に書いてあるから読めばわかるわ」
そう言って奏音に向かってフィードバックの紙を落とし、部屋から去っていった。奏音は涙が止まらなかった。握った拳を床にたたきつける。
「どうして…私はできない子なの…?なんで…?」
”何で”という言葉しか出てこなかった。紙を見てみるとこの小節の何拍目が遅いとか、ここの表現は本当にそれでいいのかなど事細かに書いてあった。
奏音が悔しくて涙が止まらなかったとき、母親はリビングに一人ぽつんといた。本当はもっと愛してあげたかった。本当はもっと褒めてあげたかった。奏音の演奏は、本当はとてもいいものだった。今までに聞いたことがないような美しい旋律だったし、豊かな表現だった。だけど奏音はもっとできるはず、もっともっと上を目指せるはずという思いで
「酷すぎる」
と言ったのだった。この言葉をバネにして、「わかりました、お母様。ありがとうございました」といつものように言ってくれるのかと思ったら、突然崩れ落ちて今まで見たことのないほど悔しがって感情を表出させている様子を見て、本当は胸が張り裂けるほどつらかった。その場で抱きしめてあげればよかった。お母さんが間違ってたと言えばよかったなどと後悔していた。気づけば母親も泣いていた。娘に冷たく接している罪悪感とあのように言ってしまった後悔が母親の中で渦巻いていたのである。
そのころ、奏音は泣き疲れて床の上で寝てしまっていた。寝ていた奏音の手には、母親からのフィードバックの紙が握りしめられていた。
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