第15話

 家に戻ると、思いのほか帰りが早かったためか、留が驚いていた。りんもじゅんが戸を開けた音で気づき、身じろぎする。


「おじゅんちゃん、早かったねぇ」

「うん、お留さん、ありがとう。姉さんも起きたのね」


 淑やかさに欠けるじゅんは、手ぬぐいと糠袋をぽいっとその辺りに放り投げると、串を打って手ぬぐいを被せてあった豆腐に木の芽味噌を塗り始めた。りんと留はきょとんとしている。


「実は、作造おじさんにわけを話して、豆腐田楽を湯屋の二階に置いてもらえることになったの。これから焼いて持っていくわ」


 いつもほど売れないとしても、これで材料のすべてを無駄にしないで済むのだ。りんもほっとしたことだろう。


「そうなの? じゃあ、私も手伝いうわね」


 すかさずそんなことを言うから、じゅんは首を大きく横に振り、留は起き上がりかけたりんの両肩を押さえて夜具に戻した。


「今日は駄目よ、姉さん。あたしがやるから、姉さんは休んで」


 休んでと、ここ最近で何度口にしたことだろう。留も大袈裟なほどにうなずいている。


「そうだよ、おりんちゃん。もどかしいかもしれないけど、休む時はちゃんと休まないと満足に働けなくなるものなんだよ」


 りんはそれでも手伝いたそうにしていた。それを我慢しているように見えるから、じゅんも可哀想になってしまう。けれど、これはりんのためだから。ここでまた無理をしてはいけない。


 じゅんは表で七輪に火を入れると田楽を焼いた。三十本分ある豆腐のうち二十五本だけを持っていくことにする。さすがに三十本は頼めないと思ったのだ。残りの五本は留と徳次の裾分けにしよう。


「姉さん、ここから何本かは作造おじさんや売り子さんに味見してもらおうと思うの。いいでしょ?」


 焼き上がった田楽を盆にならべ、埃が被らないように竹皮と手ぬぐいとを被せて持つ。


「ええ。作造さんによろしく伝えて頂戴ね」

「うん、いってきます」


 いつもの屋台とは違い、手で運ぶ。そう重たいわけではないが、じゅんは三町の道のりを張り詰めながら歩いた。

 再び湯屋の暖簾を潜り、番台で作造と顔を合わせる。作造は番台から下りてきてくれた。ふんふん、と鼻を動かす。


「おお、いい匂いがするなぁ」


 じゅんは照れ笑いを浮かべると、作造に盆を差し出す。


「今日はたくさんあるから、味見してくれてもいいの。それから、売れ残ったらそれも食べてくれていいから」

「おいおい、商売なんだからそんなこと言ってちゃいけねぇ。今日はもし売れ残っても買ってやるさ」


 などと優しいことを言ってくれる。嬉しいような、申し訳ないような心持ちだった。どうしてこう、皆優しいのだろう。世の中は厳しいし、悲しいことも起こるけれど、その都度、関わる人々があたたかく癒してくれる。


「ありがとう、作造おじさん。なるべく売れるといいんだけど」

「ああ、楽しみじゃねぇか」


 楽しみ。じゅんはというと、不安の方が大きかったのかもしれない。それが作造のひと言でフッと軽くなった。


 もしかすると、美味しいと評判になって富屋の名が知れ渡り、よく売れるようになるかもしれない。悪いふうに考えるのはよくない。楽しみに待とう。

 じゅんは笑って返す。


「そうね。じゃあ、明日の朝、お盆を取りに来るから」

「おお、おりんちゃんを大事にな」

「うんっ」


 そうしてじゅんは急いで家に戻った。留がりんを見てくれているが、留も自分の家のことをしなくてはならないのだから、いつまでも手を貸してもらうわけにはいかない。

 戻るなり、じゅんは戸を開けて留に頭を下げた。


「お留さん、長いことありがとう。用事は済んだから、後は平気よ。お菜もありがとう。田楽、お留さんのところの分もあるから、持っていってね」


 すると、留はなんとも言えず柔らかな目をした。母を知らないじゅんだが、母がいたらきっとこんなふうだったのだろうと思う。


「ありがたく頂くけど、水臭いことを言いっこなしだよ。困った時は頼ってくれていいんだから。あたしに手伝えることがあってよかったよ」


 体を壊したりんは、そんな留の言葉がいつも以上にありがたく、身に沁みて思えたようだ。顔の半分を夜具で隠して留を見送った。

 そうしていると、閉めた障子の裏に人影が見えた。留が戻ってきたわけではない。影の形で徳次だとわかる。


「邪魔してもいいか?」


 控えめに潜めた声がした。りんは恥ずかしそうだったけれど、じゅんは構わずに戸口へ向かう。きっと、あれからもりんを心配してくれていたに違いない。少しはよくなったかと様子を見に来てくれたのだ。


「徳次さん、どうぞ」


 本来なら、りんが寝込んでいるところに男など入れないが、徳次は別だ。じゅんはあっさりと中へ招き入れる。しかし、徳次は中へ踏み入ろうとしなかった。なるべくりんの方に目を向けないように横を向いた。そうした仕草に徳次の誠実さが滲んでいる。


