4月9日 19:42 樫谷市内・焼き鳥屋

 時計は19時を回っていた。


 樫谷市内の焼き鳥店にジャージー姿の男2人が座っていた。


 手前にいる年上の男はこの春から樫谷監督に戻った藤沖亮介、その隣にいるのは昨年サッカー選手を引退し、この春から母校・樫谷のコーチとして戻ってきた桜塚耀だ。


「コーチはどうだい?」

「想像以上に大変です」

「まあ、昨日まで自分のことだけ考えていれば良かったのが、いきなり20人30人という部員を見なければいけない立場になるからね。しばらくは大変だろうけれど、そのうち部員の個性も見えてくるようになるだろう」

「……頑張ります」


 桜塚が頭を下げる。


「ただ、現役時代と違って、とことんまで自分を追い込む必要はない。節度を守れば酒を飲んでも大丈夫な点は良いと思うよ」


 そう言って、ハイボールで乾杯をかわして、枝豆をつまみつつ焼き鳥が来るのを待つ。



 それから20分ほど、焼きあがった鳥串を食べつつ、雑談が続く。


 桜塚としてみると、もう少し真面目な話がしたいようで、ちょっとしたことにサッカーの話題を入れようとするが、藤沖は「この鶏皮とポン酢が美味いんだよ」とか「冷ややっこが美味しくなってきた」だの食べ物の話しかしない。


 更に20分、ようやく練習試合の話になった。


「高踏高校からの返事が来て、4月29日で向こうのグラウンドで練習試合をすることになった」

「……高踏って公立ですけどグラウンドが凄いんですよね?」

「そうそう、今回選手権でも結果を出したし、更に整備されているかもしれない。施設は県内で一番だろう。チームも一番になったけれど」

「でも、藤沖先生はある程度チームも見ていましたし、つけ込めるところを押さえているんですよね?」

「……まあ、全くないとは言わない」

「となると、29日も善戦くらいはできるのでは?」

「いや、29日はそんな細かいことはしないよ」

「えっ?」


 桜塚が目を丸くする。



「高踏高校の躍進で、ちょっとした話題になっているよね。選手の自主性が花開いたチームの方が強いのではないか、と」

「そうですね」


 選手権は北日本短大付属が優勝したが、その北日本は元々県内の本命候補ですらなかった。夏に練習試合をして負けたことで「ここに勝つ」と選手達が目標をもって新しい練習に取り組んだことが優勝に繋がったという。


 高踏自身もベスト4まで進んだこともあり、「高い志を持ち、選手自身が主体的に練習メニューを考える」という高踏式のやり方がしばらくの間喧伝されていた。


「だから、29日に向けては選手達のやりたいようにやらせようと思う」


 桜塚は少し険しい顔をして首を傾けた。


「それで良い結果が出ますかね?」

「細かい結果までは予想できないけど、普通にやれば惨敗だろうね。ただ、別に問題ではないよ」


 藤沖は「昔の話だけど」と話を切り替える。



「大分前に日本代表の監督をやっていたイビチャ・オシム氏が、当時のユーゴスラヴィア代表監督を指揮していた時、ワールドカップ初戦で結果的に優勝国となった西ドイツと当たった時の話を知っているかい?」

「知りませんね」

「オシム氏は日本でも『走るサッカー』を実践していたけれど、ユーゴ代表でもそれを望んでいた。ただ、当時のユーゴには天才的な選手が何人もいた。ドラガン・ストイコビッチ、サフェト・スシッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネツキ……」

「日本になじみのある名前もありますね」

「だから、みんなは名手の競演を期待した。オシム氏もそのメンバーを送り出した。結果大敗した」

「日本もそんなことがありましたよね……」


 名手と呼ばれた選手をなるべく多く起用した結果、全体としてのバランスが崩れて負ける。よくあることではある。


「ただ、これは織り込み済みだったんだよね。そもそも西ドイツは強いからまともにやっても勝てるかどうか分からないし、別に何点差で負けても初戦だ。グループリーグの残り二試合をきちんとやれば良い。だから、皆の期待するメンバーを送り出して現実を見せたわけだ。『どうだ? そんなに甘くないんだぞ。だから、残り二試合は俺の言う通りやるからな』と」

「あぁ……つまり」


 桜塚にも藤沖の意図が読めてきた。


 高踏は西ドイツであり、樫谷はユーゴスラヴィアなのだ、と。


「それもある。あと、我々が県代表を掴むためには高踏と深戸学院を超えないといけない。だから、総体予選や選手権予選で高踏とやる時に全てを賭けて臨む準備をしなければならない。練習試合で研究した成果を出して、警戒されても全く意味はないんだよね」


 だから、好きなようにやって惨敗したとしても、それはそれで良い。


「もちろん案に相違して、彼らが好き放題やって高踏相手に頑張るかもしれない。そうなればもちろん収穫だ。我々にとって損ではない」


 多分、そうならないとは思うけど、と藤沖は付け加えてニヤッと笑った。



「……西ドイツに負けた後、ユーゴはどうなったんでしたっけ?」

「残りの二試合に勝ってグループリーグを突破して、確かベスト8まで進んだんじゃなかったかな。ここから次の欧州選手権やワールドカップに向けてというチームだったけれど、ユーゴ国内で内戦が起こって出場停止になってしまった。92年の欧州選手権ではユーゴの出場停止で代わりに出たデンマークが優勝した」

「それはオシム氏にとっては無念だったでしょうね」

「さすがに内戦と比較するのはおこがましいけど、僕も去年は交通事故で丸々一年棒に振ったけどね」


 その結果、自分が指揮していたら決して起きない化学反応が起こって高踏高校が一躍県内最強チームになりつつある。


 運命とは分からないものだ。

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