第32話

 十五夜当日。

 前日は生憎の曇天だったけれど、その日は程よく晴れていた。これで日が暮れれば美しい月が見られるだろうと皆が待ちわびている。


「今日は早めに帰ってきてね。お団子もお芋もちゃんと用意しておくから」


 りんがほくほくと嬉しそうに言った。じゅんは力いっぱいうなずくと、ふと思い至る。


「あ、徳次さんにも声をかけてくる?」


 それを言うと、色白なりんの顔は真っ赤に染まった。いつも以上に赤く思える。


「あ、うん、それ、ね。もう誘ったの。徳次さんの分もお団子とか、色々と用意しておくって、言ったから――」


 りんにしてはとても頑張ったのではないだろうか。じゅんはそんないじらしい姉の手を取って握り締めた。


「そうなの? 姉さん、やったわねっ」


 声が大きい、とりんはまた焦った。しかし、聞こえてもいいのではないかと思う。りんの様子からして、徳次に断られなかったのだとわかるから。


「徳次さんは、なんて?」


 一応訊ねると、りんは耳の先まで赤く染めながらこくんとうなずく。そんな仕草はとても可愛い。


「じゃあ、腹を空かせておくって」


 それを聞き、じゅんも嬉しくなった。もどかしい二人だが、少しずつ近づいている。じゅんが売りに出ている間、りんは家にいて仕込みをしている。徳次も家で仕事をしている。二人だけで顔を合わせて話すことも多いのだろう。

 りんが嬉しそうだから、じゅんも嬉しい。今日は浮かれながら見世に立っていた。



「おじゅんちゃん、もう見世仕舞いかい? 今日は十五夜だから、夜になったらもっと客が増えるよ?」


 勘助は今日、広小路に長く居座るつもりなのだろう。用意していた提灯を持ち上げてみせる。けれど、じゅんはかぶりを振った。


「いいの、今日は。姉さんも早く帰ってきてって言ってくれてるし」

「そうかい。おりんちゃんとお月見かい」

「うん。勘助さんも楽しんでね」


 じゅんはひとつだけ取っておいた衣被を勘助に手渡し、早々に広小路を後にした。



 長屋に着いた頃、まだ夕暮れ時だったけれど、月見の支度は整っていた。長屋のあちこちに借りてきた床几が置かれ、薄や秋の七草が用意されている。

 じゅんは屋台を置き、片づけをしながら家の戸を開けた。


「ただいま、姉さん」


 甘い匂いがして、うきうきと心が弾む。りんは台所に置いた三方の上に衣被と団子を盛りつけている。団子に載せる餡を入れた鉢も見えた。


「おかえり、おじゅん。お月見の支度はできているのよ。後はお月様が出るのを待つだけね。色々つまみながら月の出を待つわけだし、今日の夕餉は軽めのお茶漬けでいいかしら?」

「うん。お団子もあるものね」


 香の物でさらさらと茶漬けを流し込み、しばらく一服すると丁度いい頃合だ。りんは、なんとなく鏡の前で身だしなみを気にしていたが、正直なところ月見なのだから暗くてよく見えないと思う。けれど、そんな乙女心が可愛いので余計なことは言わない。

 じゅんが戸を開け、りんは三方を持って外へ出る。日が沈んで宵闇が心地よく感じられた。


「姉さん、寒くない?」


 二人で床几に座り、じゅんはりんに寄り添う。二人でいるとあたたかい。小さな頃からいつも、こうして月見をした。いつもなら、そんな姉妹の間に父が割って入ったが、今年からはそんなこともないのだ。大きくて騒がしい父がいない月見は静かなものだった。


 いつもならなんてことはない月も、今日ばかりは特別だ。少しも欠けていない、明るく丸い月は、とにかく美しい。じゅんは首が痛くなるほど夜空を見上げながら月を待った。

 そうしていると、隣の戸が開いて徳次が出てきた。


「あ、徳次さん。月はまだなのよ」


 すると、徳次は微苦笑した。


「そうだなぁ、まだ少し早ぇかもな」

「ええ、お団子でもつまんで待ちましょう」


 りんが優しい声音で言う。


「ほら、徳次さんも座って」


 じゅんは床几を詰めて徳次を促す。もちろん、りんの隣に座るようにそちら側を開けたのだ。徳次は無言のまま、りんの隣に腰を下ろした。りんが僅かに気を張ったのがじゅんにも伝わる。

 なるべくりんには座っていてもらおうと、じゅんが立って動いた。


「はい、お団子とお芋」


 皿に取り分けた団子と衣被をりんと徳次に手渡し、じゅんも座ってそれを突きながら月を待った。雲が流れて、夜でも空が明るい。満月の夜は特別だ。


「月が――」


 りんがほぅ、とため息交じりに言った。じゅんもうなずく。

 言葉を失くしてしまうくらい、月が輝いて見えた。待ちに待って、やっと見えたから、余計に素晴らしく思えるのかもしれない。


「綺麗ねぇ」


 皓々と柔らかな光を降らせる月を見上げながらじゅんは呟いていた。綺麗だと、それしか言葉が浮かばなかった。こうして静かに月を眺めていると、春から色々なことがあったとしんみり思う。富吉が死んで、四文屋を始めて、本当に目まぐるしい日々だ。


 ここへ来て、振り返って、これでよかったのだろうかと考えてみる。

 よかったのだとじゅんは思った。何より、りんとこうしていられる。贅沢しなければ二人で暮らしていける毎日がある。それで十分だ。


 きっと今、じゅんは仕合せなのだ。欲を言うなら、富吉には生きていてほしかったし、平太郎とも仲違いをしたかったわけではない。言いだしたらきりがないけれど、多くを望まなければ、じゅんは仕合せだ。りんと、優しい人たちが周りにたくさんいる。贅沢を言ってはいけないところだろう。


