第38話

 少し行けば袖の団子屋がある。団子の匂いがそれを物語っていた。

 袖はじゅんの顔を見るなり嫌そうに顔をしかめた。それでもじゅんはお構いなしに袖にすり寄る。


「お袖さん」

「なんだよ、あんた、稼ぎ時に何をふらふらしてんのさ。姉さんに屋台を押しつけてきたんだろ」


 結果としてそうなってしまったので、何も言えない。ただ、じゅんが目にいっぱい涙を浮かべると、袖は焦ったらしい。


「ちょっ、なんなのさ、あんた。商いの邪魔しに来たのかいっ」

「お袖さぁん」


 わぁ、と子供のように泣いてしまったのは、腹が減っていたからでもあったかもしれない。袖はさらにぎょっとして、じゅんを裏の方へ押し込めた。


「だから、邪魔しに来たのかいっ」


 怒ったふうに言うけれど、これは困っているだけだ。じゅんは涙を拭うと、言った。


「しばらく家に泊めてほしいの」

「あんたねぇ――」


 袖は呆れてものが言えないようだった。団子を持つ手が震えている。だが、客が来るなりサッと顔を整えて何事もなかったかのように客あしらいをした。

 その客が去ると、袖は足元にしゃがんでいるじゅんを睨む。


「姉さんと喧嘩したんだね? それはあんたが悪い。すぐに謝って帰んな」

「理由も聞かないでひどい」

「あんたとあの姉さんだったら、あんたの方がまず悪いに決まってんだろ」

「ひどい」


 ひどいけれど、袖の遠慮のない物言いが今はかえって心地よくもあった。


「――じゃあ、話を聞いて」


 じゅんは袖の足元で、ぼそぼそと顛末を語った。袖は率直な人だから、馬鹿だと言われると思った。そうしたら、ため息をつかれはしたけれど、袖は馬鹿だと言わなかった。後で言うつもりかもしれないけれど。


 そう思って身構えていたら、袖は短く言った。


「北本所表町の茂兵衛もへえ長屋」

「え?」

「橋を渡ってすぐ、川沿いを右に歩きな」


 見上げるじゅんを見ずに、袖はそっぽを向きながら呟く。


「なんだ、うちに来るんじゃないのかい? 言っとくけど、少しだけだからね。居つくんじゃないよ」


 駄目で元々だと言ってみた。本気で泊めてくれるとは思わなかったのだ。じゅんが目を瞬かせていると、袖がしゃがんでいるじゅんにわざとぶつかる。


「とにかく、そこにいると邪魔だよ。さっさと行きな」


 言葉は荒いけれど、少々は気遣ってくれている。じゅんは立ち上がって袖の腕をぎゅっとつかんだ。


「ありがとう、お袖さん」


 袖は照れているのか、フン、とまたそっぽを向いた。最初は嫌な人だと思ったことは墓まで持っていきたい。


 じゅんは袖の住まいへ向かうために吾妻橋を渡る。あちら側へ行けば本所であり、橋を一本越えただけで世間が違って見えた。


 本所にあまり見知った人はいない。じゅんの世間は狭いのだ。それほど遠くへ一人で出たことはない。小さい頃からりんの後ろをちょこちょことついて回っていたに過ぎなかった。けれど、これからはそれではいけない。


