10月1日 14:03
試合前に整列し、挨拶をした後、それぞれのベンチに別れていく。
黄色いジャージーを着た恰幅の良い老人がこちらに近づいてきた。鉢花高校の沢渡一幸である。
「よろしくお願いします」
陽人が正対して頭を下げるが、沢渡はけげんな顔をして通り過ぎた。
あれっと思う間もなく、沢渡はスタンドを眺めている真田に声をかける。
「今日はよろしく」
「えっ? あっ、はい。よろしくお願いします」
真田は突然のことに狼狽して、慌てて頭を下げる。
それで陽人も理解した。沢渡は真田が指揮官だと考えているようだ。
考えてみれば当然ではある。まさか高校一年が指揮官とは思わないだろう。
「昨日の試合はビデオで見せてもらいました。藤沖先生らしからぬチームだなぁと思いましたが、真田先生の方針ですかな?」
「えっ、と……」
真田が目を左右に動かしている。明らかに助けを求めていた。
状況を察したらしい卯月が沢渡の背後に気づかれないように移動して、素早く紙に「沢渡先生」と書いて、真田に見せる。
真田も一礼した。
「沢渡先生、今日はよろしくお願いします。このチームですか? 藤沖先生と、あとは彼と相談しつつ進めています」
真田は陽人を指さした。それで沢渡も陽人に向き直り、「ほぉ」と声をあげる。
「なるほど。藤沖先生、真田先生、学生代表で進めているということですか。それは素晴らしい」
沢渡はそう言って、ノソノソと戻っていった。
スタンドの方では、藤沖の予想に周囲が目を丸くしている。
「鉢花はオーソドックスなフォーメーションで、基本的にはフィジカルの強い中盤で相手を潰して、攻撃は手数をかけないでいく。ただし、今日は中盤、前線ともに陣容を変えている」
笛が鳴り、鉢花高校のキックオフで試合が始まる。
「一方、高踏はここまで総体もリーグも出ていない。当然、鉢花は昨日の試合を研究していて、ハイライン・ハイプレスのチームだろうと見当をつける。ただし、戦力も昨日のもので判断しているはずだ」
「そうですね。地域予選は誰も来ていませんでした」
「昨日のベースを前提に、鉢花の面々は最終ラインから裏狙いを徹底する」
ボールが鉢花の右サイド、高踏にとっては左サイドにいる山岡に回った。ルックアップし、前線を確認する。
そこに稲城がプレスをかけに前に出る。
「早い!?」
誰かが叫んだ。
山岡が右足を振る。稲城が飛び上がった。
激しい音がした。飛び上がった稲城の背中にフィードのボールが当たり、跳ね返りが転がる。
近くで最初に反応したのは芦ケ原だ。
それよりも早く逆サイドの立神が手をあげている。
左ウイングがプレスに行った時に、反対サイドの一番遠い選手がゴール方向を目指す。北日本短大付属との練習試合でも見せた基本的な約束事だ。
芦ケ原がパスを通そうとした。
だが、これはかなり長くなり、さすがの立神も追いつけない。
「あ~、勿体ない!」
「鈴原さんか園口さん経由だったら……」
宍原と結菜が頭を抱える。
芦ケ原は二列目からの飛び出しとフィニッシュセンスは秀でているが、スルーパスなどはレパートリーにはない。無理に自分で狙うよりも、一つ繋くべきだった。
立神の走力なら相手を十分振り切れるのだから。
相手が鉢花というプレッシャーが、知らないうちに芦ケ原にもかかっていたのかもしれない。
ただ、下を見ると高踏ベンチの前に出た陽人は「それでいいぞ!」と手を叩いている。
結菜も気を取り直す。
技術的なミスは仕方がない。しかし、ポジションなど約束事のミスはダメだ、という原則からすれば、今の芦ケ原のプレーには何の問題もない。
藤沖も頷いている。
「これでいいんだ。次以降、山岡はロングボールを蹴りにくくなる」
「稲城さんも颯田さんも、早いし馬力がありますからね。のんびり蹴られるなんてないですよ」
「そう。高踏の3トップはプレッシングだけなら県内一だ。だから、最終ラインからのロングボールはほとんど狙えないわけで、沢渡先生の作戦は不発に終わる。とはいえ、元来の方針も中盤省略に近いから他に打つ手もない。そうなると次の作戦に移行しなければならない。人を変えるか、やり方を変えるか。どちらを取るにしても、控え組主体なので主力ほどスムースには移行できない」
今度は反対サイドからロングボールを狙おうとするが、これはオフサイドになってしまう。
鉢花の前線の二人はレギュラーではない。コンビネーションや阿吽の呼吸という点でもズレがあるのだろう。
「鉢花は前半の15分くらいを機能できないまま過ごす。15分を過ぎる頃には修正が入るけど、今からしばらくは格下相手にうまくいかない焦りが出て来る」
まだ前半3分であるが、早くも沢渡が前に出て、両手を下に下げるような仕草をした。落ち着け、ということなのだろう。
「この時間帯に……先制点が欲しいね」
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