第41話

「姉さんっ」


 じゅんの金切り声が広小路に響き渡る。慌てすぎて転びそうになり、右足のぽっくりが脱げたから、左足も脱ぎ捨てて走った。もう、何もかも誰も目に入らず、りんだけを目指して飛びついた。


「姉さんっ」


 りんは口を僅かに開け、何かを言おうとした。けれど、じゅんはそんなりんに抱きついて、わんわんと声を上げて泣いた。恥ずかしく思う気持ちは、この時ばかりは抜け落ちていた。


 自分から出ていったくせに、りんに会いたくて仕方がなかった。たった三日でこんなふうになってしまう自分が嫁に行くなど百年早いのかもしれない。


「ごめんなさい、姉さん。あたし、姉さんから離れることが姉さんのためになるって、いつまでも面倒ばかりかけてちゃいけないって思って――」


 上手く言おうとすると、上手く言えない。この気持ちを言葉にするのが難しい。じゅんはいつも、自分の気持ちを上手く伝えられないのだ。それをわかってくれるりんだった。この時も。


「うん、私も言葉が足りなくてごめんなさいね」


 泣きじゃくるじゅんの首筋に落ちた雫はりんの涙であったのかもしれない。そよ風のような声と、陽だまりのようなぬくもり。今はりんのそばが、じゅんにとっての最良の場所だった。


「あたし、姉さんのことが大好きだから、姉さんの仕合せを、邪魔したくなかったの」


 しゃくり上げ、それだけを言ったじゅんの背中を摩りながら、りんも呟く。


「私もね、おじゅんのことが大好きだから、おじゅんに嫌われたくなかったわ。だから、寂しいとかいてほしいとか、そんなことはとても言えなくて――」


 ぐしゃぐしゃの、みっともない顔をじゅんはりんに向けた。りんもまた、目の縁と鼻の頭が赤い。


「嫌いになんて、なるわけないじゃない。だって、姉さんだもん」


 りんは、そんなじゅんの涙を指で拭って、いつもの笑顔を見せてくれた。


「ありがとう、おじゅん」


 じゅんが大声で泣いたせいか、辺りに人だかりができていた。そんな中、儀右衛門は赤い顔をしてむっつりと上を向いている。奉公人がそれを心配そうに見ていた。


 一見怒っているように見えるが、儀右衛門は涙もろい一面がある。目も赤いことだからもらい泣きでもしそうなのだろうかと思ったら、こんな時なのに少し可笑しかった。


「旦那さんよ、あの姉妹は当分引き離せそうにねぇだろ? 今は引きなよ」

「そうそう。無理強いなんて野暮の極みだ」


 弥助と彦松の二人が儀右衛門にそう声をかけた。儀右衛門は一度鼻を啜ると、わざとらしく咳ばらいをひとつした。


「――息子当人が来いという言い分もまあ、うなずけないこともない。実はな、儂がおじゅんに郁太郎の気持ちを伝えたのを知った途端、郁太郎のやつはもう顔を合わせられないと寝込んでいてな。――仕方がない、息子がまず嫁に来いと言えるようになるまで、この件は置いておこう」


 顔を見ないと思ったら、そんなことになっていたのか。郁太郎らしいと言ったら気の毒かもしれないが。


「お、旦那、話がわかるじゃねぇか」

「ははっ、その前に油揚げを掻っ攫う鳶がいねぇといいなぁ」


 彦松が余計なことを言ったので、儀右衛門に睨まれた。儀右衛門は、野次馬を掻き分けつつ、奉公人を連れて帰った。


 その途端、野次馬たちが楽しげに拍手喝采をくれた。見世物のつもりはないが、りんとじゅんは顔を見合わせて笑った。


「仲のいい姉妹が商う四文屋――いいじゃねぇか。おう、栗飯の握りをひとつくんな」


 それを言われて初めて、じゅんは屋台の品を見た。栗の入った握り飯が並んでいて、見た目にも美しく白胡麻がかけられている。そういえば、重陽が近いから栗飯を出そうかとりんが話していた。

 じゅんはさっきまで泣いていたことも忘れて、客に満面の笑顔を向けた。


「ありがとうございます。うちの栗飯はどこよりも美味しいですよ」

「おお、そいつぁ楽しみだ」


 四文銭を受け取ったじゅんは、この時、始めてもらった四文ほどの重みを感じた。


「ありがとよっ」


 にか、と笑って去っていく客。冴えない風体の中年だが、胸が妙に高鳴る。じゅんには久しぶりの感覚だった。


 りんが作った大事な品物を売る。うちの品はどれも美味しいと自信を持って送り出せる。持ち帰った品を客が道端でかぶりついた時、あまりの美味さに顔を綻ばせているだろうと、それを考えるだけでも楽しかった。じゅんはずっと、富屋の品物を売ることを誇らしく感じていたのだ。