 じゅんは通りすがった人に道を訊ねつつ、茂兵衛長屋を探した。



 探したというには大袈裟なほど、近かった。袖も毎日あそこで商売をしているのだから、近くに住まなければやっていけないのは当然だが。


「あの、ここは茂兵衛長屋ですよね? お団子屋のお袖さんのところはどこでしょう?」


 長屋で井戸水を汲んでいた大年増の女に訊ねる。すると、女は手を止めて答えてくれた。


「お袖さん家なら物干しのそば、一番端っこだよ。でも、お袖さんは留守じゃないかねぇ?」

「ありがとうございます。はい、家で待たせてもらうことになってます」


 これが男ならもう少し引っかかるかもしれないが、じゅんは若い娘なので特に気に留められもしなかった。


 じゅんが袖の家の戸を開けると、中は意外と散らかっていた。一人で暮らして、売り物の団子を作って売って、全部を袖だけでこなすのだから、こうなっても仕方はない。


「――よし」


 世話になるのだから、せめて少しくらいは役に立とうと思い、じゅんは部屋の片づけを始めた。

 夜具を畳み、埃を払い、塵を掻き出し、茶碗を洗い、そして拭き――。


「あっ」


 ――割った茶碗を横に置き、竈にこびりついた噴きこぼれを擦り、棚の汚れを清める。


 あれこれと動いていたら、時が経つのはあっという間だった。体を動かしていると、余計なことは考えずに済んだから、それもありがたかった。


 袖が帰って来た夕暮れ時、戸を開けると中の様子が変わっていて、袖は目を疑ったようだった。


「あ、お袖さん。おかえりなさい」

「――あんた、掃除してたのかい?」

「ええ、お世話になるから」


 余計なことをするんじゃないよと怒るかと思えば、そんなことはなかった。ふぅん、と呟かれただけだ。ありがとう、でもない。褒めてほしくてやったわけではないから、それでよかった。むしろ、その方が切り出しやすい。


「あの、お袖さん」

「なんだよ?」

「これ――」


 上がり框に座って履物を脱ぐ袖の前に、じゅんは真っぷたつの茶碗を置いた。


「近々、焼継屋やきつぎやさんが来る用事はないのかしら?」

「――ないね」


 半眼になった袖が呆れているのも仕方がない。役に立つところを見せたかったが、じゅんには抜かりなくこなせる力量がなかったのだ。


「そう。じゃあ、明日直しに行ってくるわ。ごめんなさい」


 すると、袖ははぁ、と嘆息した。


「別にいいよ。それより、あんた、いつまでいるつもりなのさ?」


 それを言われると、強くは出られない。


「しばらく――」

「しばらくって、何日? 頭冷やしたら帰りな」


 それは、その、と言葉を濁すじゅんの答えを待たず、袖はさっさと夕餉の支度に取りかかった。あまり図々しいことも言えたものではないが、朝から何も食べていないじゅんの腹は、ぐぅぅと主張する。

 袖はまたため息をついた。


「わかったって」

「ご、ごめんなさい」

「そんないいものは出ないからね。急に押しかけたんだから、団子の残りだ」

「ありがとう、お袖さん」


 団子の残りと言いつつ、袖は自分が食べるつもりだっただろう飯の残りを茶粥にして半分くれた。それに海苔団子がつく。団子は売れ残りなので硬くなっていたけれど、空腹のじゅんには十分美味しく感じられた。


「お袖さんのお団子、美味しい」

「ハッ。あんたは姉さんの料理が一番なんだろ」

「二番目に、美味しい」


 正直に言って、じゅんは団子を食べることに専念したために無口になった。


「その正直さ、呆れたを通り越して感心するよ」

「ありがとう」

「今の、どこを褒められたつもりなんだい?」

「正直さ?」

「嫌味に決まってるだろ」

「そうなの?」


 出会いはよくなかったけれど、袖と知り合えてよかったと、じゅんは心のうちで感謝していた。こんな時、他に行く当てもなければ、こうして話ができる相手も思い浮かばなかった。袖にとっては迷惑だとしても。

 そこでじゅんは、苦虫を嚙み潰したような顔をしている袖におずおずと訊ねる。


「そういえば、お袖さん、うちの姉さんにあたしがここにいることは教えてないわよね?」


 口止めをしておかないといけないと思った。すると、袖はさらに顔をしかめた。


「言ってない。あんたらの事情なんて知らないよ」

「うん、そうよね」


 そう呟きつつ、じゅんは今頃りんがどうしているのかと考えた。

 一人で夕餉を食べたのだろう。じゅんが残した朝餉を食べて済ませたような気がする。


 思えば、じゅんがそうであるように、りんが一人で飯を食べることも今までになかったのかもしれない。りんは今、どんな気持ちでいるのだろう。一人で食べる冷えた飯は美味しく感じられそうもない。じゅんはりんにひどい仕打ちをしているような気分になった。


 胸がぎゅっと苦しくなる。

 けれど、ここまでしたのだから、やり遂げなくてはならない。

 後になって振り返れば、この時のことを間違っていなかったと思えるように。

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