5月20日 9︰20

 予算の話から10日後の土曜日。



 朝から練習していると、グラウンドの横に白色のワンボックスカーが停車した。


 そこから70くらいの男女二人が降りてくる。


「あれは誰だ?」


 練習の合間に気づいたメンバーの間から訝しむような声があがる。


 その疑問は、結菜が「こっちでーす」と呼びかけている様子を見て解消された。二人が孫娘のところに行くような笑顔で降りてくる。


「今日と明日、トレーナーとして来てもらうことになった大溝夫妻です」


 結菜の紹介に、陽人は「えっ」と声を出しそうになった。トレーナーに声をかけると言ってはいたが、こんな老夫婦が来るとは思っていなかったのである。


「結菜、この二人、大丈夫なのか? ファンタジーゲームでもないのだし、老人に訓練してもらうっていうのは」


 陽人は小声で聞いたが、二人に聞こえてしまったようだ。馬鹿にするなという様子でぴらっと写真を見せてきた。


「これは、アメリカンフットボールの集合写真ですか?」


 いかにもアメフトのヘルメットをかぶっている屈強そうな選手たちが勢ぞろいしている端っこの方に、若かった頃の二人らしい人物が写っていた。


「大溝夫妻は20年前はボストン・ナショナルズのトレーナーをしていたんだって。あのビル・マクレディもこの人達のおかげで強肩になれたっていう話よ」

「ビル・マクレディって、去年引退した?」


 アメリカンフットボールに詳しくなくても、ビル・マクレディの名前はスポーツ好きならほとんどの者が知っている。一人で7回の優勝経験がある生ける伝説だ。


 若い頃は肩が強くなく、短いパスを主体に勝利していたが、キャリア中盤頃からは肩が強くなり、ロングパスも投げられるようになったという。


 それが大溝夫妻によるもの、となればただ事ではない。最初の馬鹿にするような視線が「本当なのか?」という視線に変わっていく。


「まあ、ビルは練習熱心な子だったから、我々がいなくてもああなれただろう。彼に関してはわしらの功績じゃないよ」


 二人は謙遜して笑っている。


「で、15年前にアメリカから帰ってきて、それからは時々の講演と頼まれれば少年チームの手伝いをしたみたいなの。たまたま個人サイトを彩夏が見つけて、今回お願いしてみたのよ」

「そ、そうなんだ......」


 それなら頼りになるのだろうか。


 まずは園口が前に出た。


「俺......じゃなくて、僕は足が遅いって言われているんですけれど、速くなるでしょうか?」


 夫婦が顔を見合わせ、園口に「まず走ってみてくれ」と指示を出した。園口が実際に走ると、二人とも「あぁ」と何か思い当たったような顔をする。


「グラウンドを20周」

「えっ!?」

「グラウンドを20周。それができないなら、諦めるんじゃな」

「......わ、分かりました」


 首を傾げながら、園口はグラウンドを周回しはじめた。


「こら、一つじゃない。向こうのラグビーも含めて全部だ」


 園口がピッチ一面の一周で曲がろうとすると、叱責が飛ぶ。


「お、大溝さん。ここまるまるを20周になると18キロくらいになりますが......?」


 結菜もさすがに「やりすぎだ」と思ったようで翻意を促すが。


「分かっている。そうしなければ速くなることはできない」

「ほ、本当なんですか?」

「他に見てもらいたい者はいるか?」


 大溝夫妻の問いかけに、一同が顔を見合わせる。園口のように延々と走らされるのも大変なので、全員、黙って様子を見ることにしたようだ。


「......他は皆、自分の走りに満足しているわけだな」


 ニヤッと笑いながら、全員を見回す。多少気まずい雰囲気だ。


「ならいいだろう。では、瞬発力をあげるトレーニングをいくつかやってみようか。あっちの彼は速くなりたいと思っているようだが、実際にサッカーで必要なスピードというのは長い距離を走るものより、短い距離で相手より一歩先んじるスピードだ。ウサイン・ボルトがサッカーをやりたがったという話を聞いたが、100メートルを9秒で走れたとしてもサッカーではほとんど役に立たない」


 夫婦はコーンを取り出して、短い間隔で設置していく。


「NFLでは40ヤード走を走るスピードが問われるが、サッカーの場合は20、いや、10メートルをどれだけ鋭く、速く走れるかが重要だ。停止状態から加速までの時間を短くし、いちはやくトップスピードに達する。これらはトレーニングで磨かれるのももちろん、心構えや準備によるところも大きい」


 まあ、とりあえずやってみようか、と二人は笛を取り出した。


 外周をヒィヒィ走る園口以外の者にとっても、きつい練習が始まった。

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