第37話
翌朝、じゅんが割れそうに痛む頭を抱えながら起き上がる頃、りんがいつものように朝の支度をしていた。二人の朝餉と、四文屋の品物である。
りんは竈の前で振り返る。朝陽が格子窓から差し込み、りんの顔が暗がりになってよく見えない。
「おはよう、おじゅん」
いつもと変わりない声に思えた。
昨日のやり取りが夢だったのかと思うほどだ。しかし、そんなはずはない。ちゃんと話をしたのだ。
じゅんはりんに向かって起き抜けに声を絞り出した。
「姉さん、富屋は今日でおしまいにしましょうね。あたし、お客様にそう言うわ」
今日というのは急すぎるかとも思ったが、言った以上はもう引けない。しかし、それを言った途端に、常連客たちの悲しそうな顔が浮かんでしまった。
皆、あんなに楽しみに通ってくれていたのに。がっかりされる。花咲饅頭が好きなあの女の子は泣いてしまうかもしれない。
しかし、だからといってりんを犠牲にもしたくないのだ。
りんはその場で首を横に振った。
「ううん、まだ続けるわ。だってまだ一年も経っていないのよ。こんな中途半端に辞めたりできないわ。おじゅんがお嫁に行きたいっていうのなら、それはわかったけれど、それでも私はもう少し続けたいの」
じゅんだって、辞めたいと思ったわけではない。商売の楽しみもつらさも味わって、これからという時だ。けれど、それならばいつなら辞めたらいいというのか。十年も二十年もして、そこまで徳次が待ってくれるわけがない。
じゅんは堪らなくなって夜具から飛び出すと、りんに向かって声を荒らげた。
「なんでそんなこと言うの? 姉さんが一人でなんて、できるわけないじゃないっ。あたしもいなくなって、そんな時にまた倒れたらどうするの?」
「それは、倒れないようにほどほどにするわよ」
りんは自分のためにという考え方をしない。四文屋を続けたいというのは、富吉や客たちのために選ぶことだ。それがわかっているから、じゅんは苛立ちにも似た感情をぶつけてしまう。
「そんなの、無理をするに決まってるじゃない。あたしはもう、やらないったらやらないからねっ」
「わかったわ。じゃあ、朝餉を食べ――」
駄々っ子のようなじゅんに、それでもりんは穏やかに根気よく話す。そうではなくて、じゅんはりんを困らせたいのではないのに、上手く言えない。りんが心置きなく嫁に行けるように取り計らえない。己の不甲斐なさにも嫌気が差す。
「いい、要らないっ。姉さんはあたしじゃなくって、徳次さんのご飯を作ってたらいいのよっ」
思いきりそう叫んで、じゅんは履物をつっかけると外へ飛び出した。長屋の皆が何事かと思ってじゅんを見たが、じゅんはその目から逃れるようにして駆け出した。りんのか細い声が何かを言ったけれど、じゅんは戻らなかった。
ほとんど、喧嘩らしい喧嘩もしてこなかった姉妹だ。それが今になってこんなやり取りをしなくてはならないとは思わなかった。もっとじゅんが落ち着いた大人なら、りんともしっかりと話し合った上で決められただろう。りんも安心してじゅんと別れられただろう。
頼りないじゅんだからいけない。りんは少しも悪くなく、すべてじゅんだけが悪いのだ。それがわかるから余計に苦しくなってしまう。
朝から走って、泣いて、じゅんは一目散に駆けた。すれ違った人には何事かと思われたかもしれないが、涙が堪えきれない。
いつもの広小路とは真逆の方へとひた走った。しかし、行く当てがあるわけではない。じゅんは町の角を曲がって、なんとなく行き着いた稲荷社に手を合わせる。
どうか、りんを仕合せにしてくださいと願った。優しい姉に見合った仕合せをと。
小さな稲荷社にはあまり人が来ず、じゅんは涙を拭いて横手にしゃがみ込むと、少し休んだ。
ため息を吐くと、腹の虫がぐぅ、と鳴いた。
それからしばらく辺りをふらふらしてみたものの、どうにもりんのことが気になる。じゅんはりんに気づかれないように、いつもとは違う道を通り、いつも屋台を停める場所から離れた橋の手前に向かった。
そこから、少しずつじりじりと近づく。ただし、家の陰、人の陰に隠れながらだ。遠くから見たりんは、笑顔で客あしらいをしていた。客も、りんに四文を渡して品を受け取り、じゅんがいつも行ってきたやり取りが交わされている。
常連客たちは、今日はじゅんではなくりんが売り子をしていることをどう思っただろう。品が買えれば特に困ることはない。何もじゅんでなければならないことはないのだ。
りんが見世を諦めるようにりんを一人にしたけれど、本当は違う。一人でできないのはじゅんの方だ。りんはなんだってできる。じゅんがいなくとも、富屋は続いていく。
そう考えて、じゅんはかぶりを振った。それでも、りんもそのうちに音を上げるはずだ。その時こそ、徳次に言ってりんを迎え入れてもらえばいい。それなら、りんが諦めるまでじゅんは顔を出さない方がいいのか。
どうしようかと悩んだ後、じゅんにできることは限られていた。
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