第35話
客がいる間、じゅんは邪念を横に置いて笑顔で客あしらいをした。じゅんが抱える事情は、富屋の品を
しかし、品物が粗方売れて帰り支度をする頃になると、じゅんの胸にもやもやとした霧がかかるようだった。それでも、とにかく帰ろう。じゅんはのろのろと帰り支度をするのだった。
そんなじゅんを勘助が心配そうに見ていた。
郁太郎のことが嫌いであれば話は早いのだが、特に嫌いではない。それなら、そのうちに好きになるのだろうか。好きになるというより、好きではあるのだ。ただ、それが色恋の好きとは違うだけだ。
りんが徳次に向けるような気持ちでないことだけはわかる。そうしたものをじゅんがいつ感じるようになるのか、じゅんにだってわからないのだ。
とぼとぼと屋台を引いて帰ると、井戸の水を運んでいるりんがいた。それを表に出てきた徳次が受け取った。二人の声までは聞こえないけれど、きっと、たまたま外へ出たら重たそうに運んでいるから手伝っただけだと徳次が言い、それでも悪いとりんが恐縮している。
そんなものは、隣に住む徳次ならりんが外へ出たのも音でわかったはずだ。合わせて外へ出たのだと思う。最初から手伝うつもりでいてくれたのだ。
りんは申し訳ないと思うかもしれないが、徳次は手伝いたいから手伝うだけだ。りんのために何かをしてやりたいのだろう。
りんの隣を歩く徳次の顔の優しいこと――。
じゅんはこの時、消えてなくなりたくなった。二人があまりに自然で、仕合せそうに見えたからだ。そこにじゅんが入り込む余地はない。りんは、じゅんがいなくとも仕合せになれる。
それに気づきたくなかった。じゅんにはりんが必要だったから、りんにも自分が必要であってほしかった。しかし、徳次がりんを支え、守ってくれるのなら、じゅんはりんの手を放して別の道を行かねばならないのではないのか。
富吉がいたら、りんは素直に嫁げただろう。じゅんが一人にならなければ、りんは心配しないで済むのか。
それならば、今が頃合いなのだ。幼い時からしがみついてきたりんから、じゅんが離れる時である。
それがどんなに苦しくとも、寂しくとも、りんの仕合せがその先にあるのなら、妹のじゅんがその絆しになってはいけない。りんの仕合せだけを願うのだ。
じゅんは、気を抜くと涙が溢れそうになった。この涙はなんだろう。姉の仕合せも願ってやれないじゅんは、本当にどうしようもなく駄目な妹だ。りんは優しいから、そんなふうには言わずに庇ってくれる。けれど、それでいつまでも甘えていたのでは、徳次の方が見切りをつけてしまわないとも言えない。
悲しくても、切なくても、そんな気持ちは押し込めて笑顔でりんと別れなくては。
これを決めたじゅんは、初めて自分が大人になったような気になった。
大人になるということは、少しも喜ばしいことではないのだとも。
りんが家に入ったのを見届けてから、じゅんは屋台を停めて家の戸を開けた。
「ただいま、姉さん」
じゅんはいつもと何も変わらないかのようにして笑ってみせた。りんは、じゅんの様子がおかしいなどとは思わなかっただろうか。同じようにして微笑み返してくれた。
「おかえり、おじゅん。疲れたでしょう? さあ、座って」
「うん」
ちりちりと胸が痛む。それでもじゅんは笑って、楽しげにしていなくてはならないのだ。じゅんも仕合せになるのだと、りんに思ってもらえなかったら駄目だ。じゅんが不仕合せでは、りんが心から笑えない。
本当のところは別として、りんがそう思い込めばそれでいい。
りんが気に病まないように、じゅんはりんの前では笑っていたかった。
「今日はね、芋と
じゅんが帰ってくる頃合いを見計らってくれていたので、どの品からもあたたかな湯気が上っている。特別なものではなくとも、りんの心配りが現れた膳だ。これからは、じゅんではなく徳次がこれを受けるようになる。
じゅんが料理を作る方になるのかとも思ったけれど、郁太郎のところには女中がいて、じゅんに料理をしろとは言わないのだろうか。それなら、料理の苦手なじゅんには丁度よい嫁ぎ先なのかもしれなかった。
そんなふうに思うしかない。
「うわぁ、美味しそうね」
声が震えないようにして、じゅんは言った。りんはそっと、さりげない笑顔でじゅんを見守っている。
「いただきましょうか」
すべてよそい、茶を淹れてりんはじゅんの向かい側に座った。このところは暗くなるのが早く、もう長屋の中は薄暗い。火を灯すほどではなく、まだ見えるうちに食べ終えてしまいたい。
「いただきます」
「いただきます」
二人、手を合わせて料理に箸をつける。
「うん、美味しい」
もう、数えるくらいしかりんの作った料理を食べられないのだと思ったら、いつも以上に美味しい。それこそ、涙が滲むほど心に沁みる。じゅんはその気持ちを押し込めて味噌汁を啜り上げた。
いきなり本題には入れなくとも、何かを話さなくては。けれど、じゅんは胸がいっぱいでとても声が出せなかった。そんな中、りんがふんわりとした口調で言う。
「ねえ、おじゅん。もう少ししたら
「え? ああ、重陽ね。本当だ、もうそんな時季なのね」
重陽と言えば九月九日の菊の節句。菊酒や栗飯を食べつつ災厄を払い、長寿を願うのだ。
「やっぱり栗飯かしら?」
じゅんが答えると、りんもうなずいた。
「そうね、おじゅんは栗が好物だものね」
確かに好きなのだけれど、今は何を食べても心から喜べない気がした。だから、返答にもそれが出てしまいそうになる。
「そうねぇ。栗は好きよ」
もっと楽しそうにしないとと思いつつ、しかし、嫁に行く前の娘は時としてかえって暗くなったり、不安げに泣いたりするものだとも聞いた。今のじゅんはそれと近いものがあるのかもしれない。
「花咲饅頭も重陽が近い時は菊の飾りにしてみようかしら」
フフ、とりんが笑う。けれど、その顔もどこか寂しげに見えた気がしたのは、じゅんが上手く笑えていないからだろうか。
「ねえ、重陽といえば
もう来ない先の話をりんがする。言わないと、とじゅんは手を震わせながら持っていた椀を膳の上に置いた。
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