 それを放り出していた三日、じゅんは物足りなさと怠けているような後ろめたさに沈んでいた。


「おお、俺にもくんな」

「おいらもだ」


 次々と客が押し寄せる。じゅんは仕合せを噛み締めながら立っていた。


「はい、ありがとうございます」

「どれも四文。うちのはどれも美味しいんですよっ」


 柔らかく客をあしらうりんと、声の大きなじゅん。そんな二人を眺めつつ天麩羅を揚げる勘助が、何度も何度もうなずいていた。やはり、こうでなくてはとばかりに。


 そんな時、小さなおかっぱ頭がひょこひょこと近づいてくるのが目の端に入った。気づいてそちらを向くと、いつもの母娘だった。


「あっ、いつものお姉ちゃんっ」


 花咲饅頭を買ってくれる常連客だ。泣き腫らした顔が今になって恥ずかしい。女の子はきょとんとした。


「お姉ちゃん、どうしたの? いじめられたの?」

「う、ううん。違うのよ。悲しくて泣いたんじゃないの」

「そうなの? それならよかった。また明日もいる?」


 女の子は心底ほっとした様子でそんなことを訊ねてくる。


「ええ、明日もいるわよ」


 そこでりんが、フフ、と軽やかに笑いながら言った。


「ずっとね、おじゅんが戻るのを待っていてくれたのよ」

「え?」

「そんなお客様がたくさんいらっしゃったわ。いつもの売り子はどうしたんだって、おじゅんのことを気にされていて」


 りんが作った品があれば、味は変わらない。富屋は変わりなく商いをしていると言える。じゅんが負っている役割は、誰にだってできるものでしかないと思っていた。

 しかし、そうとばかりも限らなかったのだ。


「花咲饅頭はもちろん好きだけど、いつも優しくて、にこにこしているお姉さんが好きで通いたいんですよ、うちの子は」


 母親が、女の子の髪を撫でながら穏やかに微笑んだ。それを聞いた途端、じゅんはまた泣きたくなった。女の子が慌てている。


「お姉ちゃん、泣かないで」

「ごめんなさい、嬉しくて」

「嬉しいと泣くの?」

「うん、そうみたい」


 じゅんは母娘に手を振り、見送る。

 りんは今日、それほどの量を仕込めなかったようだ。一人なのだから、無理もない。すぐに売り切れてしまった。


「姉さん、疲れているでしょう? 今日はゆっくり休んでね。本当にごめんなさい」


 しょんぼりとそれを言うと、りんは苦笑した。


「そうね。今日はもう帰りましょうか。でも、その前にお袖さんにお礼を言わなくちゃ。おじゅん、お袖さんの世話になっていたんでしょう?」


 言い当てられて、じゅんは愕然とした。じゅんが転がり込めるところなど他にないと思ったにしても、察しがよすぎる。

 目を瞬かせたじゅんが可笑しかったのか、りんはくすりと笑う。


「お袖さんが教えてくれたのよ。うちにいるよって」


 りんには言わないでと口止めしたら、言わないと返したくせに。平然と嘘をつかれたらしい。

 それでも、りんはふと穏やかにまぶたを閉じた。


「それがなかったら、私、もっと落ち込んで、どうしたらいいのかわからなくなっていたわ。だから、どんなに感謝しても足りないくらい」


 それがわかるから、袖はさっさと喋ったのだろうか。本当に、じゅんはいろんな人に助けてもらっている。


 じゅんがりんとともに屋台を引いて近づくと、袖は嫌な顔をした。嫌なのではなくて、どんな顔をしていいのかわからないから顰めて見せたのだと思う。


「お袖さん、いろいろとありがとう」

「また改めてお礼に伺いますね」


 二人してぺこりと頭を下げると、袖はそっぽを向いた。かと思えば、そうっと目だけを姉妹に向ける。


「あんたらには借りがあるから。これで返したよ」

「え? 何かあったっけ?」


 じゅんにはこれといって覚えもない。なんだろうと思っていると、りんは苦笑している。


「いいよ、別に」


 つっけんどんに言われた。りんがじゅんの袖を軽く引く。問い質すのはやめなさいという意味らしかった。


「じゃあ、またね」


 笑顔を向けると、袖も少しだけ口元を持ち上げた。

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