Mousike-ムーシケー-

春称詩音

コンクール

第1話 悲愴 第2楽章

 女の子がグランドピアノの前に座っている。見た限りまだ6歳ぐらいである。女の子の表情は何故か暗い。女の子は両手を鍵盤の上に置いた。次の瞬間、旋律を奏で始めた。鍵盤の上で手が舞っているかのように、速いスピードで音楽を奏でている。音楽の粒立ちもはっきりしていてとても綺麗である。だが、弾き終わった女の子は納得のいかない様な表情をしていた。


「どう?悲愴ひそうは完成した?」

「いえ、お母様。まだ完成できていません」

「何故?普通の人だったらこんなの1週間で完成させられるわよ?」

「申し訳ありません」


突如現れた母親らしき人物は女の子を鬼のような形相で叱っている。女の子は感情も出さずに静かに謝っていた。


「何故そんなに遅いのかしら。私の娘とは思えないわ」

「申し訳ありません。お母様」

「早く練習してちょうだい」

「はい、お母様」


母親らしき人物は女の子の前から立ち去る。女の子は何も言わずにひたすら指を動かしていた。


 『悲愴』はベートーヴェンが作曲した三大ピアノソナタのうちの一つである。悲愴というタイトルにもあるように、曲調は短調でどこか悲しい気持ちになるが美しい旋律でもあり、歌うように演奏しなければならないこの曲は簡単には弾けない曲である。そのためこの曲を1週間で完成させろ、など無理難題にも等しいのである。この曲がどんな曲調なのかを分析したり、ある程度弾けるように練習をする「譜読み」ではない。強弱をつけ自分なりに物語を構築し、人前で発表できるようにする。それが「完成」という言葉の本質である。


 普通、この女の子以外の人がこのように言われたらどのように言い返すだろうか。「お前はできるのか」、「自分の娘とは思えないとよく娘の前で言えるな」などと言うのではないだろうか。だが、この女の子はこのように言い返すことができないぐらい母親らしき人物に支配されていたのだ。


 女の子は、感情をなくして弾いていた。まるで音楽を奏でるためだけに生まれたロボットのように……


 楽譜に書きなぐられた文字は幼さが残る文字だった。『ここ、つよく』『ここ、なきそうになりながら」などの表現を表す文字から、『おかあさまにほめられるえんそう』『おかあさまにみとめてもらう』など母親の前では表に出すことのできない感情も書かれていた。


 ―「海谷うみや 奏音かのん」。母親からパッヘルベルのカノンのようなきれいな旋律を奏でられるような子に育ちますように、という思いを込めてつけられたこの名前は今回の主人公であるこの女の子の名前である。ピアニストを目指していた母親が自身の怪我により夢を諦めざるを得ない状況になり、その夢を自分の子供に強制させているのである。ピアニストにならなければ自分の子供として認めない、と奏音に毎日のように言っている。端から見れば、虐待のように見えるかもしれない。だが、現実としてこういう子供がいるのも事実である。この物語は、そんな状況にいるということに気づいてもいない奏音の物語である。

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