7月12日 17:15 トレーニングルーム

 世代別の日本代表で活躍する選手。


 試合に出るために学業を頑張らないといけない選手。


 試合に出ているけれども、うまくいかない選手。


 高踏高校サッカー部内に34人いる選手の中で、もちろん成功・失敗の度合いの差がある。


 しかし、1人だけ成功や失敗というレベルにすら達しておらず、完全に乗り遅れている者がいる。


 聖恵貴臣である。



 この日の夕方、練習とは別メニュー……どころか場所まで別だ。


 今やトレーニングルームとなったラグビー部の部室で大溝良子の指導の下でトレーニングをしている。


 何といっても聖恵は特殊な状況にある。


 昨年の同時期からは既に20センチ、入学時からここまででも9センチほど伸びている。


 現在165センチだが、秋までには170センチを超えるかもしれない。


 身長が伸びること自体は良いのだが、こうも急だと体のバランスが追いつかない。故に落ち着くまではしっかりとした筋力トレーニングもさせてもらえない。変な形で筋力がつくとフォームが乱れたり故障の原因になったりするからだ。


 神経と筋肉の繋がりの連結の維持、感覚の鍛錬、コーディネーション能力の向上といった部分に集中したメニューを行っている。



 言葉で説明するとこのようになるが、一言で言うと地味極まりないトレーニングだ。


 何せ調整的なトレーニングばかりである。自分が強くなっているという実感が全くない。「昨日はこれだけできた。明日はこのくらいに挑戦しよう」といった充足感がない。


 チームはインターハイが終わったら、海外のチームとも試合をするという。


 そこにも自分の居場所はない。挑戦することすらできない。


 ひょっとすると、このまま卒業まで延々とストレッチだけしているのではないか。そんな絶望感すら湧いてくる。



 幸いにして、この日は孤独にトレーニングをすることはなかった。


「あれ、稲城君、どうしたの?」


 大溝の言葉に振り返ると、稲城希仁が足を引きずりながらやってきた。


「交錯して踏まれてしまいまして、休憩しがてら上体のストレッチでもしようかと思います」


 そう言って、勝手にチューブをつなげてストレッチを始めた。


 稲城と立神はトレーニングマニアなところがあり、下手なインストラクターより知識が豊富である。だから、この2人には大溝夫妻も何も言わない。



 話し相手が1人増えたので、今後の事を話してみることにした。


「大溝さん、身長がある程度止まって、どの程度で本格的なトレーニングができますか?」

「……えっ?」


 と、稲城が声をあげた。


「それだって十分本格的なトレーニングじゃないですか?」

「でも、これだと維持するだけで強くなるわけではないですし」


 稲城はしばらくポカンとした様子で考えていた。ある程度聖恵の言いたいことを考えていたようで、20秒ほど間を置いて話しはじめる。


「それは、強いという言葉の捉え方によりますね。例えば、プロレスラーとか重量挙げ選手のように重い相手や物を持ち上げるのなら、ウェイトトレーニングもいるのでしょうけれど、サッカーに必要なのはそういう強さではないでしょう」

「それはまあ、あそこまで大きくなる必要はないと思いますが……」

「例えば星名さんという人がイングランドにいます。彼は中々凄いパワーの持ち主です。でも、私は彼とぶつかっても何とかなるんじゃないかと思うんですよ。といいますのも、『いち、にの、さん!』でぶつかれば負けます。最大出力は違いますからね。なら、『いち!』の段階でぶつかればいいんです。彼は70、90、120って感じで来ますが、私は80、90、100ですから」


 三の段階では100-120で負ける。二の段階は90-90で互角、しかし、一の段階では80-70で勝っている。


「聖恵君が今やっているのは、感覚と筋力の連結、つまり早い段階で出力マックスに近づけるトレーニングです。むしろサッカーで一番必要な部類のトレーニングだと、私は思いますよ」

「ついでに言うと」


 大溝良子が割って入る。


「120なんて力を出すと、その分ケガをしやすくなるわね。もちろん、そういう力が必要な時もあるけれど、出力を繊細にコントロールして不必要な出力を出さないようにするのも、こういうトレーニングの目的としてあるわ。もちろん、サッカーのことも知らないといけないけど」


 稲城が「そうなんですよ」と笑う。


「1年半サッカーだけやってきて、ようやく出力とかこうすれば良いとかは分かってきたんですよ。ただ、ボクシングと違ってサッカーではそれをやりきる技術がありません。キャリアがないですからねぇ。まあ、とにかく」


 半年ほど、きっちり自分の体に向き合って、理解するのは悪くない。むしろその方が良いと稲城は言う。


「生まれながらの素質だけでやって最後までうまくいけば良いですが、99パーセントの人はそうなりませんからね。自分の体はどういう特徴があるのか、相手はどうなのか。そういうことを理解できれば色々面白くなってきますし、無謀な使い方をしなくなるから、サッカーも長くできるんじゃないでしょうか?」


 素質に頼ると、若いうちに無理をしがちで、限界が見えてきた30前後の頃に後悔することになる。聖恵の年齢から色々考えれば、結果的にはケアが行き届くし無駄な力も出さずに長生きをしやすい。


「そうね、それは全く稲城君の言う通りだけど」


 今度は大溝良子が首を傾げる。


「君の年齢でそこまで大人びて理解できるケースもありえないはずなのにねぇ」


 不思議な存在だ、そう言って首をひねった。




 待つことは決して損ではない。


 稲城と大溝の言うことは分かる。


 しかし、分かったとしても、やはり長い日々である。


 そこまで待つことができるのか、聖恵には自信がなかった。

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