第22話

 その翌日も、人通りはいつもと変わりなかった。けれど、富屋の前に足を止めてくれる人は少なかった。勘助の天麩羅屋はいつもと変わりなく並んでいるのに。


 そんな時、常連客の浪人が来た。無口で厳つい、いつも田楽を買う客だ。強面なのに、じゅんはその顔を見た時にほっとした。


「田楽と、海苔団子を一本ずつくれ」


 どんな時も変わりなく、淡々としたものだ。それが今まで以上にありがたく感じる。


「はい、ありがとうございます」


 じゅんは二枚の四文銭を受け取り、それを一度握り締めてから、いつもならば言わないようなことをこの客に訊ねた。


「あの、うちの品のお味はどうでしょうか? 季節に合わせて味を変えてみましたけど、前の方がよかったですか?」


 味を変えたことがあだになっていて、前の方がよかったとか、味が落ちたとかいうふうにささやかれていたら悲しい。客足が遠のいている理由が思い浮かばないから、いろんなことを考えてしまうのだ。


 これを訊ねた時、じゅんは涙を堪えていた。泣くつもりはないけれど、声に出したら悲しくなってきたのだ。

 いつもの浪人は、軽く首を捻り、聞き取りにくい声でぼそりと言った。


「いいや、美味い。団子も気に入った」


 飾り立てた言葉で褒めちぎられたのではない、簡素な返答だ。それでも、じゅんは堪えていたものが零れそうになるほどには嬉しかった。サッと横を向いて涙を拭うと、浪人に向けて精一杯の笑顔を見せた。


「そう言って頂けて何よりです。いつもご贔屓頂いて、ありがとうございます」


 すると浪人は、うむ、と答えて田楽と団子を受け取ると遠ざかっていった。


 美味しいと気に入ってくれている客がいる。それなら、品物が悪いわけではない。では、じゅんの客あしらいが下手なのか。呼び込みがうるさいと思われていたのだろうか。

 売れないのはじゅんのせいかと思えてきた。


 花咲饅頭を買ってくれる母娘はまだ来てくれている。女の子が笑顔で手を振って帰っていくのを見送った後は、また半時(約一時間)ほど誰も来なかった。前を通り過ぎるか、隣で天麩羅を買うかのどちらかだ。


 ただ、天麩羅を買い求める客が時折じゅんのことを見て、サッと目を逸らすのだった。

 りんの作るものは美味しいから、じゅんが頑張らなくても勝手に売れるとどこかで慢心していたのかもしれない。だから神様がじゅんを試すようなことをするのだろうか。


 それでも、じゅんは今まで働いたことがなかった。これが初めての商売だ。それでどうして、売れなくなった時にどうすればいいのかがわかるというのか。



 それから声が嗄れるほど呼び込みをして、それでも田楽が五本、団子が三本、饅頭が八個残った。今日の売り上げは百文にも満たない。


 もう無理だ、人通りもまばらになってしまった。暗くなると余計にりんを心配させてしまう。じゅんは見世を切り上げることにした。隣の勘助は今日の分を売り切って早々に去っていったので、すでにいない。


