第2話
玄関の呼び鈴が軽やかな音を立てる。時刻は午後三時。玄関を開ける。インターフォンがなくても、想像していたとおりの笑顔が立っていた。
「お邪魔しまーす。いやー、暑かったぁ」
「アイス食べる?」
「食べる食べる」
買い物袋を下げてトタトタ上がり込んでくるのは恋人の美代。今日は家デートの予定で、彼女に夕飯の買い出しを頼んでいたのだ。
ノースリーブにホットパンツを合わせた姿はいかにも夏らしい。華やかな顔立ちも相まって、通りではさぞよく目立っただろう。恋人として誇りではあるものの、余所の男にじろじろ見られでもしたのかと想像するといい気はしない。
「もうすぐ一年だね」
「そうだな」
美代が椅子に座らせられているぬいぐみの頭を撫でる。ラッキーキャットという、遊園地のマスコットキャラクター。
食材を冷蔵庫に入れた後で、常備しているカップアイスを取り出す。美代の好きなイチゴ味。
「あ~、生き返る」
一口アイスを頬張って美代は至福の表情。
「そんなに暑かったの?」
ちょっとした軽口のつもりだったのだが、美代は頬を膨らませて自分が炎天下の中如何に苦労して夕飯の材料を買いに行ったのかを蕩々と話し出した。それはメニューの献立作りにまで遡り、終わる頃にはカチカチのアイスが柔らかくなっていた。
「というわけで、夏バテ鉄也くんのため、今日は暑くてもがっつり食べられるチキン南蛮です!」
ドヤ顔で胸を張る美代。興が乗ったのか、このまま仕込みを始めると言い出したので、僕も手伝う。
付け合わせ用のサラダを作りながら、彼女の手つきを見る。躊躇いなく調理していく姿は随分と手慣れていた。鶏肉を切り分け、小麦粉・溶き卵をつけると次々にフライパンで揚げていく。
「痛いっ」
いきなり頭をのけぞらせた美代が頭を手で押さえて振り向く。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「今、髪引っ張った?」
「そんなこと、しないよ」
「う~ん、じゃあ、どこかに引っかけたのかな?」
首をかしげながら、美代はフライパンに向き直る。彼女は深く気にしていないようだが、これは異常だ。
美代の髪はうなじほどまでしかないショート。物に引っかけるような長さではない。
不意に、視界の隅に白い物が映った。だが、向き直っても何もいない。
心にどろりとした物を残しつつも、気のせいだと片付ける。白い着物を見た、なんて。きっと見間違いに違いない。
美代の作ったチキン南蛮は衣がサクサク、ソースは濃厚。一口食べるとご飯が欲しくなる。そんな料理で、久方ぶりに僕はご飯をおかわりした。美代も大げさなくらいに喜んでくれた。彼女曰く、作ってくれたものを美味しそうに食べて貰えるのが、台所に立つ人としては一番嬉しいのだそうだ。
夕飯の後は、リビングのテレビで映画を見る。タイトルは「そして誰もいなくなった」。言わずと知れた、アガサ・クリスティー原作の海外ミステリー。雰囲気を出すために、部屋の明かりを落としてソファーに並ぶ。
島に集められた十人が、一人一人殺害され、同時に居間にあった人形が消えてゆく。姿の見えない殺人者に怯える生存者達。有名なストーリーではあるが、緊迫した画面は見る物を放さない。隣の美代は前のめりになって画面に見入っている。
不意に、首筋が泡立つのを感じた。――見られている。
部屋の隅に凝った影の中から、じいぃ。
「鉄也君、怖いの-。これ、ホラーじゃなくてミステリーだよ?」
「怖がってなんかないよ」
「嘘ばっかり。キョロキョロしちゃってー」
肩をぶつけて揶揄ってくる。だが、僕にはそれに笑って返せるだけの余裕がない。顔が引きつる。画面で何人死んでいるか、なんてもう見られなかった。暗がりの中で寄り添う僕たちを、そいつがどんな目で見ているのか。そればっかりが気になって仕方がない。
結局、後半を碌に見ないまま映画は終わった。帰る前に、美代は明日の分のご飯まで作ってくれた。余った鶏肉を利用した、唐揚げの塩レモン風味。スライスしたレモンが乗っていて、見た目も爽やかだ。
「これこの前作って美味しかったんだ。鉄也君にも食べさせてあげたいなー、なんて思ってたの。じゃあね。また感想聞かせてね-」
美代は笑いながら手を振って帰って行った。ドアが閉まると、背中を薄ら寒い物が走る。
誰もいないはずの室内に目を走らせる。見慣れたはずのテーブルやソファが急に空々しく見えた。ソファに座り、耳を澄ませる。心臓の鼓動は激しくなり、知らぬ間に握りしめていた拳には汗が溜まっていた。
助けに来る人はいない。幽霊が今にも襲ってくるのではないか。そんな妄想が何度も浮かび上がって、せき立ててくる。
こちこちと鳴る時計が何周しただろうか。
「来ない、か」
口に出してみると、急に身体の緊張が抜ける。この部屋には自分しかいない。一体、何に怯えているのかと、緊張したままの自分を無理に笑い飛ばす。
喉が渇いたので水を飲もうと立ち上がると、ガタンと大きな物音がした。
「――え」
台所の床に皿が転がっている。冷蔵庫に入れていたはずの唐揚げが無残に飛び散っている。美代の自信作。それは到底口に運べるような代物ではなくなっていた。
「なんで」
この部屋には自分以外に誰もいないのに。素早く室内を見渡す。どこにも人影はない。それでも、目の前にある無残な料理は覆らない。
気のせいなんかじゃない。やっぱり、何かがいるのだ。
手足が痺れる。摩訶不思議な出来事に混乱する。理屈では説明できないことが、ここで確かに起こっている。
脳裏に、巌信から譲られたお札が思い浮かんだ。玄関に貼るように言われた物の、しまい込んでしまった魔除けのお札だ。あれは本当に必要な物だったのではないか。
今から貼っても御利益はあるだろうか。そんな疑問も湧くが、すがれる物はそれしかない。
急いで、お札を入れた引き出しを開け、呆然とする。
「嘘だろっ」
お札は真っ二つに引き裂かれていた。
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