鬼面の女

黒中光

第1話

 蒸し暑い夏でも、夜になると心地よい風が吹く。静かな住宅地をそぞろ歩きながら、僕は恋人とのデート気分の残り香を楽しみつつ、軽い足取りで歩いていた。胸元のハートのネックレスが揺れる。

 今日は恋人を連れて、スポーツバーで世界陸上を見ていた。溌剌とした性格の美代は選手の国籍なんか関係なく、彼らの死力を尽くした勝負を応援していた。喉がかれるほど叫んで、初めての店を大いに気に入ってくれた。元気いっぱいの彼女が見られて、僕としても満足だ。

 コンビニを過ぎて、マンション近くの橋にさしかかった時、そこに女が佇んでいるのが見えた。

 夜道とは言え、通行人は珍しくない。それでも目を引いたのは彼女が着物姿だったからだ。真っ白い着物に、肩まで伸びた黒髪。宵闇を背にした姿は、亡霊そのもの。

 水面を見ていた女が振り返り、こっちを見る。その瞬間、ひやりと肝が冷えた。

 女は面を被っていた。つるりとした白地の仮面で、口元は紅を塗った口が裂け、黄金色の目が見開かれている。そして、頭には緩く弧を描く長い角が二本。

 鬼面。

 禍々しい顔を突然見せられれば、誰だって驚くだろうが、なんと、この女は僕に近づいてくる。

「あの、何か」

 ご用でしょうか。そんな遠慮がちな言葉は、口の中で干からびる。

 言葉が出ない。夜気に凍り付いたように手足も動かず、滑るように近づいてくる女を眺めることしかできない。

 女は無言で迫ってくると、僕の胸ぐらを掴んだ。嫋やかな見かけとは裏腹な力。顔が触れそうなくらい近い。生暖かい吐息が顔にかかる。懐かしい消毒薬の匂いがした……。

 突然、足場が消えた。虚空に投げ出された僕を冷たい水が包み込む。流れ込んできた水が肺を内側から焼く。

「誰か、助けてくれ!」

 必死で水面に浮き上がるも、全身が下へと引きずり込まれる。腕や足に誰かがしがみ付いているようだ。

「大丈夫か、今行くぞ」

 ドボンと誰かが川に飛び込んできた。力強く水を掻き分けると、僕を抱えて岸まで引っ張ってくれた。

「お主、大丈夫か」

「はい、ありがとうございます」

 咳き込んで水を吐き出す。空気が普通に吸えることがありがたい。人心地ついたところで恩人の姿を見て、僕は目を丸くする。

 その姿は禿頭に黑袈裟。はだけた懐からは数珠が見えている。坊主だ。

 坊主は僕の身体を叩いて無事であることを確かめると立ち上がった。大柄で身長は2m近く、肩幅も広い。

「では、拙僧はこれで。夜道は危ないでな。気をつけるんじゃぞ」

「いや、落ちたわけじゃ」

 自分の過失であるかのような口ぶりに思わず反論してから口をつぐむ。鬼の面を被った女に突き落とされたと行って信じて貰えるだろうか。橋を見上げても既に女はいない。

 それに――あの女はこの世の人間には感じられなかった。

「どうかしたのか?」

「いや、その……」

 悩む。幽霊に突き落とされたなんて、頭がおかしいとでも思われるのがオチだ。普通誰も信じないし、愛想笑いで逃げられたら間違いなく落ち込んで引きずる自信がある。

 だが、坊主ならば。ひょっとしたら、摩訶不思議な話も信じてくれるのではないだろうか。

 色黒の顔に、気遣いを浮かべている坊主の姿に後押しされて、僕は先ほどの襲撃を全て話した。

「邪な気配は感じられぬな」

 二人は濡れ鼠のまま橋まで戻って辺りを調べてみたが、普段と変わらない一車線ほどの小さな橋だ。

「主、憑かれる心当たりでもあるのか?」

「ありませんよ! そんなの」

至って、ごく普通の人生を送っているはずなのに、どうして他人に恨まれねばならないのか。

僕は坊主を自分の部屋に呼ぶことにした。夜の川で溺れているところを助けて貰った。彼は命の恩人だ。濡れたまま帰らせるわけにはいかない。

 坊主の名前は巌信というそうで、今は修行の一環として日本全国の寺を歩いて回り、道々修行をしているとのこと。

「じゃあ、ここにも長くはないんですか」

 巌信にお茶を振舞ながら問いかけると、彼は否定した。今の彼は袈裟を乾かす間だけ、僕のTシャツの服を着ているが、丈が足りないために窮屈そうだ。

「相談されたことを放り投げるような性分ではない。一週間ほどはこの近くにおるよ」

 そう言って、今世話になっているという寺の連絡先をメモに書く。彼の携帯は川に入ったときに壊れたらしい。

 その後、巌信は僕の部屋を見て回ったが、ここにも怪しい存在はいないらしい。その代わり、彼はある写真に興味を示した。男女三人で遊園地に行ったときの記念写真だ。

「この方は?」

 巌信は左下の女性を指さす。マスコットキャラクターの猫のぬいぐるみを抱いた、髪が長くて目がくりっとした女性だ。ライトブルーのコートを着ている。

「僕の幼なじみです。家が近所で、小中高大と全部一緒。仲も良かったんです」

「ほう。先に話に出た恋人かな」

「いえ、彼女はこっち」

 美代はショートカットで、赤のダウンコートを着た女性。口を大きく開けて、写真でも声が聞こえてきそうだ。

「嘉穂――幼なじみの方です――と美代は高校からの親友同士だったんです。それで、三人でよく遊びに行きました」

「……そうか」

 巌信は何やら考え込んでいたが、その考えを明かすことはなかった。やがて、着物も乾き、巌信は帰ることになった。

「何か、わかりましたか」

「生憎と。拙僧は直接その霊を見ていませんからな。とりあえず、これを」

 筆ペンを使って先ほどまで書いていた札を手渡してきた。「南無大日大聖不動明王」と書かれている。

「これを玄関先に貼っておくと良い。不動明王は外道に落ちたる者を救うためにおられる。きっと守ってくれるはず。では」

 ざりざりとコンクリートの上を草履で移動しながら巌信は去って行った。

 僕は早速お札を扉の内側に貼り付けてみる。が、仰々しい札は素朴なマンション玄関では異彩を放っていた。その上、僕自身時間が経ってだんだんとあの女が本当に幽霊だったのか自信がなくなってきていた。こうして自分の部屋に帰って、日常そのものの時間を過ごせば、あれは悪い夢だったか、バーで飲みすぎでもしたのかとしか思えない。

 ホラーなどてんで信じない美代にこのお札を見られれば大笑いされるのがオチ。それを想像したら、あまりにも恥ずかしい。真面目に対応してくれた巌信には、申し訳ないと思いつつ、僕はお札を剥がし、机の引き出しに放り込んでしまった。

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