第31話
相変わらず平太郎は来なかったけれど、じゅんの周りは落ち着いたものだった。代わりと言ってはなんだが、郁太郎がよく来る。
「へぇ、もうすぐ十五夜だからか、
と、郁太郎は富屋の台の上に載る芋(里芋)を見て顔を綻ばせた。丁寧に洗った芋に十字の切込みを入れてから茹でると、つるりと皮が剥ける。半分だけ皮を剥くと、芋が衣を脱いだようだ。だから、皮を衣に見立てた名がついた。
りんはというと、そこにいつものひと工夫を施す。芋に合う味噌を合わせると、それを芋に塗りつけようとして手を止めていた。
「どうしたの、姉さん?」
「うぅん、どうやって味噌を塗ると綺麗に仕上がるかしらね」
べったりと塗ると、売る時に見栄えが悪いと思ったようだ。田楽は平らなところに塗るのでそうしたことは気にならなかったのだが、芋は気になるらしい。
結局、芋の皮を剥いてあるところすべてに塗るのではなく、半分だけ塗っていた。そうしたら、何かを思ったらしい。りんはさらに黒胡麻がほしいと言い出した。
「黒胡麻ね。また買ってくるわ」
白胡麻ならあるのに、黒胡麻がいいらしい。味の違いはそうないのに、黒にこだわる。
「ええ、少しでいいのよ。お願いね」
頼まれた黒胡麻を買って渡すと、りんが黒胡麻にこだわった理由がわかった。
「あら、可愛い」
衣を脱いだ芋は、味噌の髪と黒胡麻の目がついて、食べるのが可哀想になるような可愛らしさに仕上がったのだ。
これには常連客の母娘も喜んだ。
「うわぁ、お芋さん可愛いっ。おっかさん、お月見に飾って?」
「はいはい。本当に可愛いわね。富屋さんの品は見ているだけでも楽しいわ」
「十五夜にお待ちしていますね」
じゅんも嬉しくなって答えた。じゅんが泥のついた芋を洗ったのだ。水は少し冷たいが、こう言ってくれたから張りきって洗える気がしている。
郁太郎も芋を優しい目で見つめていた。
「郁太郎さんはお月見をお店でするんでしょう?」
何気なく言うと、郁太郎はどことなく残念そうにうなずいた。
「そうなんだよ。丁稚も皆が楽しみにしているから、抜け出せなくて」
皆が楽しんでいるのだから、抜け出さなくていいだろうに。
富屋の衣被を買いに来られないから残念だと言ってくれているのだろうか。しかし、売り物に加えて郁太郎のところの奉公人の分までりん一人では用意できないから、買いたかったという気持ちだけで十分だ。
「いいの。郁太郎さんも十五夜、楽しんでね」
じゅんがにこやかに言うと、郁太郎は言いにくそうに目を泳がせながら呟いた。
「おじゅんちゃんは、その、誰と月見をするんだい?」
「え? 姉さんとよ」
何故そんなことを訊くのかとばかりに、じゅんは即答した。そうしたら、郁太郎はふんわりとした笑顔を向けてきた。
「ああ、そうなんだ。じゃあ、おじゅんちゃんたちも楽しんでおくれ」
郁太郎は衣被をひとつ買い、軽い足取りで去っていった。暇ではないはずなのだが、よく来る。
ふと視線を感じて横を見遣ると、勘助がじぃっとじゅんのことを見ていた。じゅんは、自分の顔に朝餉の米粒でもついているのではないかと不安になった。ぺたぺたと顔を摩るが、顔には何もついていない。
「勘助さん、どうしたの? あたし、何か変かしら?」
すると、勘助は天麩羅を真鍮の箸でつまみながら、やれやれといった様子でかぶりを振った。何やら父のようだと思えた。
「おじゅんちゃんは男心ってもんをちぃっともわかっちゃいねぇなぁ」
「わかるわけないじゃない。あたし、これでも女子なんだから」
「そういうところがだな――」
「なぁに?」
首を傾げると、またやれやれと首を振られた。郁太郎や勘助が言わんとすることをじゅんが呑み込んだのは、もうしばらく後のことである。
「お袖さん、お袖さんは誰とお月見するの? 寂しかったらうちに来てもいいのよ」
袖の顔を見に行ったじゅんがそれを言うと、袖はこめかみに青筋を立てた。
「ふざけるんじゃないよ。なんであんたらみたいな小娘と月見なんざしなくちゃなんないのさ」
「え? お月見しないの?」
「そうじゃなくって、一緒に月見をする相手もいないんだろうって決めつけるんじゃないって言ってんのさ」
「そうなの? 誰かいるの?」
袖は一人暮らしだと聞いていたので、そうした相手がいると思わなかっただけである。しかし、袖は黙った。ぼそぼそと、長屋の連中がどうのこうのと言っている。つまり、長屋の皆で月見をするらしかった。
じゅんが忍び笑いをすると、袖に睨まれた。
「あんたも姉さん姉さん言ってないで、一緒にしっぽり月見ができる男を見つけなよ。このねんねが」
どうせ子供っぽいですよ、とじゅんは内心で腐ったものの、りんと月見をする以上の喜びはないと思う。りんといるのが一番落ち着くし、楽しい。こんなじゅんが子供扱いされるのは仕方のないことではあった。
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