第40話
ふらふらと歩くじゅんは、幽霊のようだったかもしれない。
りんが仕合せであれば、じゅんも仕合せを感じられるはずだった。寂しくても、りんの嬉しそうな顔が見られたら耐えられる。
けれど、りんは思った以上に頑なで、素直に徳次の元へ行こうとしてくれない。それは、徳次との間に確かな言葉がないから不安に思うということもあるのだろうか。
思いきって飛び込んでしまえばいいのに、それができないのがあの二人なのかもしれなかった。どちらも踏み込まない、それでいて寄り添っていると感じられる二人だ。
遠くから、本当に、りんに見つからないような遠くから見守ろう。そう思って出かけたのに、じゅんはすぐに弥助と彦松に見つかった。
「あぁっ、こら、おじゅんっ。お前、姉さんだけ働かせて、どこをほっつき歩いてたっ」
声がでかい。いつもなら言い返すじゅんが背中を向けて逃げ出したからか、二人は追いかけてきた。さすがに、女子の足では振りきれなかった。
二人に囲まれ、じゅんは口をへの字に曲げる。何も答えないじゅんだったけれど、二人は何かを感じたのか、困った顔をしていた。それは慣れない赤子の守りを押しつけられたのに似ていたかもしれない。
「なんだそのシケた面は?」
「――別に」
「別にって顔かよ」
彦松はそう呟くと、月代の辺りを掻いた。
「おりんちゃんも詳しいことは言わねぇけど、ありゃ相当参ってるぞ?」
ぎくり、とじゅんは顔を強張らせた。
参っているというのは、一人で四文屋をやりくりして疲れが溜まったということだろう。
「あたし、姉さんに商いはもうおしまいにしましょうって言ったの。あたしたちみたいな素人にはやっぱり向いてないのよ。ねえ、弥助さんも彦松さんも姉さんに辞めるように言ってよ。姉さんはお嫁に行ったらいいの」
嫁になぁ、と弥助がぼやいた。
「商売を辞めるか続けるか、それで喧嘩になったってぇわけか? おじゅんはそんなに働きたくねぇのかよ?」
「そうじゃないわよ。そういうことじゃなくて――」
言いかけたじゅんの言葉を彦松が片手を上げて遮る。
「まあいいや。俺らの後ろに隠れてついてこい。姉さんが今、どんなふうなんだか見てこいよ」
もともとそのつもりでいた。じゅんは小さくうなずいてみせる。
いつもの広小路の騒がしさが、進む方向が逆なだけでまた違って見える。途中、袖の団子屋を通りかかると、袖が軽く口の端を持ち上げて見送った。
じゅんが見世に立たなくても、特別何かが変わるわけではない。相変わらず賑わいでいて、道を行く人々は忙しげだ。しょんぼりとうつむいて歩いていると、前を歩く二人が急に立ち止まった。だから、じゅんは弥助の背中に額をぶつけてしまった。
なんだろうと思って二人の隙間から前方を見ると、勘助の天麩羅屋が見えた。その奥に富屋がある。小さな屋台は天麩羅屋の陰になってよく見えなかった。ただ、大家が作ってくれた紅染めの幟がちらちらと見えるだけだ。
そちらにばかり気を取られていたじゅんだったけれど、弥助と彦松が立ち止まったのは、何か異変を感じたからだったようだ。
富屋の前に立っているのは、儀右衛門だった。そういえば、また返事を聞きに来ると言っていた。じゅんは自分の気持ちの整理がつかず、悩んでぐちゃぐちゃになって、嫁ぐ決意だけは固めて、けれど確かな返事はまだしていなかったのだということに今、気がついた。
「――お前がおじゅんの姉か?」
儀右衛門がまた上から物を言う。じゅんはもう怯まないけれど、りんはびっくりするだろうか。源六親分にさえ怯まなかったりんだから、ここもやんわりと切り抜けるかもしれない。
じゅんは、出ていくべきか迷ったが、そんな間にも二人の話が進んでいく。
「はい。りんと申します」
りんの声はそれほど大きくもないのに、不思議とじゅんの耳に届いた。むしろ、周りの喧騒が耳に入らない。
「そうか。儂は田島屋儀右衛門という。おじゅんから何か聞いておるかな?」
「ええ、若旦那さんがおじゅんを嫁にお望みだとのことで」
弥助と彦松がじゅんを振り返ったけれど、じゅんはそんな二人の間からなんとかしてりんの様子を窺おうとした。ほんの少し見えたりんの白い顔は落ち着いている。
儚げに見えてもりんはしっかりしているのだ。
「そうだ。息子の嫁にもらい受けたい。それで、返事を訊くために来たのだが、おじゅんがおらんようだ。まあ、姉のお前の口からでも返事を訊ければいい。さあ、どうなんだ?」
儀右衛門は息子可愛さで先走っている。郁太郎は父親がこんな話をじゅんに持ち掛けているのを知っているのだろうか。このところ、顔を見ていないからよくわからない。
