第34話

 その今度というのが思いのほか早く、翌日であった。

 今日は居丈高とは言えない。どちらかと言えば穏やかな目をしているように見えた。


「今日はこの田楽をひとつ買うぞ」

「あら、ありがとうございます」


 やっと、今日から客になってくれたらしい。じゅんは苦笑しながら田楽を手渡しかけ、その時になってやっと奉公人の前垂れの文字を読んだのだった。

 田島屋とある。どこかで聞いた屋号だ。どこだったか。


「田島屋さん」


 声に出すと、男が口をへの字に曲げた。


「なんだ?」


 呼びかけたわけではない。じゅんは軽くかぶりを振った。


「あ、いえ。田島屋さんって、あれ? もしかして――」


 じゅんがふと、思い当たった時、田島屋の主は田楽を奪い取り、四文銭を台の上に力強く置いた。ふん、と鼻息の音が聞こえそうだ。


「今頃気づいたか? とぼけておったのではなかったのだな」


 そんなことを言われたけれど、じゅんが何故とぼけなくてはならないのだ。そんなつもりは毛頭ない。


 田島屋といえば、少々の縁があって客となった郁太郎の家がそんな屋号であったはずだ。

 ということは、この客は郁太郎の父親ということになる。ちっとも似ていないが。


「郁太郎さんのおとっつぁんでしたか」

「そうだ。郁太郎の父で田島屋儀右衛門よしえもんという」

「そうでしたか。それは知らずにあいすみません。郁太郎さんはよくその田楽を買ってくださるんですよ」


 じゅんがそう言うと儀右衛門は、知っとる、とだけ呟いてから田楽に大口でかぶりついた。本当に、ほぼひと口だった。詰め込み過ぎたのか、少しむせていた。それを奉公人が慌てて背中を摩る。


 威厳はあるのだけれど、こういう少しの綻びが親しみやすさにも繋がるのかもしれない。じゅんは最初ほどこの儀右衛門が苦手ではなくなっていた。

 フフ、と笑っていると、豆腐田楽を呑み込んだ儀右衛門はやっと立ち直った。


「うちの豆腐田楽は美味しいでしょう? あたしの姉さんは料理上手ですから、どれも美味しいんです」

「フン。まあ、思ったよりはな」


 これはきっと褒めている。そう受け取ることにした。

 しかし、郁太郎の父親だというのなら、何故こうもじゅんに突っかかるのだろうか。そういえば、近頃郁太郎も見ない。


 はて、とじゅんが考えていると、儀右衛門は咳ばらいをした。


「うちの息子がな、気がつくとは豆腐田楽を買いに抜け出してばかりおってな、そんなに豆腐田楽が食いたいのなら家で作らせると言うと、ひどくがっかりした顔をした。浅草広小路の四文屋のでないと嫌なのだと」

「あら、ありがたいことですね」


 じゅんはただ喜んだ。りんにも教えてあげようと心を弾ませていると、儀右衛門はむぅっと厳めしい顔をしてじゅんを見る。


「あやつ、己は田楽を買いに出かけているのではなく、心を休めに行っているのだと言う」

「はぁ」


 外で食べると格別美味しい――と、そういうことではなかった。


「郁太郎め、腹を壊すから、そんな得体の知れん見世で買ったものを食うなと止めたら、いつになく抗いおって。あの見世にはつらい時に助けてもらったのだから、得体が知れなくなんぞないと、いつもの気弱さが嘘のように言い返してきた」

「そうでしたか――」


 あの時、気落ちしていた郁太郎に声をかけてよかったとじゅんは思った。けれど、それがもたらすことをあの時のじゅんが察していたわけではない。だから、儀右衛門に言われたことは寝耳に水である。


