4月2日 10:48 高踏高校グラウンド

「あ、時間ですね」


 卯月が笛を吹いた。


 全員、動きを止めて、卯月のところに戻ってくるとともに、真田の隣にいる河野にも気づく。


「あれ、この人は?」


 サッカー部のグラウンドでは中々見ないスーツ姿だ。一見してメディア関係者かと思うが、真田や卯月が何も言わないところを見るとそうでもないらしい。


「河野さん、お願いします」


 陽人が自己紹介を促した。


「俺は河野和一朗こうの わいちろう。一応、元Jリーガーだ」


 おぉ、というどよめきが起こる。


「といっても何者か分かるのは相当なマニアだろう。俺は関東の大学を出て19年間プロだった。ポジションは中盤の底かディフェンダー。カテゴリーや大会を問わなければ16ゴールをあげている」

「19年!?」


 無理もない。19年ということは彼らの人生より長い。


「2度、チームを昇格させたが、逆に3度の降格を経験した。5回クビになり4度拾ってもらった。19人の監督の下でプレーをし、あらゆるカテゴリーで500を超える試合に出たが、200を超える敗戦も経験した。大小問わなければミスの回数は5000を下らない」


 苦労人というやつか、と小さな声が飛んだ。「こら、誰だ」と真田がむっとした顔で言うが、河野自身は気にしない。


「そうだ、苦労人だ。それだけサッカーで苦労したにも関わらず、引退後もサッカーに携わり、今回、ここに特任コーチとしてやってきた」

「特任コーチ?」


 全員の目が丸くなった。



 陽人が前に出る。


「選手権の後、県協会の人とちょっと話をしたんだよ。以前も話したと思うけど、来週には県のリーグ戦が始まる。で、高踏がどこに所属するかということだ」


 高踏高校は従来、地域リーグの一番下だった。去年はリーグ戦の参加登録申請すら出していない。そのままなら、地域リーグの一番下カテゴリーからの参加になる。もっとも上にあるプリンスリーグから7つ下のカテゴリーだ。


 しかし、これはあまりに無意味だ。全国四強にまで進んだ高踏にとって一番下のカテゴリーで圧勝確実の試合をさせられるのは罰ゲームのようなものであり、対戦相手にとってもただぼろ負けする罰ゲームである。また、上位校にとっても高踏との試合がないということは喜ばしいものではない。


「その結果、県1部にAチーム、県2部にBチームが参加することに決まった」

「1部と2部か」


 昨季の実績だけを見れば一番上のプリンスリーグでも良いだろうが、さすがにいきなり飛び入り参加でそこは都合が悪い。


 1部はその下のカテゴリーだが、珊内実業、鉢花、深戸学院B、鳴峰館Bといったチームが所属している。また、2部にも珊内実業B、鉢花B、深戸と鳴峰館のCチームが所属している。


 これなら十分に試合相手として意味がある。


「ただし、スタッフが足りないんじゃないかという指摘はあってね。誰かしら土日に助っ人が必要だという話になった。要は」


 陽人は「これ」と妹を指差す。


「現状、Bチームの監督はこいつが候補になるわけで」

「あぁ……」



 トップチームの監督は陽人、それは全員が認識しているところである。では、Bチームは誰が指揮するか。


 一年次で常に陽人のそばに控えていた後田を、という手もあるが、陽人と後田は同じベンチにいた方がよい。


 また、Bチームは必然的に1年が多くなるだろう。そうなると、同じ1年の方が良いかもしれない。


 1年から選ぶとなると誰か。


 選手権の活躍でサッカー部に入りたがる者は多くいるだろう。しかし、「自分は高踏でコーチをしたくて入学した」という奇特な人間は多分いない。


 そうなると候補は必然的に三人に絞られる。結菜、我妻、辻、中学時代からサポート役を行っていた三人だ。


 ところが辻はカメラ兼技術要員で我妻も技術系である。


 残るのは結菜しかいない。


「……だから少なくともそっちには誰かが必要だろうということで、派遣をお願いした。学校に言えば真田先生みたいなのがもう1人増えたのかもしれないけれど、どうせなら参考になる人に来てもらいたかったんで、何人か候補をあげてもらって河野さんにお願いした」


 陽人の言葉に真田が「うん? 今の言葉はどういう意味だ?」と首を傾げるが、全員気づかないふりをする。



 再び河野が話を始める。


「俺が任された役目は三つある。一つは、ここには何人か代表候補がいるから、その体調と状態を定期的に確認するということ。二つ目は今、天宮君が言ったBチームの監督役。三つ目は相談役のつもりだ」


 そう言って、選手を眺め渡す。


「ここにいる君達は勉強もできるし、苦労は少ないだろう。しかし、これだけの人数がいるから当然うまくいかない者も出てくるだろう。さっきも言ったように俺は19年に渡って負け続けた。ここまで負けた奴はそうそういないだろうし、クビも何回も経験した。だから苦しい思いをしている人間にはある程度伝えられるものはあると思う」

「チーム戦術には?」

「聞かれれば答えることはあるかもしれないが、俺から何か言うことはない。そもそも全国四強まで進んだチームに何か言うなんておこがましい。それに俺は平日に別のチームでも指導をしている。ここで観察したことをそっちに活かそうと密かに思っている」


 今度は真田も「おぉ」と声をあげた。


 平日に別のところで指導をしながら、土日の特任コーチを引き受ける。つまり休みがない。200負けた5度クビになったというところも含めて、この男はとてつもなくサッカーが好きなのだろう。


 自分とは全く違う世界の人間だ。

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