第23話
今日も売れ行きはかんばしくない。りんに売れ残りを見せるのは嫌だった。けれど、りんはじゅんが帰ってくるのを表に出て待っていたのだ。隠すこともできない。
「ただいま」
ぽつりと言うと、りんは優しくうなずいた。
「おかえり、おじゅん。今日は何が売れ残ったのか見せて」
まだ何も言っていないのに、りんはじゅんの顔を見ただけで察したようだ。じゅんはしょんぼりとした。
それでもりんは冷静だった。屋台の台の上の被せを取ると、売れ残りの品々をじっと見つめる。それから、じゅんに向けて言った。
「お饅頭の方が売れにくいのかしら?」
「――そうかもしれないわね」
だからといって、田楽と団子が売り切れるのかといえば、そちらも残っている。饅頭の方がやや多く残っているとしても、差がわからない。
りんは饅頭を眺めるのをやめ、じゅんに顔を向けた。
「ねえ、花咲饅頭は見た目も味も女客や子供が好んで買ってくだすっていたと思うけど、このところどうなのかしら? 花咲饅頭が売れ残るのなら、減っているのはやや女客の方かしら」
そう言われてみると、そういう気がしてきた。男も女も減っているのだけれど、女客の方が珍しくなっている。今日来た女客は何人だったか――二人くらいだった。
「どういうことかしら」
本当に、それがどういうことなのかがじゅんには見当もつかない。りんはそんなじゅんを労うように背を押し、家の中へと入れた。
「とにかくご飯にしましょうか」
「う、うん」
売れ残りの品は後で長屋の人々に配るしかない。そろそろ飽きて受け取ってくれなくなりそうだと思うけれど、今のところは嫌な顔をせずにもらってくれる。
とりあえず、品物の載った盆を家に入れ、屋台を隅に寄せておく。
夕餉は茶粥だ。菜は一品減っていて、香の物もひと切れ少ない。先行きへの不安が膳に現れている。むしろ、こんな時にたくさん食べている方がおかしいので当然だ。売れ残りの豆腐田楽が茶粥の横に添えられた。
「じゃあ、いただきましょうか」
「うん。いただきます」
茶粥をするすると啜っていたりんは、すっかり食べ終えると手を合わせた。落ち着いたりんの様子が、じゅんには不可思議である。焦っているように見えない。りんには何か考えがあるのだろうか。
――いいや、そうではない。
りんが暗くなるとじゅんが気にするから、りんは精一杯普段通りに振る舞うようにしてくれているのだ、きっと。本心では不安で、誰かに助けを求めたいはずなのに。
◇
梅雨とは、梅の時季に雨が降り続くからそう呼ばれるのだという。
じめじめと雨が降り、心に溜まった憂さがこれでもかというほどに膨らむようなやりきれない思いがする。
「ひどい雨ね。今日はお休みする?」
朝からやまない雨の音を聞きながら、りんがそんなことを言った。じゅんは、そうしたいと喉まで出かかったのをすんでのところで呑み込んだ。
「――ううん、行くわ。雨だからって他所がお休みしているのなら、うちで買ってくれるお客様がいるかもしれないし」
精一杯明るい声を出した。それが空元気であることくらい、りんにはわかっている。それでも、軽くうなずいた。
「そうね。おじゅんがそう言ってくれるのなら用意するわ」
「うん」
屋台には屋根がある。品物は濡れずに運べるだろう。じゅんは傘を差せばいい。
出かけになって、久しぶりに広げた傘が破れていることに気づいた。
「何これっ」
「おとっつぁんね――」
りんは切込みが入った傘を見てぼやいた。富吉が手荒に扱って破いてしまったのを黙っていたのだろう。
「まあいいわ。半分は無事だし、このまま行くわ」
新しい傘を用意するゆとりはないのだ。大きく切り込みが入った傘を差し、じゅんは屋台を押しながら進む。
「私も――」
ついてこようとしたりんを、じゅんは振り返って止める。
「傘がないからいいわ。姉さんが風邪をひいたら困るもの」
「でも、おじゅんだって濡れるわ」
「平気よ。濡れたら手ぬぐいで拭くから。じゃあ、行ってくる」
破れ傘を差し、屋台を押す。なかなかに惨めな姿ではあったが、誰に恥じ入ることもない。じゅんはそれでも広小路へ急いだ。
隣の天麩羅屋も、今日は休むつもりらしい。勘助は一向に来なかった。この雨だ、商っている屋台もまばらで、茶屋はどこもやっていない。
こんな時だからこそ、根性の見せどころだとじゅんは意気込む。
――しかし、通り過ぎていく人たちは濡れないように傘を低く構えていて、周りに目を向けない。傘を差していなければ、冷たい雨に濡れて急いで駆け去る。どちらにせよ、足を止めてくれる客の少なさにじゅんは愕然とするのだった。
晴れても駄目、雨でも駄目。それなら、どうしたらいいのだ。
しとしとと降る雨が屋台の庇から伝い、雫になって落ちる。じゅんの破れ傘から漏れる雨が、帯や首筋を濡らす。時折懐から取り出した手ぬぐいでそれを拭きながら立っていると、今日は素直に休めばよかったと思うのだった。
今日も売れない。
どうしたって、売れない。
雨が帳になって、世間からじゅんを隔ててしまっているような気分になる。
孤独で、惨めで、虚しくて、じゅんは溜息しか出なかった。