「郁太郎はお前に会いに行っているんだと」

「え?」

「朗らかに笑いかけてくれると、疲れも憂さも吹き飛ぶそうだ」

「はぁ」


 じゅんに会いに来ていたと。よく来るとは思っていたが、それは見世を気に入ってくれたのと、多少の恩を感じてのことだろうと解釈していた。じゅんと話していて郁太郎は楽しかったらしい。じゅんとしても、郁太郎は客であり友人のようなものだと思う。


 儀右衛門は、じゅんが特に驚いた素振りも見せずにのんびりとしていたせいか、焦れたように言う。


「それでは何か、お前はその売り子を嫁にでもしたいのかと問い詰めると、郁太郎はそうだと答えた」

「へぇ、嫁に。――嫁に?」


 じゅんは呟いてから、沈黙した。

 それは、つまり、郁太郎がじゅんを見初めたということなのか。ようやくそれを理解すると、今度は素っ頓狂な声がじゅんの口から飛び出した。


「えぇっ? あたし? あたしですかっ?」


 こういうところががさつだと言われるのだが、今はそんなことはどうでもいい。顔をしかめている儀右衛門を見上げると、儀右衛門は渋々といった様子でうなずいた。


「そう言っておる」

「姉さんじゃなくて、あたし?」


 何かの間違いではないのかと思ったが、郁太郎はりんに会ったことがなかった。少なくともりんではない。

 じゅんが呆然としていると、儀右衛門は盛大にため息をついてみせた。


「うちの郁太郎は、進んで吉原にさえ通わんような大人しさだ。また妙なのに引っかかったのだろうと、私が直に様子を見に来た。少し脅かせば小娘なぞすぐに怖がるだろうと思ってな」


 いきなり居丈高だったのはそのせいか。ひどい仕打ちである。

 しかし、この儀右衛門の人柄は無情ではない。どこか気まずげに呟く。


「郁太郎は、生まれた時からうちの跡取りと決まっておる。己の好きに生きられず、もどかしい思いもさせた。それなら、嫁取りくらいはなるべく選ばせてやりたいのだが、郁太郎に女子を見る目があるとは思えん。念のためにだな――」


 気に入らない娘ならなんとかして諦めさせようとしたのだろう。そういえば、郁太郎がおとっつぁんは自分には甘いというようなことを言っていた気がする。


「はぁ。あたし、まだお嫁に行くことは考えてません。まだ先のことでいいかなって。それ以前に、郁太郎さんにはもっといいところのお嬢さんが合うと思います。旦那様もそう思いませんか?」


 何やら、まだ他人事のような気がする。それはじゅんが郁太郎を自分の亭主として考えられていないからだ。誰のこともまだそんなふうには考えられない。それはじゅんの心が幼いからだろう。


「最初はそう思ったが、まあ、郁太郎のことだからな。好いた女子が嫁にくれば、商いにも張り合いが出るだろう。お前は――まあ、けちをつけ始めればきりがないが、最初に思っていたほどには悪くもない」


 三回来て、それでじゅんのどこを見たのかはわからないけれど、そう判断したらしい。それはありがたくもあり、そうでもなかったりする。じゅんの本音は、困ったと、それだけだった。

 じゅんが渋っているのを儀右衛門は気づいたのだろう。むぅっと口を曲げる。


「決まった相手はおらんようだと郁太郎は言っておったが?」

「はい。あたしは姉さんと二人きりで暮らしているので、あたしがいなくなると姉さんを一人にしてしまいますから、今はまだ――」


 それを言うと、儀右衛門の顔がほんの少し明るくなった。あれ、とじゅんが首を傾げたくなったほどだ。


「そうか。それではお前の姉にも嫁ぎ先を世話しよう」

「えっ」

「それで心配事はなくなるな?」

「い、いや、それは――」


 いつかの大家とのやり取り以上に困る。ここは正直に言うべきかと、じゅんは儀右衛門に向かって言った。


「あの、姉には心に決めたお人がいて、そのお人も姉のことをもらってくれるつもりはあるようなんです。錺職人だから、多分、もう少し貯えを作って、お互いが納得したら祝言を挙げることになるんじゃないかなって」


