第33話

 ――その人が広小路にやってきたのは、十五夜をいくらか過ぎた頃だった。身なりの立派な中年の男で、長屋の岩吉と似たような年だがまるで違う。半分が白い頭髪さえも洒落て見えるほど、羽振りがよさそうだ。本絹の羽織から覗く博多帯は上物だと、じゅんにもそれくらいはわかる。


 ただ、いかにも気難しそうだった。口をへの字に曲げ、屋台の前に立っている。後ろには奉公人らしき仕着せの男がいた。この奉公人はひどく困った顔をしていて、主人とじゅんとを交互に見ていた。

 じゅんはなんだろうかと思いつつ、ここに立つ以上は客かと笑顔を浮かべた。


「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね」


 すると、その商人は顔をしかめ、吐き捨てんばかりの勢いで言った。


「客だと? 客なものか。こんなしみったれたもの、儂が買うと思うのか?」


 しみったれたと来た。あまりのことに、じゅんは呆けて動けなかった。隣の勘助が心配そうにじゅんを見ている。この場合、心配されているのは、じゅんの堪忍袋の緒が切れないかどうかだろう。

 客ではないのなら何故そこに立つのだ。通りすがりなら早く去ればいいものを。


 じゅんは沸々と怒りが湧いてきた。けれど、ここで短気を起こしてはいけないことくらいは学んでいるつもりだ。ふぅ、とひとつ息をついて気持ちを落ち着ける。


「あなたにとってはしみったれたものでしかないのかもしれませんけど、これはあたしたちが丹精込めて用意した品です。どんなふうに言われても、恥じることはありません」


 屋台の売り子風情が無礼だとか騒ぐかもしれないけれど、じゅんは正直に伝えた。これらはりんが真心を込めて作ったものばかりだ。馬鹿にされる謂れはない。それに、品物に自信を持てなかったら、これを買ってくれる客にも申し訳ない。いろんな意味で卑屈になるつもりはなかったのだ。


 怒鳴られるのを承知で言ったじゅんだが、意外にもその男は片眉を跳ね上げただけだった。


「小娘のままごとだろうに、いっぱしの商人気取りだな」


 じゅんの何かが気に入らないようだが、言いがかりである。呼び込みの声がうるさくて癪に障ったのだろうか。それにしたって大人げないなと思わなくはないが、虫の居所が悪いということもある。


「誰だって最初はままごとから始まるんじゃないですか? ご立派な旦那様も最初からなんだってできたわけじゃないと思いますけど」


 客ではないと自分で言ったのだ。それなら客だとは思わない。じゅんはただ話し相手をしているだけだということにした。


 もし揉めたら、源六親分がなんとかしてくれるだろうか。奉公人がおののいているのを見ると、この主はやはり厳しい人なのだろう。


「口の減らん小娘だな」


 フン、と鼻で笑われた。


「よく言われます」


 じゅんが淡々と返すと、その男は屋台の上の品々を一度じっと見て、それからじゅんに顔を向け直す。


「まあいい。また来る」

「はぁ――」


 また来るらしい。今度は何かを買うつもりだろうか。よくわからない人だった。

 あれはなんだったのだろう、とじゅんは首を傾げるばかりである。



 そして、その男は宣言通りまた来た。二日後のことである。

 むぅっと難しい顔をして、今日も何かを買い求めに来たわけではなさそうだ。


「おい、この見世は富屋というのだな? 四文の商いでそれほど儲かるはずがなかろう。富むまで商いを続けていくなら、お前はいくつまでこの見世を続ける気だ?」


 また絡まれた。じゅんはこの男がどうしてこう絡んでくるのか不可思議ながらに応える。


「この屋号にそんな深い理由なんてありませんよ。あたしたちのおとっつぁんが富吉っていったんです。それで富屋です」


 名づけてくれたのは徳次だ。富吉がいつまでも一緒にいるようで嬉しかったのを覚えている。

 男はそれを聞くなり、半歩引いた。さっきまで前のめりだった勢いが削がれ、心なし大人しくなったように思う。


「――いった、とは、今はおらんのか?」

「はい。この春に亡くなりました」


 すると、男はぐぅ、と唸った。そうしていると、気難しいという気がしなくなった。本当は優しいところもあるのではないだろうか。


「そうか、それで富屋か――」


 ぼそ、と呟くと、きびすを返した。これだけで帰るのかとじゅんが拍子抜けしたのを当人は気づいていないのだろう。背中を向けた途端、ふと目元に手をやった。もしかすると、涙もろいのか。よくわからない人だ。


 足早に離れていく主を追う奉公人は、じゅんにぺこりと丁寧に頭を下げた。つられてじゅんも頭を下げる。その奉公人の去り際に、腰に巻いていた前垂れに屋号が染め抜いてあることに気づいた。


 しかし、気づいた時にはもう背中を向けられていて文字が読めない。今度来た時こそ注意しておこうと思う。あの男はなんという店の主なのだろうかと。屋号さえわかれば、人に訊ねることもできるだろう。


 今度こそ気をつけて見ておかねば――。

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