6月2日 13:32 総体県予選決勝会場
「ここまで立場が入れ替わるものか……」
深戸学院のベンチで、佐藤孝明は天を仰いだ。
昨年までは県内ではどのチームも「深戸学院」という相手に対して特別な心構えで向かってきていた。意識するあまり自滅するのは、決まって相手だった。
それがどうだ、昨年10月の予選準決勝から僅か半年で立場は完全に入れ替わった。
高踏の選手は1年生ですら「何かヘマしない限り勝てるだろう」というくらいの気持ちで試合に向かってきており、自分達の選手は「ベスト中のベストを尽くさないと勝てない」という空気である。
しかも、ベストの力を出せていてもどこまで変わっていたかというくらい残酷なまでに差が開いている。
ベンチ入りしているコーチも一様に無言だ。
何人かは春先のことを思い出したかもしれない。思い切った改革をするかという佐藤の案だ。
彼らは全員、現状維持を選んだ。
その結果は、とてつもない差になりつつある。
前半25分を過ぎたが、深戸学院はまだシュートが打てていない。
そもそも良い形でボールを持てるシーンが一度もない。頼みの下田と松原、鈴木は前線で無駄な走りを強いられており、創造的なプレーをできないまま消耗してきている。
高踏もさすがに3点リードしているため、多少リズムを落としてきているが、それでもだ。
ただ、相手がペースを落としたことで別のことが見えてくる。
「弱点といえるのかどうかは分からんが……」
「何ですか?」
コーチの津下直紀が反応した。
佐藤は高踏の最終ラインを指さした。
「高踏はボールをおさめるのが最終ラインになっている」
一般的にはチームのペースを上下させる選手は中盤にいることが多い。チームカラーに応じてトップ下にいたり中盤の底にいたりする司令塔タイプの選手だ。
しかし、高踏は中盤から前に司令塔タイプの選手がいない。強いて言うなら、この試合は出ていない鈴原真人が多彩なパスで局面を変えるタイプであるが、その彼にしても大きく溜めを作るタイプではない。
その結果、最終ラインにいる林崎大地、園口耀太がキープして落ち着かせる役を担っている。
高踏の場合、中盤は激しいボールの奪い合いの場であるので、落ち着いてボールを持つことができない。そういう点では最終ラインにいる選手が司令塔の役割を果たすことは不思議なことではない。
ただ、最終ラインにいる選手がペースを変えるとなると、その後ろには誰もいない。そこでミスが生じれば一気に得点のチャンスが増える。
増えるのでは、あるが……
「今日に関しては無理だろうな」
猛攻にさらされていて、全員がすでに心理的にヘトヘトの状態になっている。ここから全力で相手最後尾にいる林崎まで追いかけるのは無理だろう。
よしんばできたとしても、3点リードされているこの試合で1点返してもあまり効果がない。狙いどころとして残しておいて、次の対戦で突く方が良い。
30分ちょうど。
エリアの外でボールを受け、ドリブルで切り込もうとした加藤が倒されてフリーキックを得た。
キッカーは当然、立神翔馬。一度、背を向けてから助走をとり、鋭い回転をかけて弧をかける。
宍原が飛びつくがバーに当たって跳ね返った。
その跳ね返ったボールに瑞江が飛び込んだ。
「前半だけで4点取られたのはいつ以来だろうな……」
佐藤は自嘲気味に笑った。
「もう10年以上ないだろうが、これが現実ということか」
もちろん交通事故に遭うような確率で、一方にだけ良い結果が出る試合というのもたまにある。
この試合はそうではない。実力通り圧倒している方が、実力通り4点取っている。
「……何か変えますか?」
後半も含めて、戦略を変更するか。津下が尋ねてきた。
「変えて有効と思える手もないからな……」
控え選手はまだまだチーム戦術に馴染めていない。きちんと分かっている面々でもこの状態であるから、控えを入れるとチーム自体がバラバラとなるだろう。
「ただ、一年に経験させた方が良いとも思いますし」
もっとも、津下の言うように1年にこの状況を理解させることが、長い目で見るうえでは有効かもしれない。
いずれにせよ、確実なのは。
「夏と秋は、一からやり直す必要があるということだ。このままだと高踏はおろか、他のチームにも抜かれてしまうかもしれない」
深戸学院の強さの源泉であった「県内では常に深戸学院が勝つ」という信仰は崩壊した。
この試合の後では、4強の他チームはおろか、樫谷や松葉商業といった中堅どころでも「深戸学院もたいしたことはない。自分達でも勝てるはずだ」という思いをもってくるだろう。
それはどこか願っていたことでもある。
自分達が圧倒的に強いわけではないのに、県下を制している。それではいつまで経っても盛り上がらないし、発展しない。
現在、高踏高校が出て来た。それ自体は望んだことである。
ただ、高踏という一チームのみが一気に発展し、他チームを置いてけぼりにしてしまうということは、さすがに予想外であった。
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