 しどろもどろに言ったせいか、嘘をついていると思われたのかもしれない。儀右衛門は問いかける。


「錺職人か。なんという名だ?」


 名前くらいは言ってもいいだろうかと、じゅんは徳次の名を口にした。その途端、儀右衛門は小刻みにうなずいた。


「――徳次、ああ、錺職人の徳次なら知っている。うちは小間物屋だからな。いくつか卸したことがある。若いが腕のいい職人だ。徳次ならすぐにでも所帯を持てるはずだ。なんなら、うちが仕入れを増やしてもいい。徳次の実入りは増えるだろう」


 喋れば喋るほど、逃げ道が塞がれていくようだった。しかし、この田島屋には徳次も世話になっているらしかった。あまり率直なことは言えないなと気を引き締め直す。

 そんな時、儀右衛門はふと顎を摩りながらじゅんを諭すようにして言った。


「お前は姉と二人暮らしなのだな?」

「え、ええ」

「それなら、お前が家を出たら姉が一人になると案じるように、姉もまた己が嫁いでしまえばお前に寂しい思いをさせると思っているのではないか?」


 りんが家を出たら、じゅんは一人になる。隣にいてくれるとしても、りんはじゅんのことばかりを考えてはいられないのだ。夫となる徳次のこと、それから、そのうちに赤ん坊も生まれるだろう。そうしたら、じゅんに構っていられなくなる。じゅんに寂しい思いをさせるのではないかと、りんならば考えるのではないのか。


 りんなら、じゅんを嫁に送り出してから自分のことを考え始めるようなところがある。

 ――じゅんは、頭を殴られたほどの衝撃を受けた。


 あの時、二人で寄り添って月を眺めていた。気持ちが溢れ出すようなりんの顔を見ていて、どうしてそこに思い至れなかったのだ。

 りんは、本音を言うならすぐにでも徳次に嫁ぎたいのではないのか。それを、じゅんを送り出すまではと我慢しているのだとしたら。


 そして、それを徳次も無言のうちに承諾しているように思えた。徳次はいつも、姉妹のことをよくわかっていてくれたから。りんの願いもきっとわかっている。その上で待っていようと考えてくれているなら。


 ――じゅんは、なんのためにりんのそばにいるのだろう。

 りんの仕合せを誰よりも願っているつもりで、りんの足を引っ張っている。りんに寄り添っている、支えている、と己ばかりが喜んでいて、りんのことを本当には思い遣れていなかった。


 本当は、じゅんが気づきたくなくて目を向けなかっただけかもしれない。りんのそばは心地よくて、大好きなりんを独り占めしていたかった。


 悲しいとか、苦しいとか、今はそんなことを思う間もないほど、じゅんの心は燃え尽きて真っ白になっていた。何をどう答えたらいいのかもわからないまま呆然と立っていると、儀右衛門はひとつ息をついてから呟いた。


「また近いうちに来るから、よく考えてみなさい。郁太郎は、今はまあまだ頼りないところもあるが、心優しいのでな、連れ合いを大事にするはずだ。うちに来るのはそう悪い話じゃあないと思うがな」


 儀右衛門が去っていく後ろをまた奉公人が追いかけるのだが、いつも丁寧にじゅんに頭を下げてくれる。本来、じゅんはただの小娘で、あんな番頭だか手代だかわからないけれど、立派な店の奉公人が頭を下げてくれるような身ではない。郁太郎のことがあるから、最初から丁寧だったのだ。


 それでも、じゅんはじゅんだ。

 りんならば商家に嫁いでも上手くやっていけるだろうけれど、じゅんは何をやらせても上手くない。女子らしく大人しく座っているのも苦手だ。そんなじゅんを嫁にもらっても、また郁太郎が奉公人から疎まれるだけなのではないのか。


 わからない。何もかもわからない。正直にりんに話した方がいいのだろうか。

 それとも、これはじゅんが一人で答えを出さねばならないことなのだろうか。

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