第3話

 霊に家を荒らされた翌日、メモの番号に電話すると巌信はすぐにやって来た。そして、一切を包み隠さずに説明させると、眉間に皺を寄せて考え込んだ。僕としては、言いつけを守っていなかったことが負い目になって、小さくなるしかできない。首に下がったハートのネックレスに触れながら、ただただ重苦しい時間を耐えていた。

「一瞬、この部屋で垣間見たという白い着物。それは、橋で主を襲った女子おなごと同じか?」

「ちらっとしか見てないですけど。間違いありません」

 僕が言い切ると、巌信は首をかしげた。何か、納得できないことがあるようだ。目を細めて、こちらの顔を正面から覗き込む。

「拙僧の見た限り、主が何かに憑かれておるようには見えんがな」

「じゃあ、これはなんだって言うんです?。お坊さんなら、こういう心霊現象とかも信じてくれると思ったのに」

 相手の視線に押されて、剃り上げた頭を見ながら弱々しく反論する。強気になれないのは、温厚な口ぶりとは裏腹に巌信が苛立っているように見えるからだ。巨体の男が不機嫌だと、それは恐怖の対象だ。

 それでも、粘り強く頼むとお祓いをしてくれることになった。

「金は要らぬよ。衆生を仏様の道に導くのが、我々坊主の意味なのでな」

 ただし、準備が必要とのことで一度寺に戻るとのことだった。

 儀式を行う際に、法具を大量に持ち込みというので家具を動かしてリビングにスペースを作っていると、スマホが鳴った。美代からだった。

「おはよー、鉄也くん」

「おはよう。どうしたの、朝から電話なんて」

「いやー、用はないけど。あの唐揚げ食べてくれた? もしよかったら感想聞かせて欲しいな-」

 電話から聞こえる弾んだ声。それにどう答えて良いか分からない。床に落ちた料理は手も着けずにゴミ箱に捨ててしまった。ただ、ありのままに話せばきっと美代は傷つくだろう。

 とはいえ、食べてもいない物の感想など口にできるわけもない。沈黙が二人の空気を澱ませる。

「鉄也くん、何かあった?」

「何もないよ」

 女の勘、か。美代はズバリと切り込んできた。反射的に嘘をついてしまったが、彼女は誤魔化されない。

「嘘、絶対嘘。今の声、抱え込んでるときの声だよ。嘉穂の時と同じおんなじ。ねえ、何があったの?」

「美代が心配することじゃないから」

「心配するよ。鉄也くん、悩んでるなら相談して、ね?」

 必死になって声を投げかけて来る美代。その早口でたたみかけられる声は、こちらを宥め賺して秘密を喋らせようとしていた。

 きっと彼女ならば、どんな秘密でも笑い飛ばしてしまう。そんな明るさを持っている。

 普段なら、それは前向きに物事を見つめる原動力になる。しかし、今回に限っては笑い飛ばせるようなことじゃない。彼女を関わらせれば、どんな危険が降りかかるか。

 彼女を守りたいならば、遠ざけねばならない。呼びかけを叩き切るように、僕は電源を切った。

 午後になって、巌信がやって来た。かなりの大荷物で歩く度にガチャガチャと音を響かせる。

 白い布を敷いて、法具を並べていく。木魚や錫杖は分かるがその他にも、見たこともないものが山とある。

 巌信が名前と効果を説明してくれる。法具は、独鈷杵とっこしょ三鈷杵さんこしょ五鈷杵ごこしょ・香炉・金剛鈴……。他にもあるが、鉄也では全くついて行けなかった。最後に、壁に曼荼羅を飾る。大勢の仏様が描かれた美しい絵だった。

 これで、準備は完了。

「それでは、始めさせていただきます」

 正座した巌信がお辞儀をするので、鉄也もそれに習う。

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうしんはんにゃはらみったじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう

 度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし 色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう

 低く、唄うような節回しをつけながら経文が唱えられてゆく。波のように空気が揺れ、清められてゆくように感じた。

 巌信の背中をぼんやりと眺めていると、ついっと白い影が重なった。白い着物。肩まで伸びた黒髪。そして、頭からは緩やかに伸びた角。

 橋にいた女だ。間違いない。彼女は一心不乱に経を唱える巌信の背後に迫った。

 坊主ならではの直感か。巌信が跳ねるように立ち上がる。

 しかし、女の方が早かった。彼女が細い腕で巌信を突き飛ばすと、身長2m近い大男が壁に叩きつけられた。

 嫋やかな指が巌信の喉に絡みつく。苦悶に表情を歪めながらも、振りほどこうと試みるが、指はさらに首を締め上げる。

「……満足か」

 かすれた声で巌信は呼びかける。その先には、黒髪の亡霊――ではない。

 目だけを動かして睨んでいたのは僕だった。

「なんで、僕を見るんです? 原因はそっちの幽霊でしょう? 僕に言わないでくださいよ」

 頭に鈍痛。その波が次第に早くなる。耳の奥で、壊れた機械のような音が鳴り始める。

「僕がやってるわけじゃないのに」

「ならば主は、何故笑ろうている?」

 訳が分からない。幽霊が出て、どうして笑うのだ?

 身体が揺らぎ、テーブルに手をつく。指先に水の入ったコップが触れる。その水面には、歓喜のあまり、恍惚とした表情を浮かべた僕が映り込んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る