 だからりんはこの人が好きなのだ。それを感じ、じゅんはなんともあたたかな気持ちになった。

 徳次は不意に、手に握っていた何かをじゅんに手渡す。それは小さな金物だった。


「やるよ」

「え? 徳次さん、なぁに、これ?」


 徳次は錺職人だ。何かを作ったようだが、じゅんにはそれがなんだかわからなかった。指が入る程度の小さな筒のようだが、ガタガタしている。

 これがなんなのか、じゅんがわかってくれなかったせいか、徳次は気まずそうに呟いた。


「横にするな。縦に見てみろ」


 縦に――。

 徳次に言われた通り、その小さな筒を縦に見た。そうしたら、その筒は花の形をしていた。小さな花だ。

 それでもぼんやりとしていたじゅんに、徳次はさらに言った。


「花の型だ。それがあればひとつずつ手で作らなくても抜き取るだけで花が作れる。少しは楽にならないか?」


 花咲饅頭の上に載せていた花をりんがひとつずつ手作りしていると知ったから、徳次はわざわざこれを作ってくれたのか。徳次も暇なわけではないだろうに。

 それでも、これがあればりんの負担はぐっと減る。

 じゅんは喜びのあまり、畳に膝で飛び乗ってりんにその型を手渡した。


「姉さん、これを徳次さんが作ってくれたのよ。これがあれば、姉さんも楽になるわ」


 りんは上半身を起こし、花の型を指先で確かめるように撫でた。職人の徳次の作ったものだから、花びらの形はどこを取っても歪みなく綺麗だ。


 これを徳次はりんのために作ってくれた。徳次に思いを寄せるりんが嬉しくないはずがない。とっさに言葉が見つからないのか、りんはぼうっとしていた。

 徳次はそんなりんに顔を向けず、下を向いたままでぼそりと言った。


「四文屋なら、その値に釣り合う品を売るもんだ。あんなに手をかけて四文じゃ安すぎる。それで体を壊していたんじゃ、何をやってるのかわからねぇだろう?」


 すると、りんの目から静かに涙が零れた。じゅんはその涙にぎょっとする。


「ね、姉さん?」


 じゅんが声を上げたからか、徳次も顔を上げた。りんは、徳次にもらった型を握り締め、胸に抱くようにしながら泣いていた。


 徳次はというと、自分の言い方がいけなかったのかと慌てているのが、少ない顔の動きからでもじゅんにはわかった。

 りんはか細い声を零す。


「今日一日、私はなんにもできなくって、どうしようもなく情けなかったの。それなのに、おじゅんは田楽を卸すところを見つけてきてくれたわ。お留さんからもお菜のおすそ分けを頂いて、徳次さんにもこうして気にかけてくれて、私、迷惑のかけ通しなのに、皆優しくって――」


 子供のようにぽろぽろと涙を零しながら弱音を吐く、そんなりんは珍しい。だからじゅんはりんの肩を抱き、背中を摩った。今だけはじゅんが姉になったような気分を味わう。


「姉さんは、あたしが倒れたら迷惑だって思うの?」

「え?」

「違うでしょ? いっぱい心配して、何かしてあげたいって思ってくれるはずよ。あたしだって同じだわ。だから、情けないとか迷惑だとか言わないで」


 りんの涙は止まるどころか溢れるばかりだった。けれど、それは悲しいからではないのだ。悲しい涙は我慢してしまうりんだから、嬉しい涙は流してほしい。


「ありがとう、おじゅん。それから、徳次さんも」


 涙を拭って、赤い目をして徳次を見ていた。それでもまっすぐな目が一途な心の表れのようで、そんなりんは綺麗だった。


「あの、また何かお礼を――」


 そう切り出したりんの言葉を、徳次は手を上げて遮る。


「んなこと考えねぇでゆっくり休みな」


 それだけ言うと、隣へと帰った。そういうところが徳次らしいし、素直に甘えられずに戸惑うりんも、りんらしい。そんな二人を見ていて、じゅんは歯がゆいながらに微笑ましくもあった。


「どうしよう、おじゅん」


 花の型を手の平に載せ、手を震わせている。器用なくせに、変なところが不器用な姉だ。そこがまた愛しいのだけれど。


「徳次さんがお礼なんていいって言ってるのよ。しつこくしちゃいけないと思うわ。ありがとうって気持ちでいたらいいんじゃないの? またお菜のお裾分けをして、いつも通りでいいと思うわ」

「でも、仕事の手を止めてまで作ってくれたんでしょう? なんだか申し訳なくて」

「うん、大事にしなくちゃね」

「それはもちろん――」


 色が失せていたりんの顔にぽっと朱が浮かぶ。もう大丈夫かな、とじゅんはようやくひと息つけたような心地だった。


 父が商売をしくじって流れ着いた長屋だけれど、二人きりになった姉妹にとって、ここにいられたことがありがたい。人との縁にじゅんは感謝した。

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