第39話

 翌朝。

 じゅんは袖の夜具に入れてもらって眠ったから、寒くはなかった。父が生きている時は、三人で二枚の夜具を使っていて、りんとじゅんは一枚で肩を寄せ合って眠っていたのだ。広くなった夜具の中では手足を伸ばせるけれど、同時に寂しくもあった。


 だから、袖と二人で寝て、以前のことを思い出すのだった。

 体が大きくなる前は一枚でもよかった。大人になっても一枚で、けれどそれが当たり前で、嫌だとか思う余地もなかった。


 いつも一緒。いつも、いつでも。

 一日、顔を見なかったことなど今までにない。


 じゅんは団子の支度をする袖のために竈で飯を炊いた。茄子の味噌汁も作ったが、不味いと言われた。言われるだろうと思った。


「あんた、味噌汁もろくに作れないのに嫁に行くんだね」


 袖の言い分に、ぐうの音も出ない。


「お味噌汁って難しいじゃない」

「味噌汁より難しい料理の方が多いんじゃないのかい? あんた、味噌が少ないんだよ。汁が透き通ってるし、出汁も足りてない。水が多いからこうなるんだ」

「ああ、そうか。そうね」


 袖はずず、と薄い味噌汁を飲み干すと、椀を膳の上に戻した。ちなみに、じゅんの分の箱膳はないので、盆の上に椀を置いてあるだけだ。茶碗はほどよいものがなく、どんぶりに飯が入っている。袖は独り身なのだから仕方がない。


「じゃあ、行ってくるよ。あんたもさっさと出ていきなよ」

「いってらっしゃい」


 出ていけと言うけれど、多分帰ってきてもまだいるだろうとは思っている。袖はなかなかに肝の据わった女子だ。



 じゅんはこの日、水を汲みに行くくらいしか外へ出なかった。妙に長居しているあの娘は一体何なのかと、長屋の女房たちがじゅんに根掘り葉掘り訊いてくるので、それを躱すのが大変だった。


 ただ、朝餉の後片づけをして、掃除をして、それが終わってしまうとこれといってすることもなくなる。そうしたら、妙に落ち込んだ。

 壁際で膝を抱えてぼうっとする。


 今日もまた、りんは一人で売り物を用意して、一人で売り捌いているのだろうか。無理はしないとりんは言ったけれど、しているはずだ。


 毎日忙しくしていたから、じっとしている今がじゅんにとっては疚しい。

 りんは広小路にいるだろうから、それとなく長屋に帰って皆にりんの様子を訊いてこようか。徳次にも話をしたい。


 そう考えてかぶりを振る。駄目だ、一度戻ったら、皆はじゅんを引き留める。馬鹿だと叱られるだけだ。皆がそう言うとわかっているのなら、やはりじゅんのやり方は間違っているのか。


 ――そうかもしれないけれど、今さら他のやり方は見つけられない。

 こんな時、富吉ならなんと言っただろう。


 きっと、お前は俺に似て馬鹿だから、難しいことは考えるな。なるようにしかならねぇんだよ、とか、役に立たないことしか言ってくれなかった気がする。


 けれど、それを言う富吉の顔は優しく、力が抜けるほどの屈託のない笑顔なのだ。そんな顔をして、わしゃわしゃと結い髪が崩れるほどの勢いで頭を撫でる。いつまでも子供扱いしないでと怒るじゅんに、がはは、と豪快な声を立てて笑う。

 そんな父にも無性に会いたくなった。どうしてだか、一人でいると涙もろくなってしまう。



 三日目になると、袖は出ていけと言わなくなった。言わなくてもそのうちに出ていく頃合いだと思ったのだろうか。本当に、いい加減にしなくてはならない。じゅんが食べた飯代もすべて片がついたら返したい。


 最初はぽんぽんと辛辣なことも平気で言っていたのに、袖は憎まれ口も叩かなくなった。それが何故なのか、じゅんにはわからない。


 袖は、支度を終えると出かけに言った。


「――あんたさ、そんな顔してるくらいなら我慢しないで姉さんの顔見に行きなよ」


 それだけ言って、ぴしゃりと戸を閉めて出かけた。

 取り残されたじゅんは、自分の顔を撫でた。しかし、それだけではわからない。


 いや、本当は、わかっている。

 今のじゅんの心が顔に表れているのだ。


 こんなにもりんに会わなかったことはない。あの優しい微笑みが、どんな時もじゅんの心を癒してくれていた。富吉を亡くした時でさえ、りんがいたから乗り越えられた。りんがそばにいないじゅんは、こんなにも脆くなってしまうのか。


 会いたい。寂しい。

 りんのため。すべてはりんのためだ。


 己の寂しさは耐えなくてはと、じゅんはこの日々を堪えた。そのつもりが、寂しすぎて笑えない。心が欠けてしまったように。


 ――顔を合わさなくてもいい。遠くから姿を見るだけなら許されるだろうか。

 じゅんはぽっくりを履くと、外へ出た。

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