四文屋の商いを楽しいと思った頃が幻のようだ。これでは駄目だ、とても姉妹二人食べていけない。これで食べていけないのなら、今後は一体何をしたらいいのだ。りんにはもう苦労をかけたくないのに。
下を向いていると、じゅんの正面に人が立った。雨音がうるさくて、そこに来るまで気づけなかった。
「いらっしゃ――」
ハッとして顔を上げると、それは見知った顔であった。
「え? 徳次さん?」
毎日のように見る顔であるけれど、広小路で会ったのはもしかすると初めてのことかもしれない。しかも、こんな雨の日に。
借りてきたのか、料理屋の屋号が入った傘を差した徳次は苦笑した。
「なんだ、すっかりしょげちまって」
心が弱っている時に、兄のような徳次の顔を見て、じゅんの目はみるみるうちに潤んだ。徳次は困ったようにして言う。
「おりんが心配していたから、少し寄ってみたんだが」
「うん――」
台の上の品物を見れば、それほど売れていないこともわかっただろう。徳次は、それについては触れなかった。ただ、気遣う目をしてじゅんを見た。
徳次になら弱音を吐いてもいいだろうか。
「このままだと見世を続けていけないかも。そうなったらどうしようかって考えてたの」
「まだそれほど経っちゃいねぇだろうが」
やんわりと徳次は言うけれど、この先、盛り返すことがあると思えなくなっていた。いつまでもここに虚しく立ち続けて、じゅんはこの世の無情を噛み締めるばかりだ。
「でも、駄目だったら、他のことをして稼がないと暮らしていけないもの。あたし、女中奉公に出ようかしら。姉さんはお針子でもなんでもできるもの。それで暮らせるかしら? 長屋の店賃もまだ前に溜めた分が残っているし、いつまでも待ってくれるかどうか――」
「大家さんはお前たち姉妹のことは孫みたいなもんだって言ってたぞ。少々は待ってくれるだろうよ」
徳次はじゅんを安心させるためにこれを言ってくれているけれど、じゅんはかえって道を塞がれたような気分になった。
大家は、じゅんを平太郎の嫁にと考えていた。その平太郎とは喧嘩別れしたところなので、今まで以上にそれはあり得ない。それを知ったら、大家の考えが変わるかもしれない。
富屋を畳んで奉公に出たとして、それでもきっとつらいことがたくさんある。今よりもっとつらい目に遭うかもしれない。違うことといえば、歯を食いしばって耐えれば給金は出る。今みたいに、品物が売れなくて実入りがないというのとは違う。
楽しかったこともあったけれど、やはり商売はそう楽なことではないのだ。最初が上手くいったから勘違いしてしまったけれど、素人が急にできることではなかった。
じゅんはすがるような思いで徳次に言った。
「ねえ、徳次さん。あたし、姉さんだけは苦しい思いをさせたくないの。もし、この商売が駄目になって、あたしたちの稼ぎじゃ暮らしていけないとしたら、その時は姉さんをお願いできるかしら?」
徳次は目を瞬かせた。一見落ち着いて見えるが、それが徳次なりの戸惑いであるとじゅんは気づいていても止められない。すべてはりんのためだ。
りんが仕合せでいてくれさえすれば、じゅんはなんとか耐えていける気がする。逆にりんが不仕合せであれば、じゅんは何をしていても苦しい。それだけは嫌だ。
「姉さんはお料理上手で、気働きがあって、優しくって、誰からも好かれるわ。でも、姉さんを大事にしてくれる人じゃないと嫌なの。徳次さんならあたしも安心だから」
徳次にこんなことを言ったとりんに知れたら卒倒されそうだ。けれど、商売が頓挫して気落ちしたところに徳次が手を差し伸べてくれたら、りんは救われる。そうあってほしいとじゅんは願った。
しかし、徳次は眉根をきゅっと寄せて嘆息した。
「当人そっちのけでする話じゃあないな」
「そんなことないわ」
まだ言い募ろうとしたじゅんを、徳次はかぶりを振って止めた。呆れているのかもしれない。じゅんはまだまだ子供だと。何もわかっちゃいない子供が口を挟むなと。
「そういうことは最後まで足掻いてから言いな。まだ手を尽くしたわけでもねぇだろう? 始めたからには相応の覚悟があったんじゃねぇのか?」
手厳しいことを言われた。
最後まで足掻いてから。まだ手を尽くしていない。
――そうなのだろう。まだ、こんなのは苦労のうちにも入らないのか。
どうしたら客足が戻るのか、りんと共に考えて、考え抜かなくては答えを出してはいけない。そう、徳次はじゅんを叱るのだ。
「――ごめんなさい、徳次さん。うん、そうね。もう少しやってみるわ」
それだけ答えると、徳次はほっとしたのかもしれない。表情にそれが出ていた。
「ああ。とはいえ、ほどほどに帰れよ」
「うん、ありがとう」
じゅんがなんとか笑みを作ると、徳次は軽くうなずいてから去っていった。いつも、姉妹のことを見守ってくれている。富吉がいなくなった後は尚のこと、気にかけてくれているのだ。
最後の最後まで足掻いても駄目だったら、また同じことを言ってもいいようだから、その時にはりんも交えて話す。それがせめてもの救いと思って頑張るしかない。
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