第36話

「――姉さん、あのね」


 じゅんは真剣な目をして言った。だからりんも、うん、と呟いて静かにうなずいた。

 しかし、じゅんが言わんとすることをりんが察したはずもない。じゅんは覚悟を決めて口を開く。その間中、心の臓が張り裂けそうで、痛くて、それを堪えるから眉間には皺が刻まれてしまった。


「実は、とあるお店の若旦那さんに見初められて、嫁に来てほしいって言われているの」


 その途端、りんはいつになく大きな声を出しかけて口を押えた。そのまま軽くまぶたを閉じると、うつむき加減で何度か目を瞬かせる。りんが気持ちを落ち着けようとしているのが伝わった。


「一応訊くけど、それは平太郎さんじゃあないのよね?」

「え? 平太郎? 違うわよ」


 そういえば平太郎も若旦那になるのかと、この時まで思い当たりもしなかった。あんなにふらふらしていて若旦那と言えるのかどうかもよくわからない。


「そう――。それはどんなお人なの?」


 りんから笑顔が消えたけれど、怒っているのではない。困惑しているのだ。こんな時、さも愛しいというふうに郁太郎のことを語らないと嘘臭い。――どう語ろうか。りんが徳次を想うようにして、お手本がそばにいるというのに、じゅんはその点がとても下手だったのかもしれない。


「どんなって、穏やかで優しいお人よ。最初に会った時、落ち込んでいたのをあたしが励ましていたのがきっかけで」

「そういえば、よく来てくれる若旦那さんがいるって言っていたわね。そのお人なの?」


 何気なくりんには毎日あったことを話していた。その中で郁太郎の話も何度かしている。じゅんはこくりとうなずいた。


「ええ、そうよ」


 答えると、りんはじっとじゅんを見据えていた。その目は、姉というよりも母のようでもあり、心の奥底まで探り当ててしまう聡さがある。深く切り込むのではない、静かに穏やかに沈んでいく。


 じゅんはいつも、りんに隠し事はしてこなかった。疚しいこともない。けれど今はこのりんの静かな眼差しから逃れたいような気分だった。


「それで、おじゅんはどうしたいの?」


 問い詰める勢いはない。そよめく風のような声音で訊ねてくる。


 答えは用意して臨んだ。それなのに、じゅんはその答えを手繰り寄せられない。自分の中が空っぽになったような気分で喉が詰まった。せっかくりんが作ってくれた夕餉の膳も冷めていく。


 じゅんが答えないから、りんが重ねる。


「その若旦那さんのことが好きなの?」


 りんが徳次を好きなようにして好きではない。しかし、そんなことは言いたくない。じゅんは上手く言えない代わりにうなずいてみせた。そうしたら、りんの目を見ずにいられて、やっと言葉が戻ってきた。ぼそぼそと、それでも何とかして答える。


「うん。とっても優しいし、お店の旦那さんにも会ったけど、あたしのことを気に入ってくれて、上手くやっていけそうって思えたわ。これって、またとない良縁ってやつなのよね」


 すると、りんは少しの間を置くと、じゅんの額の辺りに向けて言う。


「ねえ、一度会わせてくれるかしら。私もきちんとご挨拶したいし、その若旦那さんがちゃんとおじゅんを仕合せにしてくれそうか見極めないと」


 それでは駄目だ。郁太郎は優しいけれど、頼りなさもある。りんが安心してじゅんを送り出してくれるとは限らない。


「いいの、あたしが決めたの。姉さんもあたしのことは気にしなくっていいのよ。――姉さんだってそろそろ四文屋に飽きてきたんじゃないの?」


 焦ってそんなことを言うと、りんの顔が僅かに厳しくなった。こうした顔をすることは珍しい。


「飽きたりなんてしないわ。お客様が買ってくださる品を作るのに、飽きたなんて考えたこともないわ」


 ひとつひとつ丁寧に、顔も見えぬ客のために心を込めて仕上げるりんだから、面倒だと思うこともない。丹精込めて作ることに喜びを感じている。

 それはわかるけれど、徳次との新所帯にはもっと格別の喜びがあるのではないのか。


「そうね、姉さんはそうかも。でも、あたしはもういいのよ」

「おじゅん?」

「あたしはもう飽きたわ。これからもっと寒くなる時季に立って客あしらいをし続けるのも大変でしょう? いいの、お嫁に行ったらいい暮らしができるんだから、四文屋なんて続ける必要もないじゃない」