 ぼうっと月に魅入っていたじゅんを、急に留が遠くから呼んだ。


「ああっ、おじゅんちゃん、ちょっとこっちを手伝っておくれよ」

「え? ああ、うん」


 留の周りには近所の子供たちが群がっていた。団子をもらいに来たのだろう。じゅんはりんと徳次を残して留のところに駆けつけた。


「お留さん、何をしたらいい?」

「ええと、団子を配ってきておくれよ。岩吉いわきちさんだよ」

「わかったわ」


 岩吉は独り者だから、団子を用意してくれる女房がいない。留は気を利かせたようだ。皿に盛られた餡団子を持ち、じゅんは端っこの岩吉のところまで団子を落とさないように気をつけながら歩いた。岩吉は五十路の小男で、表まで出ずに家の中から月を眺めていた。


「岩吉おじさん、これ、お留さんからよ」


 すると、すでに酔っぱらっている岩吉はへにゃ、と笑って手を振った。


「おお、あんがとよぅ。あんがぁと」


 こてん、とそのまま横になっていびきを掻く。じゅんは団子を上がり框に置くと、寝てしまった岩吉の肩を揺すった。


「おじさん、起きてよ。風邪をひくわよ」


 岩吉は酒が弱い。富吉は、岩吉と飲むとすぐに寝るから、あいつには水で十分だとかよく言っていた。しかし、月見の晩くらいは飲みたいのだろう。


「おじさんってば」


 ゆさゆさと揺すっても、一向に起きない。じゅんは仕方なく、勝手に家に上がって畳んであった半纏を岩吉にかけた。それから、耳元で大声を出す。


「お団子が固くなるから、ちゃんと食べてよ?」

「おお、わかってらぁい」


 いびきを掻いていたけれど、返事はしてくれた。じゅんは岩吉が風邪をひかないように戸を閉めて出た。どうせ月なんて見ていない。

 ふぅ、と息をついてから留のところに戻る。留は、いくらか手前でじゅんに駆け寄った。


「ありがとう、おじゅんちゃん。岩吉さん、起きてたかい?」

「起きてたけど、寝たかもしれないわ」


 正直に言うと、留は笑った。


「まあ、そんなことだろうと思ったよ」


 そして、留はじゅんの肩に手を置くと、そのままじゅんの背後に回った。なんだろうと考えていると、留はじゅんの後ろから声を潜めてささやいた。


「おりんちゃんと徳次さん、近頃いい具合だと思わないかい?」

「えっと――」


 じゅんはなんと答えていいものか困りつつ、言葉を濁した。そんなじゅんに、留はさらに言う。


「ほら、見てごらんよ。おりんちゃんの仕合せそうな顔ったら」


 留にまでそんなことを言われるほど、りんはわかりやすかった。無口な徳次と、少しだけ話していたかと思うと、やり取りが途切れたようだった。それでも、無言で月を見ている二人には言葉が要らないような気がした。隣にいるだけで満たされている。りんの柔らかな微笑みがじゅんの目に焼きついた。


 あれは、妹のじゅんに見せるものとは少し違う。きっと、徳次にしか引き出せない表情だ。何か、それを盗み見てしまったような疚しい気分になる。


 綺麗な月を眺めて、さっきまでは機嫌よく楽しんでいたじゅんの心が水面に沈んでいくような心持ちだった。

 留はそんなじゅんの変化にまでは気づかなかったかもしれない。また、じゅんの耳元で言った。


「きっと、富吉さんも二人の姿を見て喜んでいるんじゃないのかい? 富吉さん、前に言ってたんだよ。徳次はいい男だから、うちの娘のどっちかをやるんだって。徳次さんにもそう言ったらしいよ」

「ど、どっちか?」


 どっちかとはなんだ。じゅんが振り返ると、留はにやりと訳知り顔になった。


「おじゅんちゃんでもよかったんだよ。でもさ、徳次さん、今はまだ職人として未熟だからって答えたみたいで」


 徳次らしい答えだ。しかし、それには続きがあった。


「でも、もし、もう少しまともな腕になれたらもらうって」

「そんなこと言ったの? 徳次さんが?」


 それは富吉がしつこくしたから、仕方なくおざなりに言ったのではないのか。驚いたじゅんに、留はくすくすと笑う。


「そうだよ。その時はおりんちゃんにしてくれって」


 徳次が本当にそれを言ったのなら、真剣に姿勢を正して言ったのだと思える。冗談や間に合わせでりんの名を出したりはしない。


 なんだ、徳次もやっぱりりんのことが好きなのだ。ほっとした半面、なんとも複雑だった。徳次もそれならそうとりんに伝えてあげればいいのに。


 言わなくても伝わっていると思っているのだろうか。りんはもしかすると、じゅんが知らないだけで、徳次の気持ちを受け取っていたりするのだろうか。よかったな、と思うのに、なんとなく引っかかる。


 じゅんはそれから、二人のところに戻りづらくなってしまった。りんの方が気を回してじゅんを手招きして呼び寄せるまで、じゅんは辺りを漂っていたのだ。


「おじゅんにばっかり手伝わせてしまってごめんなさいね」


 呼ばれたのはじゅんだけれど、りんは気が咎めるらしかった。じゅんはりんに気を遣わせないようにして笑ってみせた。


「ううん、いいのよ。たいしたことはしていないから。姉さん、ちゃんと月を見られた?」

「ええ。ゆっくり見させてもらったわ」

「そう。それならよかった」


 とても綺麗な月だった。

 けれど、じゅんの中には何も残らない。仕合せそうなりんの顔だけが月のようにして脳裏に浮かぶのだった。

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