「――仕方ないわね」


 はあ、とため息が漏れる。

 富屋の幟を外し、台の上を片づけていると、引きずるような足取りで歩いてきた若者が、何もない広小路で急に転んだ。


「あっ」


 じゅんの方が思わず声を上げてしまった。じゅんまで痛いような気分だった。

 若者は、それでもじゅんよりもいくつか年上だ。身綺麗で、羽織も着物も足袋もわりといいものを身に着けている。供はいないようだけれど、どこかの若旦那だろうか。


 若旦那らしき風体の若者は、のっそりと亀のようにしか動かない。早く起き上がればいいのに。余程痛かったのかもしれない。


「お兄さん、大丈夫?」


 じゅんは近づくと、控えめに声をかけた。すると、若者はそこに人がいると初めて気づいたのか、驚いて見向いた。


「あ、あの」


 そこで言い淀む。色白の穏やかな顔だ。

 いい年をした男が転んだところを若い娘に見られたら、それなりに恥ずかしいかもしれない。じゅんはしゃがみ込むと、若者の羽織についた砂を払ってあげた。

 若者は赤くなったように見えたけれど、夕陽のせいということにしておいた。


「立てる? どこか痛めた?」


 客ではないから、口調も気楽なものだった。じゅんは本来、いつもこうだ。丁寧な話し方は性に合わない。そう思うと、見世では無理をしているような気になった。

 すると、若者はもじもじと地面に指で字を書くような仕草をした。どうにも内気な人だ。


「へ、平気だよ。少し落ち込むことがあって、それでぼうっとしていただけなんだ」


 声も優しい。やや高く男にしては可愛らしい声で、それを言ったら落ち込みそうな人だ。


「そうなの? 嫌なことがあったの? あたしとおんなじね」


 じゅんはしゃがんだままで若者に言った。じゅんは苦しさを分かち合える姉がいる。

 この人は誰にも受け止めてもらえなかったのだろうか。ただ肩を落としてさまよっていただけなら気の毒だ。つらい時、悲しい時は誰にだってある。


 じゅんは一度立ち上がると、片づけの途中だった屋台から海苔団子をひとつ手に取り、若者に手渡した。


「はい、これ」

「え?」


 若者は戸惑いつつ、団子とじゅんとを見比べる。じゅんはこの若者を励ますために精一杯の笑顔を向けた。


「売れ残りなの。よかったら食べて?」

「売り物だったら、ただではもらえないよ」


 変なところが真面目なようだ。気が弱いけれど善良で、きっといい人だと思う。こういう人だから、他人から頭ごなしに言われてしまったり、言い返せなかったり、鬱憤が溜まることも多い気がする。


「いいの。美味しいものを食べている時は嫌なことも忘れられるわ。うちのお団子は美味しいから、食べてみて」


 若者は、団子を見つめていたかと思うと、ぱくりと食いついた。それを飲み込むと、目に涙を浮かべながら呟く。


「う、うん。美味いよ、ありがとう」

「いいえ」


 じゅんはフフ、と笑った。嫌なこととやらを詳しく聞こうとは思わなかったじゅんだけれど、若者は立ち上がることもせずにぼそぼそと言う。


「私のおとっつぁんは商人で、跡取り息子の私は商いを学んでいるんだ」


 見るからに裕福そうで、それを聞いて納得した。じゅんは軽くうなずく。若旦那は団子の串を握り締めたままで続けた。


「でも、私よりも奉公人たちの方が要領よくなんでもできる。上に立つはずの私が足を引っ張ってばかりで、皆、呆れているんだ。それでも、おとっつぁんは私が遅くからできた一粒種だから、私にだけは大層甘くて、それが余計に滑稽なんだろうね」


 気弱な若旦那は、奉公人に侮られているのをひしひしと感じているらしかった。


「そんなの、皆は丁稚からずっといるんでしょう? 敵うわけがないじゃない」

「それは、そうなんだけど――」

「いきなり立派になんてなれないわ。その人たちだって、入り立ての頃にはそんな思いをたくさんしたんじゃないの? ねえ、奉公人の人たちともっとたくさん話してみたらどう? 商いの話じゃなくて、入り立ての頃の話とか、苦労したこととか。そこから見えてくることもあるんじゃないかしら」


 他人事だと偉そうなことが言えるものだと、じゅんは自分でも思った。他人よりもまず自分たちのことをどうにかしなくてはならないのだけれど、それはそれとして、目の前で落ち込んでいる人を放っておけない。


 こんな時だからこそ、誰かの役に立ちたかったのかもしれない。そんな力が己にはないとしても。


「話を、か――」


 若旦那は団子を手にしたまま呟く。何かを考えている。

 本当は、たったそれだけで上手くいかないことが滑らかに滑り出すとは言えない。それでも、向き合って顔を見ないことには何も始まらないのだ。まっすぐに顔を見れば、互いが何を思い、何を求めているのかがもしかするとわかるかもしれない。


 どう転ぶかは所詮、当人だけが握っている。誰の言葉も気休めでしかない。どうにか立ち上がる手助けになれば、それでもじゅんとしては上出来だと思う。


 若旦那は、やっと立ち上がった。立ち上がると、じゅんよりも頭ひとつ分背が高かった。弱々しくとも男の人なのだ。団子を片手に軽く砂を払い、若旦那は困惑気味にだけれど笑ってみせた。


「ありがとう、娘さん。皆ともう少し話をしてみるよ」


 その後に、怖いけれど、という本音が小さく漏れた。正直な人だ。じゅんはくすりと笑った。


「ええ、上手くいくといいわね」

「うん、団子もありがとう。また改めて礼に来るよ」


 ひょい、と団子を持ち上げて言うから、じゅんはかぶりを振ってみせた。


「いいの。お礼なんて要らないわ。売れ残りだもの」

「団子のことだけじゃなくって――」


 と、若旦那は気まずげに頬を掻いた。落ち着いてみると、転んだ上に弱音まで吐いて恥ずかしくなったのかもしれない。そう思えたから、じゅんはそれ以上言わずにおいた。


「じゃあ、あたしはそろそろ帰るわ。若旦那さんも気をつけてね」


 じゅんは手早く屋台を片づけると、それをからからと引いて動き出す。若旦那はそんなじゅんをぼうっと立って見送っていた。

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