 頭がずきずきと痛い。胸だけでなく、頭まで痛み出した。息も上手くできない。ただただ苦しかった。


 それは、りんにこんなことを言わなくてはならない日が来るとは思わなかったから。心にもない嘘が苦しいから、体がこの嘘を嫌がっているのだ。


 本当は、りんと一緒に商いをするのが楽しい。ああしよう、こうしようと話し合って品物を作って、客に喜んでもらえて、じゅんもまた確かなやり甲斐を感じていた。何もできないと思っていた自分が、ほんの少しは世間に必要とされたような気がした。


 困ったこともいくつかあって、それを乗り越えて、やっと今がある。けれど、じゅんはそれを終わりにする。すべてはりんのために。

 りんには一番相応しい仕合せが待っている。そこへ未練なく送り出したい。


「ねえ、おじゅん。それなら私も売り子をするわ。代わりばんこね。それでいいでしょう?」


 幼い頃に癇癪を起こしたじゅんを宥める時にも、りんはこんな口調だった。じゅんはりんのように穏やかではない。真夏の蝉が鳴くようにして耳障りに喚き散らす子供だった。


 それを根気よく諭すりんと、ほっとけと言って笑う富吉。

 家族は、それぞれが別のところに行き、もう同じ時は戻らない。

 悲しくとも、どうにもできないことがある。


「そんなの、姉さんが風邪をひいて寝込むだけだわ。姉さんもお嫁に行ったらいいのよ。あたし、近いうちに徳次さんに頼んでくる」


 それを言うと、りんは顔を強張らせた。じゅんが苦しいように、りんも今は苦しいかもしれない。けれど、その先に仕合せが待つ。少なくとも、じゅんはそう信じている。


「いい加減にしなさい。私のことはいいの。今はおじゅんのことを話しているの」


 いつもよりも少し厳しい口調。それでも、りんは優しい。


「一緒よ。姉さんが独り身じゃ、あたしだって安心してお嫁に行けないもの。姉さん、もう商いは終わりにしましょうよ」

「――それじゃあ、おとっつぁんの屋台は? おとっつぁんの想いはどうなるの?」


 亡くなった富吉が始めようとしていた四文屋だ。それを始めたことで、いつまでも富吉が共にいるような気分を感じていた。それはじゅんばかりでなく、りんも同じなのだ。だから、富吉のためにも四文屋を続けていきたいと考えるのだろう。


 富吉を出されるとじゅんも怯んでしまう。

 けれど今、じゅんがここで引いてしまったら、もう二度とこんな踏ん切りはつけられない。このまま姉妹でずっといられたらいいのではないかと思ってしまう。今度こそ、と勢いをつけることをせず、ずるずるとなんとなく生きていってしまうのだ。


 じゅんはそれでもいい。けれど、りんは好いた人がすぐそばにいるのだ。後で後悔はしてほしくない。


「おとっつぁんはわかってくれるわ。姉さん、もういいでしょう?」


 いつもより落ち着いた声を出したじゅんに、りんはひどく寂しげな目をした。じゅんはそんな目をするりんを見ているのがつらくなって、夕餉を急いで食べ尽くすと立ち上がった。


 無言のままに土間で茶碗をすすぎ、手ぬぐいで拭いて箱膳に納める。この動作を、りんが食べ終えるまでゆっくりとこなした。そして、りんも食べ終えて土間に来ると、今度はじゅんが夜具を広げてさっさと横になった。


 今、りんがどんな顔をしているのか、じゅんには見えない。けれど、やはり悲しそうにしているのだろう。

 それは、四文屋のことばかりではない。じゅんと離れて暮らすことになるから、悲しく思ってくれるのかもしれない。


 それでも、いつまでもじゅんが甘えていたのでは、りんはじゅんの守りをして自分のことを考えられないままだ。離れても、じゅんはずっと、りんの仕合せを誰よりも何よりも強く願いつづけるから。


 じゅんが零した涙が夜具に滲んだ。これから、秋を迎えるごとにこの時の悲しさを思い起こすかもしれない。それが和らぐのは、りんが徳次のそばで仕合せになれたことを見届けてからだろう。


 こんなふうに泣いても、胸の痛みはなくならない。それなら、泣くだけ無駄なのだから、涙も諦めて枯れればいいのに。

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