りんは、じゅんが伝えた通りのことを儀右衛門に言うだろうと思った。本人にそのつもりがあるようだと。
そうしたら話が進み、りんはようやく自分のことを考えるようになる。これでよかったのだ、これで。
そう自分に言い聞かせつつも、じゅんはふと考えた。
袖のところにいる間中、気になるのはりんのことばかり。その間、郁太郎のことは一度も想わなかった。その相手の嫁になろうとしてるのだ。
じゅんは、一体自分は誰のために何をしようとしているのか。
迷いが、足を竦ませた。
そんな中、りんの涼やかな声がした。
「そうですね――」
ため息交じりに呟く。
しかし、その次の言葉は打って変わってはっきりとしたものであった。
「私も田島屋さんも当人ではございません。ただ、当人たちの一番近しい者で、その仕合せを願うあまり、なんでも手を貸したくなるお気持ちはわかります」
「なんだと?」
「田島屋さんが若旦那さんのことを思っておじゅんのとの話をつけに来られたのは承知の上で言わせて頂きます。私もまた、おじゅんのただ一人の身内でございます。ですから、私は、必ずおじゅんを仕合せにしてくれるお相手だということを見届けなければ、首を縦に振ることはございません」
「うちの郁太郎では不足と言うのか?」
「不足の前に、お会いしたことがございません。ですが、御当人直々に、うちのおじゅんを嫁にほしいと仰って頂きたかったものです」
偉そうな儀右衛門を相手に、りんは引かない。平気なわけはないだろうに。
それでも、いつもじゅんを守ろうとする。そんなふうに無理をさせてしまうから、じゅんはりんのそばで甘えてばかりはいられないのだ。
儀右衛門は、りんの頑なさに苛立っただろうか。商家の主が小娘にこうした態度を取られて気分を害したはずだ。りんはそれを承知しつつも、じゅんのことだからと折れない。
居たたまれないのはじゅんだった。りんに苦痛を強いている、と。
しかし、ふと儀右衛門がりんに言った。
「お前は随分としっかりしておる。妹を守りたいと思っておるのもわかる。だがな、お前のそうしたところが妹にとっては悩みの種なのかもしれぬぞ」
儀右衛門は商人だ。人の心を読み、裏を探る。そうした技に長ける。この時も、姉妹の心を読み取ったかのようだった。
ずっと、張り詰めていたりんが、その言葉で急に脆くなった。え、と呟いて息を呑む。
「おじゅんが言っておったぞ。姉には好いた相手がいるが、嫁に行こうとしないと。おじゅんなりに、お前の荷物になっておるのだと、お前がおじゅんを守るために己のことを後回しにしてしまうことに悩んでおるふうだった」
「それは――」
りんがこの時、くしゃりと顔を歪めたのが見えた。あんな顔を見たことはない。りんはいつも、あたたかに微笑んでいて、じゅんを優しく包んでくれて――。
それが今のりんは、年相応の小娘のようだった。傷ついた心を隠さず、涙を浮かべる。
「私は、おじゅんがいないと何もできないんです。あの子がいたから、苦しくても強くいられました。おじゅんを守っているなんて、本当は違うんです。私は、おじゅんを支えにして、頼りきって、駄目な姉なんです。おじゅんが自分で決めて私から離れていくのを、本当は見送ってあげなくちゃいけないのかもしれないって、何度も考えて、でも――」
頼りない、りんの声。
しっかりしていて、なんでもできる自慢の姉。
けれど、姉ではない『りん』としての顔をじゅんはどれだけ知っているのだろう。
じゅんが重荷だと、じゅんが思い込んだ。りんがそれを言わないのは優しさだと。だからそれに甘えていてはりんの仕合せを損ねてしまうと。
しかし、じゅんならばどうなのだ。りんがじゅんの仕合せのために出ていくと言って、嬉しいと思えるのか。勝手な思い込みで動いたのはじゅんだ。
――妹がいなかったら、今の私はなんの支えもないまま生きているだけでした。いてくれてよかったと思うことはあっても、大変だと思うことはありません。
りんはいつだって本音しか言ってこなかったのに。
りんは、不器用で騒がしくて手のかかる妹を、それでも大事に想っていてくれる。空回る心が、時にはずれていってしまうこともあるけれど、じゅんにとってもりん以上に大事な人はいないのだ。
あんなふうに泣かせたくなんてない。
顔を手で覆ったりんに向かって、じゅんは衝立のように自分を隠してくれていた二人を押しのけて走った。
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